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岩佐巌 |
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イワサ イワオ |
1852〜1899 |
ドイツにある鉱山学校に入学した最初の日本人は福井藩出身の岩佐巌である。1877(明治10)年に帰国して,開学したばかりの東京大学の冶金学とドイツ語の教授となる。 その後,住友の別子銅山に勤務した。明治18年に東京大学を辞職し19年に別子銅山に勤務した。岩佐は山根製錬所の建設を指揮。新居浜製鉄所を建設するなどしましたが、別子の鉄はコストが高く採算が合わないということから住友を辞職 |
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伊庭貞剛 |
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イバ テイゴウ |
1847年2月19日(弘化4年1月5日)〜1926年(大正15年)10月22日 |
滋賀県近江八幡の生まれ。叔父の広瀬宰平の後を継いで住友の近代化を成し遂げる。
重工業化の路線をしいた。伊庭は「心の人、徳の人」で伝記「幽翁」は住友精神の糧とし
ていまもなお読み伝えられている。 |
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大島供清 |
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オオシマ トモキヨ |
1848〜不明 |
明治11年2月、広瀬総理代人は工部省鉱山寮の技師大島供清を雇い入れることにし、東延斜坑や小足谷疎水道、その他運搬車道の測量を命じた。御代島築港および灯台建築、高橋熔鉱炉建築にも関与していた。
明治11年12月土木方長、13年8月重任局詰、15年3月理事となっている。
明治27年1月住友を辞職し、広瀬総理人の方針は時代に合わないとして強く批判して、その辞職を迫った。 |
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小川東吾 |
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小倉正恒 |
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オグラ マサツネ |
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明治8〜昭和36年(1875〜1961) |
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明治8〜昭和36年(1875〜1961)小倉正恆石川県金沢市出身。明治32年山口県参事官を辞して住友に入る。昭和5年総理事となるが、その経営方針は合議制を重視し、「寛容の人」「春風のごとし」と評された。12年住友合資会社を株式会社に改組したが、16年近衛内閣に請われて住友を辞して入閣し、国務大臣、ついで大蔵大臣となる。 |
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河上謹一 |
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カワカミ キンイチ |
安政3〜昭和20年(1856〜1945) |
山口県出身の実業家。日本銀行理事まで進み、総裁候補と目されていたが、明治32年辞任。同年伊庭貞剛は総理事心得を辞し、同格の理事として河上を住友に迎える。翌33年河上は、住友家会計規則をまとめ、会計の近代化に尽力。37年伊庭とともに住友を辞職。終生伊庭の「心の友」であった。 |
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川田小一郎 |
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カワタ コイチロウ |
1836年10月4日(天保7年8月24日)〜1896年(明治29年)11月7日 |
1836年10月4日(旧暦では天保7年8月24日)土佐国土佐郡旭村(高知県高知市)生まれ。
三菱創始者岩崎弥太郎の片腕として活躍。土佐藩に出仕後岩崎弥太郎を知り、九十九商会時代から弥太郎の配下で管事となって事業を助け、同僚の石川七財と並んで三菱財閥創業期の功労者と称せられている。おもに海運関係を担当した石川に対して、別子銅山官収の経験を生かして鉱山、炭鉱関係の事業を推進し三菱の基礎を築いた。
川田と石川とは弥太郎の共同経営者の地位を与えられていたが、1885年(明治18)弥太郎の死後三菱の第一線から退き、閑静生活を送っていたところ、松方正義の推薦によって、1889(明治22)年9月3日、第3代日本銀行総裁就任となり、日本経済発展のために尽力。
さらに帝国議会開設と同時に貴族院勅選議員になった。また、日清戦争後、政財界での功績を買われて男爵を授けられた。1896(明治29)年11月7日、日銀総裁在任中に急死した |
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田川順 |
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カワタ ジュン |
1882年(明治15年)1月15日 - 1966年(昭和41年)1月22日) |
漢学者・貴族院議員の川田甕江の三男として東京市浅草区生まれ。東京大学文学部に入学後転科し、1907年東京大学法学部政治学科卒業。同年大阪の住友本店に入社。30年常務理事となり、36年筆頭重役を最後に退職。佐佐木信綱に師事し、住友在職時より『新古今集』の研究でも活躍。1942年第1回芸術院賞、44年朝日文化賞受賞。歌集多数のほか、『住友回想記』(中央公論社、図書出版社ほか)の著者としても知られる。(住友グループ広報委員会より)
