住友グループが設置した案内板です。
旧別子登山口から銅山峰を越え東平の第三まで
沢山の看板があります。説明のある案内板と
写真だけの看板があります。
  ご案内します
      新居浜市が設置した案内板

東平・市内
別子山
はこちら
          計画中です
   
   01 日浦通洞   02 旧別子登山ロ   03 円通寺  小足谷集落   04 小足谷集落跡と醸造所跡
05 小足谷接待館と傭人社宅    山神社  06 小足谷疏水道と収銅所  07 小学校と測候所跡
08 土木課(劇場)と山林課  09  高橋精錬所と沈澱工場  住友別子病院      高橋 
10 高橋熔鉱炉とダイヤモンド水
  東延谷  11 トラス橋の焼鉱窯群  12 木方吹所と裏門
   
   
  13 第一通洞南口   俯瞰図  14 東延地区  15 東延斜坑  16 木方吹所と焼鉱窯場
17 重任局と勘定場  18 目出度町鉱山入口  19 重任局と大山積神社 20 前山と牛車道
21 勘場と見花谷    22 別子本鋪   23 蘭塔場と木方展望   24 大和間符と大露頭
25 銅山越          本鋪俯瞰図
    26 角石原選鉱場と焼鉱場
27 角石原停車場
28 第一通洞(八丁マンブ)北
29 上部鉄道
30 第三通洞
31 第三と変電所
     

01 日浦通洞
日浦通洞(標高(765m)
明治41年(1908)東延斜坑底からここ日浦谷へ向けて開削をはじめ、明治
44年に開通した多目的通洞である。全長は2020m、東平の第三通洞とも繋が
り、銅山峰の南北を結ぶ鉱石や物資輸送の動脈となった。更に、同時に併行し
て建設された端出場水力発電所用水路も併設されていた。
大正13年(1924)には筏津坑との問に索道が架設されて、筏津・余慶・積善
坑の鉱石がここに運ばれ、鉱車に積み替えられて東平へ運び出されていた。昭
和13年(1938)には周りを金網で囲まれた籠電車が運転されるようになり、広
く村民にも供用された。 
      ※通洞:人や物資を運搬するトンネル         
    案内板が間違っているので訂正  明治14年(1881)→明治41年(1908)

02 旧別子登山ロ
旧別子登山口
旧別子とは過去に繁栄した別子銅山の跡と言った意味である。ここの高さは
海抜約800m、銅山峰は約1.300m、高度差約500m、道程にして約3.2kmの間
に元禄時代から大正5年まで225年にわたる間の無数の産業遺跡が眠っている。
それらの遺跡をたどれば、今日の住友グループ、そして工都新居浜発展の原点は、
ここ旧別子にあるということが想像できる。
この辺りは吉野川の支流銅山川の源流域で、各所の河川の水は西側にある別子
ダム(有効貯水量542万トン)に貯水してトンネルで新居浜側へ送り、発電や
農・工業用水として利用されている。別子ダムは新居浜市の貴重な水瓶である。

03 円通寺跡
円通寺跡
別子銅山専用の墓所である。この谷の上段に広い寺床があり、そこに銅山の
頼み寺円通寺があった。正しくは雲谷山三業院円通寺小足谷出張所で、本寺は
別子山保土野にあった。大正5年(1916)別子銅山が嶺北の東平へ移った後
、大正8年(1919)火災により焼失したため寺の機能は別子山白尾の南光院境内
に遷された。山内に眠る諸精霊の供養は今も続けられ、毎年8月初旬には住友
金属鉱山㈱始め住友関係者が登山して南光院住職導師のもと懇ろな供養が行わ
れている。
寺床と無縁仏の卒塔婆は別子銅山開坑300年を記念して平成2年9月、住友
金属鉱山㈱が建てたものである。

   小足谷集落  
          

04 小足谷集落跡と醸造所跡
小足谷集落跡と醸造所跡
この辺りは別子銅山で最も新しく開かれた集落跡である。小足谷の集落は大
きく分けて3つに分かれ、小足谷の橋を渡る手前とその対岸の朝日谷集落には
労働者が住み、この辺りには往還に沿って商家が軒を連ねていた。そして、この
先の接待館地並みから上は傭人(職員)の集落で俗に上前集落といって商人
の住む下前集落と区別されていた。
右の屋敷跡は味噌と醤油の製造所で、煉瓦造りの窯や煙突の跡が今も残って
いる。
上の段の広い敷地はよく話題になる小足谷醸造所跡である。別子銅山で酒の醸
造を始めたのは明治3年(1870)からで、最盛期.には年間100キロリットルも製造し
ていた。銘柄ヰゲタ正宗、別名「鬼ごろし」ともいった。

