筏津坑(改装工事中) 2018年11月28日、9:55 |
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大和間符と言うけれども、大和坑とは言わない。歓喜坑とよく言うけど、歓喜間符とも言う |
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筏津坑と言うけど。筏津間符とは言わない。 |
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『間歩』は、鉱山の坑道を指す言葉で鉱山で、鉱石を取るために掘った穴。坑道のこと。 |
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「間符」と書いたり、「間歩」であったり どっちが正しいのか |
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間歩と坑 |
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石見銀山では明治以前は坑道(こうどう)のことを間歩(まぶ)と呼んでいました。
明治以後は現在でつかわれている坑道と呼ばれるようになり、明治を境に呼び名が変わりました。
石見銀山のホームページより |
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間符と間歩 |
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別子銅山では間符である。石見銀山と足尾銅山は間歩であった。
別子銅山は坑口にお札をお祀りしているので符を使っているようです。 |
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坑道の種類 |
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間符 |
採鉱目的の間符。目的達成後に水貫・風廻しになった間符もおおい |
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水貫 |
間符の下部にあり湧き水を排水する目的 |
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風廻し |
間符の上部にあり換気目的 |
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鉉さがし |
探索のために掘った。 探鉱坑道 |
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現地調査の報告書です。
調査にあたり、高橋氏・黒川氏から資料を頂いたり 助言を頂きました。
また 頂いた資料も報告書に多く使わさせて頂きました。
間符の名前のない所や、名前があったのでしょうが不鮮明な所もあり
両氏の資料に統一させて頂きました。
ご了承ください。
地図も載せたい所ですが、中には心もとない人が訪れ、現場を痛めるので
あえて記入しない事にしました。
別子山村には住友以前の古い坑口などあります。わかる限り調査しました。 |
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西山間符 |
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採鉱 |
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標高1305m |
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不明 |
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鉱山技術・別冊「間符」より
天保10年(1839)に作製されたものと想定されている「別子御銅山絵図」資料28 は、別子山内、とくに銅山諸施設を詳細に描いていて、大和間符の西側に「西山番」を記載している。
また、「元禄8年の11月中比外財人数改覚」資料62 には、鋪普請。採鉱関係に、掘子142人・得歩引(運搬)154入のほか山留4人をあげる、とあり、掘子142人の内訳は鉑掘98人、銀切42人、西山番2人となっている」と書かれているという。そして「西山番というのは、大和間符に接近して西山間符があり、そこに掘子が詰めたのであろうか。「山のいかさら」に、西山小屋番として松山九平次の名を記して給銀を記している。西山小屋は西山間符の坑口にあって、もと掘鉑を買い取った小屋であったが、宝永ごろにも僅少の鉑を持ち出していて掘子一両人が代わって小屋番として詰めていたのであるまいか」という見解がある。「山のいかさら」 資料10 には、床屋、自在、天満等、間符としての存在が明らかであるものとともに「西山」の記載がある。しかし「西山間符」と書かれた資料はないようである。
その坑口は大和間符口より西側に位置していたと思われる。 |
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大和間符本坑 |
採鉱→通気 |
標高1290m |
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「大和間符」と「大露頭」は10mぐらいの至近距離に位置する。 ここにある大露頭は上等の鉱石だったためすぐ横に坑口を開けたのが大和間符だったことになる 大和間符(本坑)周辺に3つの坑口がある いずれも大和間符(本坑)を補佐する坑口と思われる 住友別子鉱山史上巻_84ページ
東西九拾五間餘切渡り申候 土底にハ百弐拾間餘切下り申候(元禄15年) |
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大和間符西坑・疎水坑 |
採鉱→排水 |
標高1290m |
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大和間符本坑のすぐ西に位置するが、登山道からは見えない所にある。
但是ハ大和間符之水貫二而御座候(元禄15年) |
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大和間符中坑 |
採鉱・通気 |
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不明 |
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大和間符疎水坑の下辺り、と言われているが、通気の目的で使用されたのであれば疎水坑よりも
上部に位置するのではないかと思う が・・・ どちらにせよ 不明 |
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大和間符東坑 |
採鉱→通気 |
標高1285m |
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大露頭のすぐ下にあって、坑口から空気が出ている。出口のシダが揺れている。二三の銀切(60cm×
90cm)と云って最も小さい坑口にあたる。腹ばいで入れそうであるが、引き返せるかどうかわからない |
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中西間符(本坑・谷間坑) |
採鉱→通気 |
標高1270m |
