上記の地図は別子銅山開坑以前の地図である 出所は山村文化4号22ページ 塩田康夫氏の「岩屋 赤石越えの道」の中で使用されている。 「推定される」とあるので塩田氏の推論でしょうが赤い線が第二次泉屋道と思われる 。伊藤玉男の持論は第二次泉屋道は無かったとして東平を通る道を第二次泉屋道としていますが私は第二次泉屋道は存在したが使われなかったと言う考えで第二次泉屋道と言う名前は雲ヶ原を越えていく道に使います。 |
「別子開坑二百五十年史話」では第二次泉屋道を、別子本鋪-雲ケ原ー岩屋-石ケ山丈-新居浜浦口屋としていますのでこのルートを使用します。元禄15年~寛延2年(1702~1749)までの47年間も使用さたとありますがこれは支持しません |
前赤石山と物住頭の鞍部に「雲原越」があります。この道は土居に下る道で泉屋道とは関係ない道であると思われますがこの道はこれから探索になります。 |
上記地図は「別子開坑200年史話」の巻頭の絵図の一部です 第二次泉屋道と分かりやすく書きましたが、「元禄十五年ヨリ寛延二年迄ノ旧道」とあります。 実に47年も使用した事になります。実際は泉屋道としては使われなかったと思っています。 炭の道やその他運搬道としては使われたようです。第三次泉屋道は「寛延二年から明治一四年迄ノ運搬路」とありなんと131年使っています。明治14年は目出度町~新居浜間に牛車道完成した年です |
雲ヶ原まで歩く | |
上部鉄管道と下部鉄管道を調査した時 この道の存在には気がついていました。 もう地図にも載っていなく ほとんどが藪道であることが想像できます。 意を決して行ってみました。 赤い線がその軌跡です |
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第二次泉屋道は出発点は銅山越からとなっている地図が多いが銅を運び出したのだから勘場が出発点と考えられる。私の歩いた②の地点から等高線を西に追っていくと銅山越に突くつまり水平道だ。 第二次泉屋道として開発するなら勘場からわざわざ銅山越に向かって直登し水平に歩かなくても 歓喜・歓東坑から徐々に高度を上げながら②の地点に出るのが疲れず早くいけると思う。 下記の道があるのではないか 私の持論です。 |
どちらも現代の地図に載っていません が機会を見て歩いてみたいと思っています。 銅山越から②の地点まで まだ歩いていないが(青い線)踏破したら報告します | |
①の地点 水平に行けば上部鉄管道です | ②の地点 ここから第二次泉屋道に入る |
植林地帯の伐採地です 私の足でこの伐採地を抜けるのに20分かかりました。道がわからなくなるのが難題で探しながら進むのが大変また 伐採された木を乗り越えるのも大変。 | ③の地点 広場に到着 石積みの跡もあり休憩地だったのかな? |
④の地点。石垣がありました。道の石垣は初めてです。昔は石垣があったのかもわかりません | ⑤の地点 快適に歩きます。とことどころ落石崩れはあります。 |
⑥の地点。谷に出ました。水はありませんが大雨の後など渡るのに大変かな | ⑦の地点。谷を過ぎた辺りから道は高度を上げ始めました平坦だった道が 坂道になってきます。 |
⑧の地点 快適とは言えないまでも藪もなく足を進める 物住の頭と前赤石山が見える | ⑨の地点 だいぶ藪いてきました。GPSの標高は1477mです 雲ヶ原は1525m もう少し |
⑩の地点 下に道はあるのですが 藪です | ⑪の地点 30分歩きました ずーっと藪です。いやになります。竹が背丈を完全に越えています。 |
②地点の出発が8:42 ⑫地点の到着が12:08 3時間34分かかりました。 |
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思った所の雲ヶ原に到着しました。 約1時間の藪こぎ 疲れました。 |
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地図で確認 |
現在の地図では 「西谷川」と「種子川」となっていますが いま種子川と言えばほとんどの人が魔戸の滝のある西谷川の川と思っています。混乱を避けるために このホームページでは西谷川を西種子川 種子川を東種子川の表記で統一します ご了承ください。
