見花谷両見谷
          見花谷は喧嘩谷、とするのが正しい
          両見谷は了簡谷とするのが正しい
       
       
       
   見花谷と両見谷とは奇妙な部落の名前であるが、これは酒と賭博しか楽
しみがなく何かというと、了簡がならぬ(許すことができぬ)と喧嘩沙汰
に明け暮れていた昔の下財(鉱夫)たちの部落に対して、誰からとなく付
けられたものであろう。
  (旧別子銅山案内30ページ)
   
         
  見花谷、両見谷のことを調べると 明治32年の大水害の事しか書かれていない
こうした悲しい思い出の地のある見花谷、両見谷ですが訪れてみると 
谷の部落跡には植林が施されて、緑に覆われている。
しかし谷は 110年余り経っているが 岩や石がそのままの状態と思えるほど散乱している。
急な谷は 水は轟音をたて流れると言うより落ちると言った表現がぴったりだ。
こんな所にも人が住んでいたのかと思えるところである。
   
       

  見花谷   

      見花谷は、その昔、坑夫等が毎度の事ながら此の谷へ出ては
喧嘩したので、自然とこの名がつき、銅山が盛大になるにつけて
家が立ち並び、一部落をなしその部落名となったのである。
苗字が喧嘩という字では聞こえもよくないので
見花谷としたのであろう。
  (別子山村史 941ページより)

 
   2010/04/24 撮影    
         
       
   護岸の石積みが残って居る    7m余りの木の橋が架けられています。

 両見谷  

        両見谷は、見花谷の隣で、その昔、いつまでも
喧嘩してはいけない、了簡しようではないかという意味で、
小谷もあり、家も建ち並んで来たので此の名が自然に
ついたのであろう

別子山村史 941ページより
   2010/04/24 撮影    
         
       
  5.5mほどの橋なので広い谷ではないが、急峻な谷で平常は水が流れていない。   

 大水害 

   大水害
明治32年(1899)、8月28日、土佐湾に上陸した台風は石鎚山脈をこ
えて東予地区を襲い、昼ごろから降りだした雨は、しだいに豪雨となり、午
後6時過ぎから暴風雨となった。同7時半頃からその勢いは一層猛烈をきわ
め、8時半頃には最高潮に達し、全山山津波の状態となり、風呂屋谷、見花
谷及び小足谷の従業員住宅をはじめご嵩橋の製錬所・収銅所・倉庫などが、
一大音響とともに谷間に崩壊流失した。これはあっという間のできごとで、
山津波にのまれ、地すべりに乗って、老幼男女は家屋もろとも、濁水うず巻
く足谷川の激流に押し流されて行ったのである。家屋倒壊122戸、他に大
破37戸、死者513名、負傷者26名を出して、暴風雨は午後10時頃や
っとおさまった。
当時、鉱夫の長屋は、急斜面に木のやぐらを建てて、水平な床をっくり、その上に
建てられたものが多かったから、大出水に対しては一たまりもなく崩れた。
見花谷部落の被害か特にひどかったのは、両側の見花谷、両見谷の二っの沢が出水による
土砂で埋まり、部落上部に盗れた水が洪水となっておそったものである。
旧別子銅山案内 20ページ より
   
       
   見花谷の地勢は、後に山を負い、前は足谷川を轍し、西方に見花谷川あり。南方に両見谷川あり。
而して災後中間を貫通して本流に流下する一條の水流あるを見る。是れ曽て無き処のものにして、
見花谷川の新に分岐せしもの、又、前渓に凡そ一坪大の巨石墜落し居れり。是、亦、曽て
見ざる所のものなり。以って水勢の大なるを知るに足る。
別子銅山 242ページ より
   
       
   吹方部落(見花・両見谷部落)
見花・両見部落を一緒にして吹方部落としてみた。これはこじつけによる新命名ではない。かって
そう呼んでいたかも知れないし、またそうすることが特殊な集落構成の上から適当であると考えるから
である。
見花谷は喧嘩谷、両見谷は了簡谷とするのが正しい(別子銅山絵図)。この辺りに集落が出来たのは
開坑後間もない頃と推測される。
元禄の頃はこの辺りに銅蔵(粗鋼を保管する倉庫)が建ち並んでいて、その囲りを柵が取りまいてい
た。その後、宝永年間(1704〜1710)に至って床屋(吹所の前身)が建設されている。それま
での床屋は縁起の裏側(東側)にあったことは残倖からも明らかである。ここを上床屋といった。木方
の床屋が上床屋を吸収し、また吹所と名を変えたのはいつの頃か明らかではないが、何れにしても最適
の場所を選んで吹所をつくり、水利・燃料(木炭)等考慮して施設の整備統合がなされていった。そし
て、これに関係する者の柔落が発達していったとすべきであろう。
見花谷、両見谷部落の住人は吹所関係者であったことはいうまでもない。先に木方の項で木方吹所は
木方区画へ人れるべきではないと記したが、職場と労働力が密着していた当時の生産桟構から推考すれ
ば当然のことであろう。今一つ、葬祭に関しては両部落は合同で行なったというし、その証拠に五月の大祭
には両部落でつくった太鼓台が練り歩いたという。その垂れ幕には吹方と書いてあったに違いない。
見花谷部落は明治32年の大水害に遭い全滅してしまう(下記参照)のであるが、最盛期には30戸程もあったという。
両見谷部落はその遺構から推して、中央部には役付が居住していたのであろ.うか、今に立派な石垣を
残している。戸数は40〜50戸、あるいはそれ以上あったものと思われる。
明治の別子 99〜100ページより
   
       
      別子銅山と鉱業集落に関する総合研究048ページ 別子銅山部落の特色    
   明治32年に大水害があり旧別子撤退の様に書かれてある資料がありますが、
上記の人口調査でもわかるように衰退はしておらず むしろ最盛期の人口は明治38年が
ピークで、大水害時より増えて1万2千人と言われていますいます。
明治34年 見花谷・両見谷の人口は348人となっています。この狭い谷間に348人は
人口過密と言えます。本籍人口124人は今で言う住民票のある人で、寄留人口は
他の地域から働きに来て 取あえず住んでいる人、単身赴任者などと思われます。
   
       
       
   見花谷の上流部 曲がった所に橋がある。    両見谷の上流 滝に近い所もある 急峻
       
   水害の写真が残って居ます。「明治32年旧別子銅山水害記録写真 」 
       
   見花谷中部    見花谷を見渡す
         
       
   見花谷上部    
       
   参考資料   「別子大水害」 平成30年11月11日
       元別子銅山文化遺産課長坪井利一郎氏が講演をしている。
この時のレジュメが公開されている。水害内容・参考資料が
分かりやすくまとめられています。
       http://lib.city.niihama.lg.jp/besshi-douzan/kouza-h31/h30/