別子山に歌碑がある「朝山の 入坑時刻のざわめきの しばらくにしてほととぎすの声」 筏津坑口
「赤石のやまほととぎす落葉松木づたい鳴きて高くわたりぬ」保土野 |
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久保無二雄 |
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コワニエ |
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フランシスク コワニエ |
(183〜1902) |
フランスより招聘された御雇(おやとい)外国人技師。 兵庫県・生野銀山(生野鉱山)の近代化に尽力の傍ら、日本各地の鉱山調査を行った。
1872年(明治5年)広瀬宰平の要望により別子視察をしている |
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西園寺公望 |
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サイオンジ キンモチ |
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嘉永2〜昭和15年(1849〜1940) |
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明治〜昭和前期の政治家。陶庵と号した。徳大寺公純の次男として京都に生まれる。
15代友純は実弟である。明治39年と44年の2回内閣総理大臣となり、大正8年にはパリ講和条約の全権としてベルサイユ条約に調印する。その後は元老となり、政界に重きをなした。 |
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塩野門之助 |
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シオノ モンノスケ |
1853(嘉永6年)〜1933(昭和8年) |
島根県出身の鉱山技師。住友最初の海外留学生。明治7年鉱山技師ラロックの通訳として住友に入ったが、ラロックの帰国後、9年から約5年間フランス留学。帰国後、惣開製錬所や四阪島製錬所を設計・建築した。途中、古河の足尾鉱山にも勤務して、わが国で初めてベッセマー転炉を実用化した |
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白石誉二郎 |
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鈴木馬左也 |
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スズキ マサヤ |
1861年4月3日(文久元年2月24日)〜 1922年(大正11年)12月25日 |
宮崎県高鍋町の出身。9歳で養子となり、13歳まで明倫堂に学んだ。
明治29年伊庭貞剛の勧めにより農商務省参事官を辞して住友に入る。44歳で総理事になり、肥料製造所・大阪北港を設立し、日米板硝子・日本電気の経営に参加した。家長友純の信任も厚く、大正10年住友総本店を合資会社に改組した。
つねづね住友は「正義公道を踏んで、国家百年の事業を計らねばならぬ」と語った。 |
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住友友純 |
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スミトモ トモイト |
1865年1月18日(元治元年12月21日)〜 1926年(大正15年)3月2日 |
住友家15代目当主。茶人、風流人としても有名で号を春翠と称す。男爵であり、東山天皇6世孫。 |
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住友友以 |
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スミトモ トモモチ |
1607年〜1662年 |
蘇我理右衛門の長男で政友の娘婿として住友家に入った住友友以は、大坂に進出、父理右衛門と協力して同業者に「南蛮吹き」の技術を公開した。これにより住友・泉屋は「南蛮吹きの宗家」として尊敬され、同時に大坂はわが国の銅精錬業の中心となる。 |
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蘇我理右衛門 |
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ソガ リエモン |
1572年(元亀3年)〜1636年(寛永13年) |
住友財閥の業祖。歳若くして銅吹き(銅精錬)、銅細工の技術を堺で習得し、天正18年(1590年)、19歳で京都寺町五条に銅吹きと銅細工の店「泉屋」を開業。粗銅から銀を分離する新技術「南蛮吹き」を完成させる。住友財閥の家祖、政友の娘婿として住友家に入った実子・住友友以と図って大坂に進出した。
妻は住友政友の姉。寛永13年(1636年)65歳で没。 |
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中田錦吉 |
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タナカキンキチ |
元治元〜大正15年(1864〜1926) |
秋田県大館市の出身。明治33年東京控訴院部長を辞して住友に入る。大正11年総理事となり、生命保険、信託業など金融店部の展開や本社ビル建築に尽力した。13年社員55歳、重役60歳の定年制を布き、14年それに従い総理事を辞任した。元法律家らしい引き際であった |
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田向重右衛門 |