大きな赤丸は山の頂です。明治41年当時の測量は現代のように正確ではありません。ただし山頂の位置は正確で現代の地図にあわせるとピッタリと一致します。しかし 川の流れや尾根の張り出し具合などは目測による記入だったのか大幅にずれる場合があります。 |
この地図は明治41年の種子川周辺の地図です。 この道を解説すると 東種子川を谷沿いに遡り谷が2つに分かれる所を少し行ったところで尾根を越えて西種子川に行く 魔戸の滝の上部に着くそこから西種子川沿いに遡行し西赤石山直下で兜岩をまき西赤石山の西を通り旧別子から続く道に合流する。 |
現在の地図に明治41年の地図の谷(青色)と道(赤色)を、そのまま重ね合わせました。 現在は西種子川沿いに林道がつき 魔戸の滝付近を経由して、東種子川の上部まで行けるが 明治41年当時は西種子川には、道が無かったようです。 |
明治41年の地図に載っている 川と道を 現代の地図に置き換えたのが左記の地図です。 |
雲ヶ原から営林署作業小屋まで |
雲ヶ原から営林署作業小屋まで間の道は、もう消滅して見つからないという事です |
赤い線は明治41年の地図にある道。緑の線は 私が歩いた道です。 営林署作業小屋までは道がありました。それから上は探したけれども見当たりませんでした。適当に沢を登ってみました。 営林署作業小屋 1270m 私の行った所 1320m 雲ヶ原 1525m |
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1320m地点の写真 | |
営林署作業小屋から岩屋まで | |
川沿いに石垣があり 営林署の作業小屋があった いつ頃からあったかはわからない。 またこの石垣が第二次泉屋洞時代の物であったかどうかは今後の調査の課題になるが 昭和の時代かもわからない |
屋根の残る営林署作業小屋。 五右衛門風呂が残っていた。 | |
立派な石の道がある 昭和の匂いがしますね | 道は荒れてはいますが 歩ける程度です |
人が通わないのでしょうね | 笹道はの笹が伸びています |
この辺で道に迷いました。作業道があります。谷沿いの道ですので谷から大きく外れる事はありません | 炭焼きの跡 |
古道かなと思う痕跡を見つける事がありますが・・・ | 岩屋の裏側の山にあったアケボノツツジ |
岩屋 | |
赤丸は「幅廣に十數段の石磴」の箇所 いま、當年開設の新道路なるものを、親しく踏査するに、爾来春去秋来すでに二百三十餘たび、その迹は空しく萎々たる雑草に埋れ果てて、こころなく過ぎれば、ほとんどそれと見分けるよすがもないほどである。ただわずかに残された文献をたよりに、別子山東延より西赤石の峰を左にとり、つまさきあがりの逕を辿ること一里半餘にして、西赤石と東兜を連ねる中間の尾根に出る。これよりさきは、ひたぶるに地勢を按じ、記録に謂はゆる石ケ休場を石ケ山丈と推定して、東兜を右に、西赤石の山腹を谷間へ向って十數町下ると、谷はいよいよ迫逕って逕まさに窮らむとする邊、天空を劃して峭立する大巖石に行き當るのである。 ここは古来、樵夫等が岩屋と呼んでいるところ、逕は紆曲してこの大巖石の腹に通じ、そこには幅廣に十數段の石磴を築いて人の往来に便じてあるのが見られた。実に堂々たる立派な石磴である。その蒼然として風化せる跡は、歳月を経るのすでに久しきを示すと共に、これが往昔大別子の銅山路であったことを知らしむるに十分である。そればかりではない。 谷間の流れに今はわづかに板を渡した橋際にも、蔓生する草むらの中から疊みあげた舊い石崖が見られるのであって、山中に似合わぬその規模や結構は、別子の出銅最もさかんなりし當年を偲ばしむるに餘あった。 (別子開坑二百五十年史話 141ページより) |
二百五十年史話にある写真 | ||
岩屋の正確な位置 どの書物にも正確な位置の地図がなく困った |
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邦光史郎作「住友友王国」の中に この岩屋が登場する場面がある。 山村文化の4号18ページからの 「岩屋-赤石越えの道」で塩田康夫氏も指摘しているが私も同意見なので紹介します |