05 小足谷接待館と傭人社宅
小足谷接待館と傭人社宅
 明治期に入って急速に鉱業の近代化が進むなかで、それに伴う各界の要人が
頻繁に来山するようになった。そこで明治34年(1901)一般人が経営していた
泉亭を改装して別子接待館として営業を開始した。因みにこの年10月には住友
家15代家長(友純公)が宿泊されている。この煉瓦塀も恐らくその時点で築か
れたものであろう。
 この50mほど先に見える煉瓦塀を廻らせた邸宅の跡は、歴代の採鉱課長が住
んでいたと言われている。その隣が醸造課長宅で、これより、小足谷に沿って
20棟ほどの傭人社宅やクラブなどが建ち並んでいた。
 また、醸造所に向けて下るところの住居跡は明治19年に開校した小足谷尋常
小学校のあった所で、明治22年黒橋に新築開校した別子尋常小学校に統合され
てからは、改装されて教職員の住宅になっていた。

06 小足谷疏水道と収銅所
 
   小足谷疏水道と収銅所
この道を下ると足谷川に出る。そこに小足谷疏水道の坑口がある。別子銅山
の深部に溜まった坑内水を排出するために寛政4年(1792)に着工した。坑道
の長さは940mもあり、これは手掘りの時代においては常識はずれの大工事で
あった。従って、途中何度か中断があり、明治元年(1868)4度目の着手で黒
色火薬やダイナマイトを使って明治16年(1883)に4番坑道に貫通した。
この完成によって坑内水の排除と通気問題が一挙に改善された。但し、坑内
水には硫黄や重金属が含まれており、川に直接流すことは出来なかった。そこ
で排水は延々と箱樋の中を流し、鉄屑を入れて銅を沈殿させ、余水は沈殿池に
溜めて浄化し、上澄みだけを放流していた。この対岸一帯にはその施設が構築れていた。

山神社

07 小学校と測候所跡
小学校と測候所跡
政府は明治5年に学制発布、これによって子女の初等教育が義務付けられる
ようになった。これを受けて別子銅山では明治8年(1875)に勘場の下方、通
称目出度町に私立の足谷小学校を創設した。その後も学校教育は次第に一般化
し、明治19年5月には人口の急増もあって小足谷に尋常小学校を開校、さらに
明治22年9月には、ここに私立小足谷尋常小学校を建設、続いて高等小学校も
併設した。更に明治27年(1894)に私立別子尋常高等小学校となった。最盛期
の明治32年3月には生徒数は男女合計298名、教員7名であった。
学校跡の隣で高い石垣のある所は私立別子測候所で煙害対策の一環として明治
31年に設立された。
       ※勘場:別子銅山の統括事務所

08 土木課(劇場)と山林課
土木課(劇場)と山林課
別子銅山の近代化が軌道に乗りだすと・採鉱・精錬の生産部門と平行して、
それを支える部門も増強されていった。つまり製炭と土木部門が大きなウエ
イトを占めるようになり.明治10年頃にはこの辺りの用地が造成され明治14
年(1881)には、ここを起点とする車道が中七番まで開通し、果多しい坑木や
建築資材・木炭等が牛馬車によって運び込まれた。明治22年(1889)山林係が
山林課に昇格し、左の石垣群が山林課、右の広い造成地が士木課になった。土
木課では明治22年に棟行20間、桁行10間、下屋を入れて延べ350坪もある巨
大な倉庫を建てた。明治23年5月の別子銅山200年祭には、ここを劇場として
開放し、上方から歌舞伎の名優を招いて盛大に祝った。以来、ここが毎年5月
の山神祭には劇場として使われ、山内唯一の娯楽場となっていた。