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元禄4年に開坑したのは 歓喜・歓東坑 中西 大和 長栄 自在間符となっている
中西間符は早い時期 歓喜・歓東坑と抜け合っていた。
当初は採鉱し、出鉱する坑道であったが、立川銅山合併の前年は、休坑になっている その後は通気坑であったと思われる。 右三口土中二而抜合申候(元禄15年)
鉱山技術・別冊「間符」より
谷間抗とも呼ばれる通り 谷合にある。牛車道近くになるが 道はなく藪を入る |
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中西間符疎水坑 |
排水 |
標高1270m |
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中西間符西側 但是ハ右三ヶ所水貫二而御座候(元禄15年) |
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自在間符 |
採鉱 |
標高1260m |
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不明 |
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当初は採鉱し、出鉱する坑道であったが、立川銅山合併の前年は、休坑になっている その後は通気坑であったと思われる。
鉱山技術・別冊「間符」より |
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床屋間符 |
採鉱 |
標高1245m |
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当初は採鉱し、出鉱する坑道であったが、立川銅山合併の前年は、休坑になっている その後は通気坑であったと思われる。鉱山技術・別冊「間符」より
土底にハ百六拾五間餘掘下り申候(元禄15年) |
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歓喜間符(立川本舗 |
採鉱 |
標高1205m |
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元禄3年 泉屋の番頭田向重右衛門がここにたどり着き、調査したのが別子銅山の始まりとされている。
田向重右衛門の書「予州別子銅山初発之書付」には
爰(ここ)かしこと尋廻り/漸(ようよう)ニ尋当り、夜中篝(かがりび)を焼キ/只今之(の)歓喜間符ニ堀入、二三尺も切入候程/次第ニ鏈(くさり)太ク/成候故(ゆえ)、石色万端(せきしょくばんはた)/山之/情分(じょうぶん)見届、鏈(くさり)持参致/大坂へ登せ候而 と記されている。
歓喜間符の由来はこの時 有望な鉱床を確認し大喜びをした事から歓喜間符と名づけられた。 |
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歓東間符(別子本舗) |
採鉱 |
標高1205m |
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左が歓喜坑、右が歓東坑で歓喜坑に次ぐ旧坑です。 |
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長榮(永)間符・長延間符 |
採鉱→通気 |
標高1215m |
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元禄4年に開坑したのは 歓喜・歓東坑 中西 大和 長栄 自在間符となっている。
江戸末期には足谷山側(嶺南)歓喜・歓東・東山・自在・床屋・西山・大和・えびす・天満・中西・長永・大切間符が稼働していた。
歓東坑と大伐坑の間に位置した坑道であって、両坑道の通気と排水のための坑道であったと思われる。鉱山技術・別冊「間符」とあるが、歓東坑より10mほど高い位置にあるので、排水坑には適さないかと思うが? |
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大伐間符(大切間符) |
採鉱→通気 |
標高1185m |
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自在間符とも言い 縁起の端から 山の方向に見える。坑木が横たわっているが坑口は潰れている 開坑当初、精錬は本鋪から寛政谷の大切間符の辺りにかけて連なっていたらしい。
寛政谷の大切地並には今でも含銅量のかなり高い鍍(吹きかす)のズリ山が残っているが、どうもここが「上の床屋」という初期の製錬所の跡であろう。製錬所は元禄7年ころには歓喜・歓東のほかに大和・床屋・大切などの諸間歩の口の少くとも五ケ所にあったようである。 |
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大伐疎水坑(大切疎水坑) |
排水 |
標高1185m |
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大伐間符のすぐ後ろにあるが わかりづらいですね 。 |
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寛永谷風廻し |
通気 |
標高1195m |
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大伐間符から上部に向かう。何も目印になるものが無いのですが 岩が口を開けて
いるような場所なのでわかると思います。
風廻し間符なので風の出入りだけだったので 坑木は無かったのかもわかりません。 |
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天満間符 |
採鉱→通気・排水 |
標高1175m |
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大伐、天満の両坑道ともに露頭に近い位置に採鉱切羽を設けて採掘し、鉱石の搬出を行った坑道である。しかし、ときにより休坑になり、あるいは通気専用坑道、排水専用坑道になるなど、その機能は変化している。坑道の位置と、稼働の期間からみると、歓東坑を稼行するための補助的な機能の坑道であったと思われる。 元禄15年(1702)
天満間符 東西百四拾三間餘切渡り申候 土底にハ所々に弐拾間或ハ三拾間餘切下り申候
水貫間符 但是ハ天満間符の水抜ニ而御座候 |
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排気斜坑 |
通気 |
標高1180m |
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延喜の端の案内板から1分。銅山越に行く人はほとんどこの抗の前を通ると思います。立ち止まって見たり 近づいて見る人は少ないようです。今でも大量の空気を吐き出しています。坑内の匂いを嗅ぐことのできる数少ない坑口です。坑口が崩れ立ち入り禁止の看板があります
通気と坑木を入れるために昭和33年頃開けた新しい坑口である。 山村文化34号8ページ |
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第一通洞南口 |
排水→運輸 |
標高1100m |