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タムキ ジュウエモン たむき たむけ 両方の呼び名が使われていたが最近はたむきに統一されている |
承応3〜享保9年(1654〜1724) |
住友家の手代。法名道智。備中吉岡銅山の支配役を勤めるとともに、元禄3年(1690)秋には、別子山中を踏査し、鉱脈を確認するなど、別子銅山の開坑にあたって重要な役割を果たした。これらの功績によって田向重右衛門は別家の重要な名跡となり、代々襲名した。重右衛門が別子銅山に初めて訪れた時の事を記した「予州別子銅山初発之書付」は別子銅山記念館に展示されている。 |
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長兵衛 |
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チョウベエ |
別子銅山開坑二百五十年史話55ページに「元禄3年秋のことである。時の住友家吉岡銅山備中の支配、田向重右衛門は、圖らずも阿波生まれの長兵衛という廻切夫から、・・・」の文章がある。この本が昭和16年に住友鉱山から発行され、切上り長兵衛がクローズアップされた。しかし現在の住友グループでは「切上り長兵衛は実在の人物か否かはわからない」 とされている。しばらく動向を見守る必要がある。 |
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中田錦吉 |
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南光院快盛 |
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ナンコウイン カイセイ |
別子銅山開坑二百五十年史話117ページに「傳説に據れば、別子山村字白尾南光院の開山阿遮梨快盛法印といふ偉僧が、足谷の山中にあらはれ、銅山方と協力して、坑場の復興に當つたのは、右の大火災の年以來のことであった。」と記されている。
別子銅山で多くの人が山中で病気・災害等で苦しんでいることを聞き、元禄7年3月別子山中に入った。宝永3年(1705)9月5日入寂し、その遺言により除に埋葬され、そこに建立されたのが南光院である。 |
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広瀬宰平 |
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ヒロセ サイヘイ |
文政11年5月5日(1828年6月16日)- 大正3年(1914年)1月31日)87歳で没 |
滋賀県生まれ。11歳のとき住友家に仕え慶應元年(1865)に39歳で別子銅山の総支配人となる。明治維新に住友家存亡の危機を見事に対処。次々に多角化を進め製茶・製糸・樟脳・製紙・石炭などに手を広げ、白水丸はじめ何隻もの汽船を購入、建造し運輸を始め、新居浜の築港、並合業(抵当による貸金業)、大阪堂島に倉庫をつくるなど基盤を固めた。 |
著書 半世物語 |
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古田俊之助 |
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フルタ シュンノスケ |
明治19〜昭和28年(1886〜1953) |
京都市の出身。明治43年住友に入り、長く伸銅場(後の住友金属)に勤務したエンジニアであった。昭和16年困難な戦時下に総理事となり、温厚な人柄で20万人の従業員をゆるぎなく統率した。20年GHQの命令で住友本社を解散、最後の総理事となった。 |
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湯川寛吉 |
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ユカワカンキチ |
慶応4〜昭和6年(1868〜1931) |
和歌山県新宮市の出身。明治38年逓信省参事官を辞して住友に入る。大正14年総理事になると、金属・電線などの工業部門に力を入れ、従来の「別子銅山の住友」というイメージを一新した。温厚な人柄で、ドイツ語に堪能であった。 |
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ルイ・ラロック |
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ルイ ラロック |
1836〜1883 |
明治7年(1874年)、住友は銅山経営の近代化を図るべく、フランス人技師、ブルーノ・ルイ・ラロックを雇い入れた。
当時の別子銅山は、開坑から180年余りを経ていくつもの問題に直面していた。坑道を深く掘り進めた結果、絶え間なく湧き出る地下水に悩まされ、鉱夫の行く手を阻んだ。旧来の手法では銅の含有率の高い「富鉱」を製錬することはできても、当時、含有率3%程度の「貧鉱」の製錬は難しく、貧鉱はそのまま捨て置かれていた。また、険しい山道を越えて鉱石をふもとへ下ろすには、人力に頼るしかなかった。
ラロックは、約2年をかけてこうした状況をつぶさに分析し、最新の知識と技術を駆使した近代化策を一冊の報告書にまとめた。そして、これをもとに明治9年から旧別子の広範囲にわたって近代的施設の建設が進んだ。その結果、明治元年には、6,000t足らずだった採鉱高は、明治26年には5万tを越え、日本の国力増強にも大きく貢献したのだった。
住友グループ広報委員会ホームページより |
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鷲尾勘解治 |
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