09 高橋精錬所と沈澱工場
高橋精錬所と沈澱工場
対岸の高い石垣は高橋製錬所跡である。この石垣は更に300m上流まで続い
ているが、この対岸には明治20年代になって建設された洋式熔鉱炉(左)と沈
澱工場(正面)があった。明治28年から政府は環境問題に規制を設け、製錬の
際に出る鉱滓を直接川に流さないことにした。そこで製錬所前には暗渠を築い
て流水を伏流させ、その上に鉱滓を捨てていたので、一時前の谷は鉱津堆積広
場になっていた。それが、明治32年(1899)の風水害で堆積広場は流され、暗
渠も大半が潰れて元の谷川に戻った。ここに残る暗渠は当時の様子をかすかに
伝えている。
 正面には沈澱工場といって、銅の品質が低い鉱石を砕いて粉末にし、水を使
って処理する湿式収銅所があったが、明治32年の水害以降その設備が小足谷に
移ってからは、目出度町の近くにあった住友病院が一時期移転していた。
   ※鉱滓:鉱石を製錬する際に生ずる不用物

   住友別子病院
 

   高橋
   
   

   10 高橋熔鉱炉とダイヤモンド水   
       
       
   高橋熔鉱炉とダイヤモンド水
古くはこの辺りの地名はタカバシであったが 明治12年(1879)頃この対岸
に洋式の熔鉱炉が建設されてからはヨウコウロと呼ばれるようになった。とこ
ろが戦後(昭和20年代)、別子鉱床の他にもう一層ある金鍋鉱床というのを探
し当てるためにボーリング探査を始め、ここでも昭和26年に掘削を行った。予
定深度まであと僅かの82mほどの所で水脈に当たり多量の水が噴出し、ジャミ
ングという事故が起きてロッドの先端部分がネジ切れ、掘削不能となった。ダ
イヤモンドを散りばめた先端部が今も孔底に残っているので、誰言うともなく
ダイヤモンド水と呼ぱれる¥]ようになった。
明治10~20年代にかけて対岸の絶壁の上に焼窯という鉱石を焼く所があっ
て、硫黄を取り去った後の鉱石は箱状の桶でこのレベルまで落とし、熔鉱炉に
入れて粗銅を採っていた。最盛期にはこの辺り一帯に製鉱課の施設や木炭倉庫
がひしめいていた。  

   東延谷  
     
     

   11 トラス橋の焼鉱窯群  
     
     
  11 トラス橋の焼鉱窯群
この辺りの地名はトラスバシという。
正面にせり出している熔岩の様なものは製錬をして銅を採った残りの酸化鉄で
ある。これをカラミ(鍰)という。カラミがあるということは、ここにも製錬
所があったという何よりの証である。
写真では無数の焼窯が建ち並んでいるが、その前は鎔鉱炉があったことになる。
このように別子銅山では古いものが新しいものへと、しばしば入れ替わってい
た。
焼鉱の工程は、焼窯という石囲いの中に多量の薪と生の鉱石を交互に積み重
ねて燃やすと1ヶ月ぐらいで硫黄が燃えて発散し、後に銅と鉄からなる焼鉱が
残る。続いてこれを荒吹炉に入れて、更に次の間吹炉に入れて淘汰すると、銅の
含有率が90%ほどの粗銅となる。
右の岩山の上に高く積まれているのは焼鉱用の薪である。   

   12 木方吹所と裏門  
     
     
  12 木方吹所と裏門
明治20年頃の木方吹所(製錬所)を南側から見上げた風景である。
中央左寄りに土橋があり、その右下で谷が分かれている。右が足谷川で左
の方を奥窯谷という。足谷川に面して右の山側に建ち並ぶのは木方吹所である。こ
の時点では高橋製錬所よりもこちらの方が産銅量は勝っていた。
右上から斜めに箱樋が掛り、その左で白煙が上がっているところは明治13年
から生産が始った最初の湿式製錬所(沈澱銅)の施設であろう。
左の巨大な両面石積の向こうは木炭倉庫で、その真上にも石積が天に突き出
している。当時の和式製錬では1トンの銅を作るのに4トンもの木炭を使って
いた。木炭は食糧に次ぐ貴重な物で、従って銅蔵や木炭倉庫の建ち並ぶ鉱山の
心腱部の入口は石垣や柵で厳重に囲まれていた。田みにこの辺りを裏門と呼ん
でいた。   
   

    13 第一通洞南口(標高1,110m)  
     