何しろ、立川鉱山は、別子との山争いに敗れて以来、全く衰微してしまい、それまで鉱山を経営していた真鍋弥一右衛門は入牢を命じられて、今では大坂屋久左衛門が稼行主となっている。 「おーい別子銅山から仲持ちがやってくるぞ」.山蔭に隠れた見張りの報告で、立川側の鉱夫たちは、畳々と山腹に設けられた石段道の上に、油を振りかけた。 それも岩屋と称する道中最難所の石段道に、上から油壷を傾けて流し込んだ。 「よしよし、分からぬよう木の葉を撒いておけ」渡り鉱夫の中でも札つきの悪党が、にやりと片頗に無気味な笑いを浮かべつつ、油光りしている石段道に枯れ葉の偽装を施した。 とは知らず、別子から新居浜へと向かう中持たちは、長い列をなして、西赤石の峻険を下ってくる。別子の中持は、御用中持といって、幕府御銅山師の威光を背負っている。だから、道中、御用中持に出会った百姓町人は、道を譲らなくてはならぬという程権威をもっていた。 といっても、重い銅材を負い籠に入れて、エンヤラサ わざと山道を上り下りしてくるのだから、容易な業ではない。先頭に立っていた先達が、一行を振り返って声をかけた。 「おーい、皆の衆、いよいよ難所にさしかかるぞ」 高々と力杖を振り上げて一行の注意を促した。 何しろ荷の重さに顔も上げられない者がまじっているから、うっかり石段を踏み外すと、それこそ地獄へ逆落しとなってしまう。 「さア、行くそ!」 声を励ましつつ、先達が、数十段もつづく自然石の一段日に爪先を下ろそうとした。 けれど、きれいに石を切って積み上げたものではなく、細長い自然石を積み重ねてあるにすぎないから、角が丸くなったり、下向きに傾斜していたりして、まことに滑りやすい。 だが、毎日通い慣れている先達は、どの辺に足をかけたら安全かということをよく知り抜いている。 そこで、自然に窪んだあたりへ、ひょいと爪先を下そうとすると、どうしたことか、つるりと滑った。 ーおや、これは……。 しかし、後がつかえているから、一箇所に長くとどまってはおれない。危ぶみつつ、そのままなおも下りていった。 急な登り坂を胸突き八丁などというが、切り立った岩坂に自然石を積み上げただけのこの岩屋道を、十数貫もある重い荷を背負って運ぶ場合、危険はむしろ上りより下りにあるものといってよい。 雨も降らぬのに、この滑りようは、こりゃとても只事じゃないそ。そう気づいて、彼は頭をめぐらした。 「おーい、足許がおかしいゆえ、引っ返した方がよさそうじゃ」 だが、もう遅い。すでに十人余りの中持が一段ずつ、石段を下ってくる。 すると、中程の一人が、これなら安全と思って、石段に積った枯葉の上へ足を下ろそうとした。 ところが、どうしたことか、草鞋の底が枯葉の上に届くや否や、つるりと滑った。 「わーッ!」 安定を失い、背中の荷の重さに押されて、どっと前へつんのめった。 けれど、そのつい目の下に別の仲間の背負った重い荷が突き出ている。 たちまち、その負い板の先にぶつかって、仲間を突き落す形となった。だが、そのため、どどッと、四、五人の中持が連続して落ち、それも狭い石段の上のことゆええ、避けようもなく、先達の背中めがけて、四、五人が積み重なってきた。 「わあッ!」 たまらず先達は、もんどり打って、石段下へー。だが、弾みのついた身体は、そこにも止まらず、そのまま千仞の谷底めがけて、吸われるがごとくに落下して行く。 「あっ、こりゃいかん!」 危うく難を逃れた者たちも、転落して行く仲間を救わんとして石段を下りかけ、その浮き足立った足を取られて、さらに数人が石段下へ転げ落ちていった。 まだ石段にさしかかっていなかった中持たちは、顔面蒼自となって、立ちすくんでいる。 「こりゃいかん、引っ返せ!引っ返して救けを呼ぶのじゃ!」 あわてて、元きた道を別子の方へ駈け出していった。だが、その隙に、石段下へ近づいていった黒影がいくつかあって、彼らは腐肉獣のごとく死傷者のかたわらに忍び寄って、投げ出された銅鉱石を拾いはじめた。 「どうじゃい、ざっとこんなものじゃ」 髭面が得意気に別子側の死傷者を見下している。 「フソ、ついでに三途の川の渡し賃を頂いておくとするか」 まだ瞭きもがいている傷者の懐中を探って、血に染んだ巾着を奪うと、 「そら、成仏しろよ」 とばかり、足を上げて谷底へ蹴落してしまった。そのため、ようやく別子から救援隊が駈けつけた時、 もはやそこには死傷者も散乱した銅材も全く影を留めていなかった。 