旧別子には火薬庫が7つあります。
詳しい資料がありませんので地図から推測しました。
住友発行の「別子鉱山全山測量係作成地図」です
全部で59枚からなる地図で明治35から41年にかけて
発行された物です。この地図に「四角いマークに火」
の記号があります。火薬庫ですね。
危険なので施設から遠い所に配置されています。    
  
別子銅山で明治3年(1870)から黒色火薬が使われています。
黒色火薬は着火時に大量の煙を放出する
坑内で大量の煙が上がったのではと思う 
煙を排出するのに時間がかかったことであろう。
「19世紀までは火薬といえば黒色火薬のことを指したが、
1886年にフランス人科学者ポール・ヴィエイユ (Paul Vieille)
が無煙火薬を発明すると、火薬の主流は黒色火薬から無煙火薬へと
急速に移り変わっていく。」と文献にあります。
  
 明治13年(1880) 別子に日本の鉱山で初めてダイナマイト使用されています 
ダイナマイトの威力は黒色火薬に倍することから、出鉱量が急激に増えていったようです。

銅山越には西と東に火薬庫があります 牛車道が出来たのが明治13年です 
それまでは火薬は人の背に負われて銅山越えを越えて入って来たと思われます。
牛車に乗せて運んだかどうかは不明です。

明治初期から大正5年の別子撤退まで 火薬庫は重要な施設になったと思います。
それぞれの火薬庫を探索しました。
いずれも登山道から外れていますので道はありません。
                 


      別子鉱山全山測量係作成地図  赤○が火薬庫
      

        @銅山越東の火薬庫 

銅山越の「峰地蔵」を西赤石への
登山道を少し行くと牛車道に出る
牛車道を下ると銅山越東の火薬庫
が姿を現します。

大きさは小さい方ですが 高さが
2.3mと高く要塞のようです。
中にある火薬保管用の台座は
周囲の壁面から90cmぐらいしか
離れていなく こじんまりとした
感じの火薬庫です。
 図面は縮尺通りではありません イメージ図です


他の火薬庫と違って外壁が高い
 
   . 写真は2011/09/24です。
木の葉に隠れて遠望が
ききません。

木々が枯れ葉を落とした冬場
もう一度訪れます。
谷側の石積みです。 石積みはあちこち崩れています。
 ここも時間の問題のようです

        A銅山越西の火薬庫 

銅山越の「峰地蔵」を西山の方向に
銅山峰西の船窪にある火薬庫
火薬庫にいると登山道で話する声が
よく聞こえる。
しかしこの火薬庫の存在を知る人は
とても少ない。

大きな火薬庫です。
高さは低い
新居浜から別子入る火薬は
この火薬庫に保管されたのでしょう
坑夫の不満を買うようになり、明治40年6月4日、遂に暴動の勃発を見るに至った.
それは、労働条件や労働環境の改善を要求するため、多数の鉱夫が団結して、
東延の採鉱課事務所に迫った際、採鉱課の課員が、万が一の変に備えるため、
急遽、事務所前に柵を作ったことが発端であるといい、暴動は一発のダイナマイトの
爆発から始まったそうである.
6月4日、暴徒は東延の採鉱課事務所を襲撃し、第一通洞南口の役局.、傭員社宅に
放火し、銅山峰の火薬庫を破壊し、火薬を持ち出した.六月五日には、東平の事務
所、工場、傭員社宅等を焼き、六月六日には、小足谷の傭員社宅の一部を放火した
.一方、傭員側は、端出場にて、愛媛県に自衛のためのダイナマイト使用の許可を得
るなど、武装して暴徒の来襲に備えていた
山村文化26号23ページ
 「やさしい別子銅山のあゆみ」高橋利光より


→→ 
 2011年9月24日、10:30 葉が茂ってわかりづらい 2010年4月4日、11:42 右側面 
  
→→
2011年9月24日、10:31  2010年4月4日、11:41 入口付近です
  
行く時期によって写真のイメージが変わりますね
概要を見るのなら晩秋から冬か早春になります。
銅山峰は気候が厳しいですから積雪時期はさけましょう
12月〜2月末までは雪があると思ってください。
中の台座は5m×7mと大きい
 