     
   13 第一通洞南口(標高1,110m)
この附近「一帯は通称ミナミグチと言う。別子銅山の近代化はこの附近から始
った。明治9年(1876)東延斜坑の開削が始り明治19年には嶺北角石原からの
通洞が代々抗に貫通し、ここに銅山峰の北と南を結ぶ1,020mにおよぶ水平坑道
が初めて出現した。以後、大正5年(1916)に銅山の本部が東平へ移るまでの
30年間、第一通洞南口が銅山の心臓部としての役割を果たした。また、明治26
年には第一通洞北口まで鉄道が敷かれたので、運輸面の要ともなり、はじめて運
輸課の誕生をみた。以来次々と採鉱課、会計課、調度課が軒を連ねるようになり、
近代化の拠点東延時代の一翼を担っていた。往時はこの谷にトラス橋が架かり
高橋製錬所まで水平軌道が延び、鉱石と製錬された粗銅を運んでいた。  
     
     
     

    14 東延地区  
 
     
   14 東延地区
この谷の上部が東延地区である。明治7年(1874)住友家が招いたフランス
人鉱山技師ルイ・ラロックの構想に基き明治9年から近代化の開発が始まった。
あの見事な石垣の築造は2年の歳月を要して明治18年に完成したもので、面
石は背後の山腹にある蛇紋岩を採石し築造した。谷川の流水は赤煉瓦30万枚を
使って暗渠を構築し、用地の底を伏流させている。造成当時の用地面積は約
6,600㎡、造成に要した作業者の数は延べ23,000人であった。ただし、冬季4
~5ヶ月は積雪・凍結で工事を中断したが、その間に新居浜地区で暗渠用の煉瓦
を作った  

   15 東延斜坑  
 
     
   15 東延斜坑
この辺りは別子鉱床の東の端に当るが、地下深部に三角と言う所があり、そ
こにはとてつもない立派な鉱石が無尽蔵に眠っている事が以前から分っていた。
明治7年(1874)住友家の要請を受けた鉱山技師ルイ・ラロックは、この一点
を選んで斜坑を掘り、三角の富鉱体に到達させ、その間に階段状に水平坑道を
開削して鉱床に逢着させる。採掘した鉱石は斜坑に集約して出鉱するという新
生別子銅山案を提起した。ただ、当時日本の鉱山では本鋪という大きな坑道で
も5尺(1.5m)×6尺(1.8m)程度であったが、ラロックの東延斜坑口は幅が20尺
(6m)高さ9尺(2.7m)もあった。しかし、当時の住友の実力者広瀬宰平が、敢え
てこの大起業に挑んだのは、彼が11才で別子銅山に奉職し、三角の大富鉱体
を見ており、三角に賭ける山内の熱い空気に触れていたからであろう  
   
   

    16 木方吹所と焼鉱窯場  
 
     
   16 木方吹所と焼鉱窯場
吹所とは製錬所の古い呼称である。開坑当初は下の床屋ともいった。
下の方の谷間は両岸とも絶壁になっていて、その上にせり出す様に荒吹炉と
間吹炉が建ち並んでいた。ここに吹床(昔の熔鉱炉)が置かれていたのは開抗
後まもない元禄年間のことである。以来明治30年頃まで200年余り鉱山の心臓
部として機能してきた。
この辺りの地名はキカタと呼ぶが、木方とは薪を多量に使って鉱石を焼くこ
とから、そう呼ばれる様になった。これから上部一帯には何百という焼窯が重
なるように並んでいて、立ち上がる排煙はしばしば日光を遮ったという。この
平坦地には千窯という明治になってから改良された効率の良い焼鉱炉があった
らしい。  

    17 重任局と勘定場  
 
     
   17 重任局と勘定場
明治時代は組織の改変や施設の移動は目まぐるしく行われた。
この下の方では木方吹所に続いて谷川に沿って銅蔵・吹方役所・勘定場が並ん
で建っていたが、明治24年には別子鉱山の組織改革が行われて、吹方役所は製
礦課となって今のダイヤモンド水の所に移り、勘定場は会計課となって数年後
には南口の方に移った。
また、明治25年には勘場(日出度町)が火災で焼失し、勘定場の上手に遷っ
てきた。その時はもう重任局と改称されていて、屋上には櫓太鼓を備え、従業
者に時を知らせていた。
更に上流にかけての斜面には木方集落が軒を並べて建っていた。  

