小足谷部落 | . | 登山口からの所要時間 30分弱 | |
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![]() 小足谷の水量は豊富 この清水を使っておいしいお酒が造られた 水の少ない山中にとって 貴重な水源 だったと思います。 ![]() 醸造所跡の看板の所を登ると 2〜3分で醸造所跡に出ます。 煙突があるのですぐわかります。 |
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小足谷付近の地図 「明治中期の別子銅山復元図」 伊藤玉男氏作成の一部を拡大 |
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明治30年代の小足谷 別子銅山風土記(近藤広仲著)より @は一番上の写真の場所 | |||
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泉敬太郎実家跡 新居浜市長であった「故泉啓太郎」氏の育った家跡です。 「泉啓太郎生家」と紹介されている書物もありますが 明治32年8月28日の明治の大水害のあとこの家に移り住んだようです 生まれたのは上の地図のとうり足谷川の向かいの家だった。 昭和時代後期の政治家。 明治32年1月8日生まれ。 愛媛県新居浜市で教員生活をおくったのち、 愛媛県会議員をへて昭和40年新居浜市長に当選。 社会党公認市長として5選をはたした。 昭和59年12月7日死去。85歳。 |
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小足谷が栄えだしたのは明治時代も末ごろからだった。 接待館・旅館・料亭採鉱課長の社宅などがあった。 石垣の上は 下記写真のように 広い空間になっている |
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![]() この林の中に 上記写真の建造物があったが 何に使われていたのかは わからない |
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採鉱課長の社宅 | ||||
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当時、山の全権を握っていた採鉱課長の社宅です。 写真で見るとおり 煉瓦塀を張り巡らせています。 今は その煉瓦塀のみが 当時を偲ばせる ものとなっています。 |
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![]() 屋敷あとは 何処からともなく樹の種が飛んで来たのであろう 大小の木樹が根を張り葉を伸ばしている。 |
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接待館付近から 採鉱課長宅に続く石段。 少しはくづれかけているが・・・・・ ![]() |
醸造所付近からも東壁がよく見える ![]() |
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![]() 採鉱課長の「渡辺友次郎」氏は どんな風景を見たのであろうか? 上記の当時の写真でもわかるように 付近には緑がなく 荒涼とした景色しか見えなかったに違いない。 いまは 煉瓦塀の十字型の穴から樹がみえ対岸が 見えまないほどの自然になった。 明治33年住友家2代総理事に就任した「伊庭貞剛」が 植林事業に精を出した賜物だろう |
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当時の写真の煉瓦塀から少しだけ 樹先を出していたのは この樹だろうか。 どっしりと根をおろし 時の流れを見張っているようでまある |
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別子銅山_合田正良著より 小足谷付近の遺跡 別子銅山の発見された元禄の頃から相当長期に亘って、銅山峯に近い歓喜坑のあたりを中心に栄えていた銅山の中 心が、江戸末期の頃から小足谷のあたりに移され、ために小足谷付近は繁華街のように栄えたのであった.. この小足谷には、当時、山の全権を握っていた採鉱課長の社宅を始め、接待館、八十戸に及ぷ社員の社宅、醸造場、 百貨店、旅館、料理店、円通寺、小足谷小学校(明治十九年創立)、土木課、小足谷劇場(収容能力三千人)、住友病 院等重要建物が建ち並んでいた。 そうして病院の対岸には別子村役場もあり、病院のあたりの山一帯には、昔、銅鉱を溶解した熔鉱炉の遺跡が一面 に並び、又、各種の工場が軒を並べて建って居たのである。 小足谷に山の中心があった頃は、一万二千人に及ぶ人々が別子の山で働いていたのであった。 別子開坑以来二百数十年、繁栄に繁栄を重ねた旧別子も埋蔵鉱量いよいよ乏しく、ために重要施設が大半嶺北の東 平に移されつつあった時、たまたま大正三年、小足谷小学校から発した失火のため、小足谷にあった各種の施設も東 平に移転され、又、旧別子本舗(目出度町)の施設も次々に東平に移されて、嶺南、旧別子の銅山は、年々に荒らさ れて、全く廃塘と化してしまった。 鉱石を焼く熔鉱炉の煙に焼野原の如く、山肌の荒れていた別子の山、それを「別子の山を昔の緑の山にして返せ」 と、提唱した伊庭貞剛翁の努力が実を結んで、見渡す限り落葉松に覆われ、又、昔の社宅跡、事務所跡には、当時の 庭木がそのまま成長繁茂して今は全山緑の密林と化し、華やかであった、別子の昔を偲ぶによすがもない。然し、二 百余年の間に別子に来て働き、又、別子の土地に死んで行った幾千の人たちの骸、それらの人の墓は、密林の中に苔 むして無縁仏と化して詣でる人もなく、淋しく眠っているのも、何んとなく哀愁を覚えるものがある.、 |
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