目出度町    別子開坑二百五十年史話には目出度町とせず芽出度町とある
  
  
       
        ここから 目出度町に行くことが出来る
少し道は悪い所もあるが 危険な所はない。
       
       
        目出度町鉱山入口
ここから足谷川の源流(風呂屋谷)を渡り、蘭塔場の裾を廻
って土持谷を過ぎると広大な平坦地に出る。
今そこは深い森の中だが、かっては別子銅山の中枢で勘場という
大きな建物があった。
大阪の泉屋本店から派遣された支配人や手代衆が多数詰めめていた。
また、勘場には銅倉や食料庫・資材庫・来客接待所などが附属していて、
その周辺は厳重な柵が廻らされていた。
勧場の下の方はいわゆる目出度町という商店街で、今日のデパート
にあたる伊予屋を始め料亭一心楼、饅頭の奥定商店等々軒を連ね、
さらに郵便局や小学校まであり、銅山本部の下町的存在であった
       
       
明治中期の小足谷の地図です

「明治中期の別子銅山復元図」
 伊藤玉男氏作成の一部を拡大し
 引用させて頂きました。

戸数は凡そ三十戸程度で、
住人は主として商売関係者であったと言う。


赤い線は現在の登山道
   
 @蘭塔場  A大山積神社 B住友病院 
殆どの家の屋根はカヤ葺きと皮葺ですね。
張盤の上に建てられた家屋が多いのに気が付きますね。
張盤とは崖など急斜面に丸太などで下から支えその上に家や道を築くものです。
旧別子は平地が極端に少なく石積をして家を建てたのですが、通行の道までは
確保できず 張盤による道が多かった。
  



明治23年の住友病院  住友史料館報29号44ページより
住友病院である。玄関脇の看板に「住友病院」と読め、
集合人物のなかに頭と腕に包帯を巻いた患者が見える
住友病院の歴史

幕末から明治維新期にかけて「医館」という診療所がありましたが、
明治7年(1874)8月に廃止されました。
その後、足谷小学校の近くに建てられたものが私立住友病院で、これが、
今日の住友別子病院の起源です。
歓喜の鉱山27

明治16年、旧別子の目出度町に設置された医療施設が現在の住友別子病院
の起源である。ここには入院治療の病室も整っていた。
収釧所跡には大正の初め病院が移されたが、大正3年小足谷の火事で焼失した。
旧別子銅山案内_033

明治17年目出度町に創立
その後 木方重任局跡に移転
大正初め高橋溶鉱炉後に新築移転
大正4年廃止
別子銅山の思い出
 現在の住友病院跡
     
病院跡付近にある水取場 岩の裂け目に沸いている 清水が湧いている。石囲いがあったのだろうが崩れている
   
風呂屋谷にかかる橋 大きな瓶が残っている 近くにもう一つ埋まっている
   
土持谷に牛車を通すために頑丈な橋が架けられていた。これが永久橋である。永久たり得ず今は跡かたもないが、
この橋の両岸にあった集落が永久橋部落である。明治の頃は主として役場関係者の住居であって、戸数はせいぜい
十戸程であったものと思われる。戸数が少ないのに部落名が付いていたのは、
鉱山従業者と区別する必要があったからかも知れない。明治の別子95ページより
     
公衆浴場跡付近 広い階段が残っている 公衆浴場跡付近
   
料亭一心楼跡 別子山村郵便局跡 愛媛県下で19番目 うどん屋荒久こと荒木久太郎氏宅跡