「なんと……」 彼らは、油を流した石段を発見して地団駄を踏むばかりであった。 この記述から窺えることは、この作者は決して岩屋の現場には行っていないということである。なぜなら、岩屋の石畳はたかだか五メートル程の高さしかなく、たとえ滑って転げ落ちても、荒銅を背負っていれば、骨折くらいはするだろうが、先籾の谷底へ落ちてゆくことは有り得ないからである。 この岩屋のフィクションもさることながら、この本では、立川銅山は別子銅山との対立関係において、徹底して悪者扱いされており、元禄七年別子銅山の大火災についても、被災を受けた泉屋すら当時否定した立川銅山放火説に基づいて物語を展開している程である。(山村文化の4号21ページからの 「岩屋-赤石越えの道」で塩田康夫氏より) |
岩屋は歴史的に見て 重要な場所でもありますが いかに小説だから言って 歴史の事実と異なる登場は許しがたい「引っ返せ!」と叫ぶ前に 仲間を助けに行ける場所でもある。 また この道 第二次泉屋道は銅を背負っての通行はしていません。もっと楽な銅山峰から遠登志に降りる。第三次泉屋道の通行が許可されていたからです。 種子川村や近郊の村からこの道を通って別子銅山に物資を運んだ道だと思います またこの付近で炭焼き釜の跡が多く見られました。炭を運んだ道かもわかしません。 岩屋は谷の中を通行する道です。雨の降ったあとは水が出て通行止めになったのではないかと思います。 |
岩屋から魔戸の滝の西尾根まで | |
帝国陸軍測量部が明治41年に作製した地図に岩屋を通る道が記されている。破線で記されているのであまり活用されていない道だったかもわかりません。 東平街道は二重の実線で記されています。この地図によると 岩屋から西種子川を下り魔戸の滝上部の谷が大きく曲がるあたりから魔戸の滝の西の尾根に向け等高線を這うように道があります。 「奥魔戸の滝」「末広の滝」などがありますのでかなり険しい道だったと想像されます |
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まだ歩いていませんので 右岸の道か左岸の道かもわかりませんが 「想像する道」として地図に書き込んでみました。 赤い線は一部藪になっているところもあるが私が歩いた道です。 |
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魔戸の滝の西尾根から 東種子川へ | |
林道から東種子川までを歩きました。今は西種子川沿いに道がついていますが明治41年の地図には魔戸の滝付近に道がありません。 現在の地図で破線で記されていますが実際は道がありませんでした。 GPSを頼りに歩きました。 |
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林道です。魔戸の滝下で崖崩れのため通行止めに なっていづのでここ何年か車は通っていません |
この場所から道があり下れるようになっています |
道はありますがすぐに東に進み北に下る道とは 違うので道筋を外れる |
植林地帯の中に石崖の跡があります道だったのかはわかりません |
危険を感じることなく降れます。 | 谷沿いの細い道に出ました。 |
この先で東種子川は2つに分かれる | 谷沿いの道 |
林道終点付近 道が崩れて車はここまで来れない | 無事下山 悪路を引き返す乗用車 |
万治4年(1660)に新居浜郷土史談会が発行した 「天領29ヶ村明細帳」と言う小さな本がある 土居大庄屋加地家文書の中からこの部分をまとめたようです。 「種子川山村」の項目があり詳しく村の事が記載されています |
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万治4年(1660)に検地を行っていますので別子銅山が誕生する30年前のことになります 家数 42軒 内41軒は百姓 1軒は堂 人数 214人 男130 女84 牛 13疋 馬1疋 |
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種子川山村と別子銅山を結ぶ最短の道だったのだろう。 |
制作 2012年12月22日 | |