   18 目出度町鉱山入口  
 
    
  18 目出度町鉱山入口
ここから足谷川の源流(風呂屋谷)を渡り、蘭塔場の裾を廻って土持谷を過
ぎると広大な平坦地に出る。今そこは深い森の中だが、かっては別子銅山の中
枢で勘場という大きな建物があった。大阪の泉屋本店から派遣された支配人や
手代衆が多数詰めめていた。また、勘場には銅蔵や食料庫・資材庫・来客接待所
などが附属していて、その周辺は厳重な柵が廻らされていた。
勧場の下の方はいわゆる目出度町という商店街で、今日のデパートにあたる
伊予屋を始め料亭一心楼、饅頭の奥定商店等々軒を連ね、さらに郵便局や小学校
まであり、銅山本部の下町的存在であった。   
   
   

   19重任局と大山積神社  
 
   19重任局と大山積神社
元禄7年(1694)の大火の後、歓喜問符の隣にあった勘場がここに移され、
明治12年に重任局と改称された。明治25年の火災で焼失するまでは銅山の指
令所として重要な位置を占めていた。火災のあと重任局は木方に移ったが、そ
の跡は元禄4年より銅山の鎮護の神として奉られていた大山積神社が、対岸の
延喜の端から遷座した。
また、モミの大木の向う側には別子山村役場があって村の行政もここで執行
されていた。
左の広場には住友新座敷と言う来客接待所があったが、大山積神社の遷座と
同時に、その跡が相撲場となり、5月の山神祭には大いに賑わった。
下方一帯は目出度町で商店の他に料亭や郵便局・小学校なども軒を並べ、対岸
の一段高い所には住友病院もあった  
     
  目出度町 病院跡
   
     

   20 前山と牛車道  
 
     
  20 前山と牛車道
正面に見える範囲を前山という。稜線の窪んだ所が銅山越えで、そこから左
に一条の線が見えるのは明治13年に造られた牛車道である。峠からジグザグに
下った道が昔からの中持道で沢山の人々が行き交っていた。その下のヒノキ林
の中には歓喜・歓東間符があり、辺り一帯は山方集落といって鉱夫さんが住ん
でいた。更に手前の雑木林の中には江戸時代に砕女小屋という選鉱場があって、
ひねもす選鉱婦の嬌声がこだましていた。
更に手前の方は鍛冶屋谷集落といって、採鉱関係者の住居がひしめいていた。
左の山肌にかすかに見える横線は牛車道の跡で、重任局の銅蔵を出発した
牛車が2日がかりで立川精銅所へ粗銅を運んでいた。   

   21 勘場と見花谷  
 
     
  21 勘場と見花谷
正面の深い木立のある辺りが元禄7年(1694)以来銅山の本部である勘場
があった所で、その下のほうが目出度町鉱山街であった。右の方で岩山の山頂
が石垣で囲われているのが蘭塔場である。櫓太鼓のある勘場の右の谷は土持谷
で、蘭塔場の裾を巻いていた牛車道は土持谷に架る永久橋を渡って勘場の表門
まで通じていた。
左の谷は見花谷(喧嘩谷)、更にその左の谷は両見谷(了見谷)といい、あ
の急な山肌にしがみ付く様に製錬関係者の住宅が重なる様に建っていた。明治
32年8月28日に来襲した台風で背後の山が崩れて山津波となり、見花谷は押
し流されてしまった。当日の被害は全山に及び、513人という生命が一瞬のうち
に奪われた。
*表門:勘場(重任局)入口に石積もの門があり、これを表門と称した   

   22 別子本鋪(標高1,210m)
 
     
  22 別子本鋪(標高1,210m)
本鋪とは一山の主たる生産坑のことである。元禄4年5月9白、幕府の稼行許
可を得て、泉屋は直ちに開坑の準備に取りかかった。その時点で、この谷間を
利用して、掘り出した鉱石から銅を摘り出すまでの工程を組み込むために、こ
こに中心となる坑道を開けることにした。前年の秋に初めて調査にやって来た
泉屋の番頭田向重右衛門が下した決断であった。かくして別子山中に最初に開
いた坑口がこの歓喜間符と歓東間符である。重右衛門が考えた通り,以来明治
になって東延斜坑が主たる生産坑になるまで凡そ200年間、ここが本鋪であり
続けた。背後の平坦地には鋪方役所があづて、負夫によって運ぴ出された鉱石
は重さを計づて買い取り、砕女小屋へと運ばれた。
上方一帯、ヒノキの木立の中には、山方と呼ばれる坑夫の住宅が並んでいた。
  ※現在も稼行許可の日に大山積神社(新居浜市角野新田町)にて、在浜住友連系各社に
    よる例大祭が斎行されている。
   