        B足谷川の火薬庫 



崖崩れの下の石垣が
足谷川の火薬庫です
それに関連して銅山峰ではもう一つ興味のある現象を看ることができる。それ
は土壌葡行といって表土そのものが徐々に移動するという現象だーこれについて
も既に伊藤隆之の指摘があるー。極相のところで、凍結・融解を繰り返して地表に
出てきた石片は、霜柱の影響を受けて斜面を移動すると述べたが、土壌葡行は表
土そのものが動くのである。銅山峰の南側に西山から流れ出す小さな沢がある。
その右岸の不毛地に一辺が8米ほどの火薬庫の跡がある。明治の中頃に造られた
ものと思われるから、もう100年は経過している。筆者はそれを火薬庫の跡
と知ったのは昭和46年に「明治中期の別子銅山復元図」を作ったときだが、そ
れより20年も前からその石囲いのあるのは知っていたし、一度はその中で風を避けて焚
火をしたこともあった。その当時は石囲いの高さは1米ほどもあり石積みもしっかりして
いたが、今では崩れて石囲いの跡をとどめる程度に変形している。これは明らかに石囲い
を載せたまま表土が葡行したもので、筆者の感じでは沢に近い部分は数10糎も葡行した
ように思う。
伊藤玉男著「あかがねの峰新版」167ページより
 
石垣が崩れて火薬庫の体をなしていません 他の火薬庫は林の中にあったのですがここは 背の低い木立の中にあります
 石垣の石も丸い大きな物ではなく 薄っぺらい板状の石のようです この付近で産出した石のようです。

        C西山下の火薬庫 

                                 未発見です

西山下の火薬庫は 図面では青い×
あたりにある予定でした。
探しても見あたりません。
下の谷から銅山峰まで登りました。
帰りも同じように下って往復しましたが
発見出来ませんでした。
木が茂っていて判りづらいのもありました
冬場に挑戦します。

地図から読むと標高は1320mぐらいです
銅山越が1295mですから銅山越より
高い地点と言うことになります。

      
  

        D見花谷の火薬庫 

   見花谷の火薬庫に行くには
パイプ橋から目出度町に向かう道の
すぐの所に36番鉄塔への標識があります。
これを登っていく。鉄塔に続く作業道です
鉄塔からは尾根づたいに行く
もちろん道はなく藪ですがわかりやすい。
草木のない広いところに出ます。
あたりを探索するとイゲタのマークの石柱が
確認できます。(立ってなく転がっている)
水平方向に北に向かえば火薬庫に行けます。

私は見花谷を遡りましたが 発見するまでに
ずいぶん苦労しました
谷を遡り藪を歩くので体力と時間が
かかりました

鉄塔から行く方が 見花谷を遡るより 少しは
楽ですし 迷わなくいけるでしょう


入口付近です 中の台座はしっかり残っていますが 
 
谷側の石垣 膨らんでいて上部は崩れています  全体のようす 木が茂ってわかりづらい
 
見花谷と両見谷は明治32年の風水害で壊滅的な
被害を受けました。この火薬庫は見花谷の上部に
あった為に山津波から逃れることが出来たのでしょう。

見花谷を遡りましたが石垣の跡はありませんでした。
ここにこんなに立派な石垣があるのは不思議なくらいです

 



        E金鍋の火薬庫 


入口付近です 火薬庫の内側から見た 入口付近
谷の方向です 谷の方が低くなっているので石垣が高い
全体をみる


        F東延の火薬庫 

東延の機械場から ほぼ水平に東に行くとあります。
少しだけ道はありますが あとは藪です。
東延からトロッコが通じていたようですが
面影もありませんでした。
火薬庫の下の方に索道の支柱が立っています。


東延の第一通洞南口から見える東延の火薬庫です。
望遠レンズで撮影していますので。目で見ると
もっと小さい。
入口付近 東延の火薬庫は崖の上にあるのでお城のようでもある
 
台座は煉瓦で出来ていました。周辺に瓦もありました
屋根は瓦だったかもわかりません
石積みの上の部分には 松の木などが生えている。


        その他の火薬庫 

旧別子にある火薬庫は施設から遠く離れたところにありましたが 旧別子以外の火薬はトンネルに保管していたようです。
場所も重要施設のすぐ横だったりします。 もっとも旧別子の火薬庫は大正時代までで トンネルは昭和48年の閉山まで使われていた。

筏津  山荘の横を通り突き当たり付近にある 東平 第3広場にあります。
  
端出場 観光坑道となっており多くの観光客が出入りする 御代島?