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もともとはこの坑道は「代々抗」と呼ばれていました。この坑道(約339m開さく済)を明治19年(1886)角石原と繋げた。標高は1,084m 銅山越は1,294mですから 210mも低い所に通洞を抜きました。延長約1021㍍。時間にして徒歩で75分も短縮できました。(北口~銅山越~南口90分 通洞通行15分)牛車道はどの位短縮されたか計り知れない。それだけではない 大雪が降れば銅山越は通行ができなくなるが、通洞は365日 通行できるようになりました。入口の扉は閉まっていますが、時々メンテナンスのため、開いている時もある。 |
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東延風廻し |
通気 |
標高1130m |
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東延新口坑と東延歓治坑道通気坑であったと思われる。東延谷にあり、3本の黒い塩ビパイプが入っている。東延の排水をこの坑口から流し込んで、第四通洞から排出している。 |
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天満水抜き間符 |
排水 |
標高1160m |
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貳番抜戸・東延西走坑 とも呼ばれ 天満水貫坑は天満坑の排水坑道である。
東延の堰堤の上にあり、看板も無くわからない。明治にはいり堰堤が出来 排水は堰堤の地下トンネルで東延谷の水と一緒に排出されている。 |
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東延斜坑 |
運輸・通気 |
標高1160m |
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地下深部に三角と言う所があり、そこにはとてつもない立派な鉱石が無尽蔵に眠っている事が以前から分っていた。明治7年(1874)住友家の要請を受けた鉱山技師ルイ・ラロジクは、この一点を選んで斜坑を掘り、三角の富鉱体に到達させ、その間に階段状に水平坑道を開削して鉱床に逢着させる。
斜坑は斜めに掘ったトンネルであり上部に巻上げ機があってレールの上のトロッコなどを引っ張りあげる。ケーブルカーと同じです ただし鉱山の斜坑は角度が急で東延斜坑は49度もある。ケーブルカーでは黒部が30度で最急勾配に近い。ほとんどのエスカレーターの角度は30度である |
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東山新口間符 |
探坑 |
標高1160m |
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元禄15年(1702) 東西三拾間餘切渡り申候 土底にハ2弐拾間餘切下り申候 但是ハ下鉑大分御座候二付、掘入候ハ、上鉑二直り可申と、不絶鉉さかし掘居申候
東山新口坑は東山坑の機能を補助するために後から設けられた坑道であろう。露頭に近い位置に採鉱切羽を設けて採掘し、鉱石を搬出した坑道であると思われる。稼働期間からみると比較的小規模な坑道であったのだろう。 「別子銅山振興意見書(元禄15年(1702)」によると、元禄15現在"東山間符卿に代わる間符として掘削されていたと思われる。 鉱山技術・別冊「間符」 |
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歓治間符(東延本坑) |
東山間符・東延歓治間符 |
採鉱 標高1160m |
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東延築堤坑(坑口名称不明) |
探坑 |
標高m |
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1135 |
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余慶風廻し坑 |
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標高m |
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弟地・赤太郎鋪本坑 |
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標高m |
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筏津西走り坑 |
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標高m |
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筏津三番東口坑 |
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標高m |
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都間符 |
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標高m |
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太平坑 |
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標高m |
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長尾間符 |
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標高m |
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天王間符(天王寺間符) |
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標高m |
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不明 |
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天王間符は天王寺間符とも書かれることがあるらしい。資料43 寛延元年の書付けでは「つぶれ込み、見分不当」であるとされている。この間符口の位置を想定する記述の存在については不明である |
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第二通洞 |
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標高m |
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大マンプ |
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小マンプ |
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呉木マンプ |
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作道隧道 |
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星越トンネル |
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