   
   

   23 蘭塔場と木方展望  
 
     
  23 蘭塔場と木方展望
眼下に見える岩山の石囲いが蘭塔場である。後ろの谷間には木方役所があっ
て、その左の斜面では無数の焼窯が年中白煙を吐き、右の山側には吹方(製
錬関係者)の住宅が重なる様に建っていた。その手前の森が勘場で、下方の林
の中には目出度町があった。開坑以来銅山の心臓部として繁栄した。然し、銅山
の繁栄には尊い生命の代償があった。中でも元禄7年(1694)に発生した大火
災は、山方の元締であった杉本助七をはじめ132名にのぼる焼死者を出し、設
備の大半が焼失するという大惨事であった。泉屋ではその犠牲者を手厚く葬り、
一祠を建てて供養したのが蘭塔場で、以来、職に殉じた御霊を合祠し、盆供養を
欠かしたことはない。
 ※蘭塔法要
 旧別子蘭塔法要::毎年、住友金属鉱山㈱をはじめ住友関  係者が登山し、盆供養が行われている。
 瑞応寺蘭塔法要:瑞応寺境内に移された墓碑の前で、住友金属鉱山㈱関係者による盆供養が毎年
             行われている。

   

   24 大和間符と大露頭
 
     
  24 大和間符と大露頭
元禄4年(1691)の開坑と同時に開かれた古い坑口で原形をほぼ止めている
と思われる貴重な遺跡である。開坑して3年目の元禄7年に峰の向う側の立川銅
山から掘り進んでいた採掘場と大和間符の坑道が地中で抜け合った。立川銅山
は西条藩の領地であったから鉱業権をめぐって大論争となった。
小さい方の坑口は2・3の銀切(60cm×90cm)と云って、水平坑道として
は最も小さいものだが、先進坑道としては経済的であった。
古い時代の鉱山は先ず地表に現れている鉱石を見つけることから始まる。そ
れを鉉探し(露頭探査)というが、それが銅鉱石の場合だと大抵赫黒く変色し
ている。技利きの山師は、その色や形状から鉱石の良否を判定していた。この
露頭はいわゆる峰の巣焼けなので、上等の鉱石と判定されたのであろう。   

   25 銅山越(標高1,294m)  
 
     
   25 銅山越(標高1,294m)
開坑以来の悲願が叶って元禄15年(1702)別子銅山の粗銅は、ここを越えて
新居浜の大江の浜まで2日で運びだせる様になった。それまでは村の東はずれ
の小箱峠を越えて宇摩郡天満の浦まで2継3日もかかっていた。以来、明治19
年に第一通洞が開通するまでの184年間、粗銅と共に山内に住む数千人の食糧
も中持人夫に背負われてこの峠を往来した。
しかし、海抜1,300mもある銅山峰は、しばしば厳しい表情を見せ、風雪のた
め行き倒れた者もあった。峰の地蔵さんは三界万霊、その無縁仏を祠ったちの
てある。その地蔵さんの縁日は旧暦8月24日であった。明治の頃には道筋には
幟がはためき、横の舟窪には土俵があって子供相撲に歓声が湧いたという。  

   26 角石原選鉱場と焼鉱場  
 
     
   26 角石原選鉱場と焼鉱場
この辺りの開発が始まったのは明治時代になってからで、明治13年(1880)
に銅山と立川中宿を結ぶ牛車道が完成し、この先の大地形は中継所となってい
た。その後、明治15年になって第一通洞の開削が始まり、そのズリで斜面を埋
め立て、やがてそれが鉄道用地へと展開していった。明治26年上部鉄道が完成
した頃、新居浜で稼動していた惣開製錬所の煙害問題がエスカレートしたので、
その対策として鉱石を山元で焙焼することにして、この辺り一面、谷底から山
上に至るまで焼窯やストール式という焼鉱炉で硫黄を取り除いていた。
この辺りには選鉱場があり、第一通洞から出た鉱石を選別し、横のインクラ
インで焼鉱炉へ上げ下げしていた  
     
     

   27 角石原停車場  
 
     
  27 角石原停車場
別子の高橋で製錬された粗銅は、第一通洞を経由してここに運ばれ、角石原
で処理した焼鉱と共に貨車に積み込まれて、上部鉄道にて5.5km先の石ヶ山丈
まで運ばれた,そこからは索道で端出場まで下ろされ、更に下部鉄道で新居浜
の惣開まで輸送されていた。鉄道は明治26年(1893)に敷設され、同44年
まで近代化した鉱山の象徴として走り続けたが、第三通洞が貫通して東平地区
が中継拠点となったことにより、明治44年に廃止した。現在の銅山峰ヒュッテ
が建つ辺りが駅舎であった。
現在、角野の大山積神社境内には当時活躍していたドイツのクラウス社製蒸
気機関車が展示されている。   
   
   

   28 第一通洞(八丁マンプ)北口(標高1,100m)  
 
     
   28 第一通洞(八丁マンプ)北口(標高1,100m)
別子銅山の近代化が進むにつれて産銅の増加と生産物資や食料の輸送量が増
大し、明治13年(1880)には立川中宿まで牛車道をつけたが1,300mの銅山
越は交通の隘路で、輸送路の短縮が求められていた。そこで、ここ角石原と別
子の東延谷をトンネルで結ぶ計画を立て、明治15年第一通洞の開削に着手した。
幸い、この年からダイナマイトを使用したことにより、予定より早く明治19年
に代々坑に貫通した。全長1,020mであった。
坑内には軌道が敷かれ、人車や馬車によって輸送を行っていた。明治44年、
運搬の機能が第三通洞に移って廃止されたが、以後は人道として一般にも共用
されていた。  
   
   

    29.上部鉄道
 
     
   29.上部鉄道
海抜850mの石ヶ山丈と1,100mの角石原を結ぶ上部鉄道は、明治25年
(1892)5月建設に着手,同26年8月に完成した日本初の山岳鉄道である。沿
線の地形は急崖の連続で、始めは牛車道を改良して馬車鉄道を運行する計画で
あったが、明治25年11月欧米視察から帰国した住友家総理人広瀬宰平は蒸気
機関車を走らせることを命じた。以来、総力を挙げて建設を続行し、僅か1年
余という短期間で完成させた。22箇所もある谷渡りには煉瓦積みの橋台が施さ
れ、殊に唐谷に懸かる3連橋の橋台は石ヶ山丈駅の遺構と共に文化財として価
値が高い。  

    30.第三通洞(標高744m)
 
     
   30.第三通洞(標高744m)
第三通洞は東延斜坑の下底部にあった三角という別子鉱床の富鉱部を狙って
明治27年(1894)に開削に着手した多目的坑道である。同35年に完成したこ
とにより、坑内水の排出と通気問題が一挙に解決し、出鉱量も飛躍的に増加し
ていった。更に、明治44年に別子山側に日浦通洞が貫けたことにより、東平と
別子山日浦が全長3,990mのトンネルで結ばれ、別子鉱山の北と南を結ぶ動脈と
なった。更に鉱山では籠電車という鳥籠の様な人車を連結して一般にも開放し
たので、利用者が多くて特別に人車を増結することもあった。昭和48年、その
籠電車も別子鉱山の終掘と同時に廃止された。  

    31.第三と変電所
 
     
   31.第三と変電所
元禄15年(1702)から別子銅山の粗銅は銅山越経由で新居浜へ運び出すよ
うになり、その中持道はこの辺りを通っていた。第三坑口の前あたりには橋があ
って、「上の橋」または「欄干橋」と呼んでいた。辺りは深い渓谷であったが、
100mにも及ぶ暗渠を築き、右の寛永谷と左の柳谷の流水を伏流させ、第三通
洞の開削ズリを堆積して、通称第三広場と呼ばれている鉱業用地を造成した。
以後、しばらくはここが東平地区の開発と生産活動の拠点となり、大正5年に
は別子の採鉱本部をここに遷した。昭和5年端出場に移転するまでの14年間は
ここが鉱山の本部であった。
煉瓦の建物は東平変電所の遺構で、明治36年頃設置された開閉所を大正6年
頃に変電所の機能を備えた煉瓦の建物とした。尚、その下段には鉱水を処理す
る流水沈澱槽が設置されていた。  
     
     
     

  紹介した内容は「あかがねの故郷」という小冊子
にまとめられています
発行は住友鉱山別子事業所総務センター
 監修には 伊藤玉男氏 佐藤豊氏 小笠原勇機氏  が 携わっています