別子鉱山略年表
1180頃   別子山に人が定着
1585 天正13年 初代住友政友(文殊院)誕生。
1590 天正18年 住友業祖(蘇我理右衛門)京都にて銅製錬・銅細工開業
1600頃 慶長年間 南蛮吹(銀銅吹分け)開業
1623 元和9年 2代友以、大坂内淡路町に吹所開設。翌年淡路町に出店開設。
1630 寛永7年 京都より大坂淡路町に本拠を移す。銅精錬のほか、銅貿易、輸入品販売を営む
1636 寛永13年 大坂長堀吹所開設。
1636〜43 寛永年間 立川銅山(西条藩領)開坑  (寛永20年ごろ)
1662 寛文2年 友以没、3代友信初めて吉左衛門と称す。
1677 延宝5年  別子山天領となる
1678  延宝6年 円通寺が別子山村保土野に移転する
1680 延宝8年 備中吉岡銅山稼行開始 (中断をはさみ1715年まで)
1681 天和元年 友信 備中吉岡銅山経営開始
1683 天和3年 幸生銅山(山形)経営開始。(1699年まで)
1685 貞享2年 3代友信隠居。4代友芳相続。
1687 貞享4年 宇摩郡三嶋村・祇太夫が別子銅山(幕領)を試掘
1690 元禄3年 住友家支配人田向重右衛門が別子銅山を見分
本拠を長堀吹所の隣(後の鰻谷東之町)に移転。
1691 元禄4年 別子銅山請負稼行認可 採鉱開始 製錬に着手
立川鉱山の請負は大阪屋吉兵衛
1694 元禄7年 別子大火災(132人焼死)
立川鉱山の請負は新居郡金子村の真鍋弥一右衛門になる
1695 元禄8年 大和間符(別子)と大黒間符(立川)が抜き合い境界紛争発生
1697 元禄10年 境界紛争、幕府が分水嶺を境界とすることで裁決
1698 元禄11年 別子銅山の産銅量が明治以前の最高を記録(1,521t)
1701 元禄14年 大坂に第一次銅座設立される
立川銅山京糸割符仲間経営へ
1702 元禄15年 幕府 立川路の通行 永代稼行 買請米制度を許可
立川中宿・新居浜口屋(浜宿)を設置
住友家4代家長・友芳、幕府に産銅増加策を上申
泉屋新道開通す
1704 宝永元年 立川鉱山地域、幕府領となる
1706 宝永3年 立川銅山焼窯の一部を上野村へ移す
1709 宝永6年 土佐領の炭山を買入れ
1715 正徳5年 大雪による被害がでる
1721 享保6年 代官石原新十郎支配下の伊予幕領が松山藩御預り所となる
家法制定。
1727 享保12年 大坂屋永次郎立川銅山経営へ
1738 元文3年 立川銅山鉱夫、離山騒動発生
1739 元文4年 立川山村民と立川銅山大阪屋との間で中持ち賃金争い発生
1745 延享2年 別子、'立川両銅山買請米停止、嘆願の結果解除
1747 延享4年 大坂屋久左衛門立川銅山譲渡申入れ
1748 寛延元年 立川銅山の譲り受けにつき新居郡東部の西条領百姓が
反対運動を起こす(鉱水問題)。
1749 寛延2年 泉屋が立川銅山を手代名義で請け負う
1756 宝暦6年 歓東坑大湧水
1762 宝暦12年 泉屋吉左衛門による別子・立川両銅山一手稼行を出願し許可
1768 明和5年 風水害発生 被害甚大
1774 安永3年 別子山内疫病流行し、出銅減少
1776 安永5年 寛永間符(疎水坑)完成
1785 天明5年 別子本鋪内に大湧水発生
流行病頻発
1787 天明7年 幕府役人銅山見分
1790 寛政2年 別子開坑100年記念祭挙行
1792 寛政4年 小足谷疎水道の開さく着手(1回目)
幕府別子銅山に操業資金融資
1793 寛政5年 寛政間符(水抜坑道)銅山川側に向けて開さく着手
  寛政末頃 大ノの歌生まれる
1804 文化元年 小足谷疎水道の開さく一時中止(1回目)
1805 文化2年 中橋店にて両替業開始。3年後本両替仲間に加入。
  文化5年 この頃 鼓銅図録を作る
1816 文化13年 弟地炭宿焼失
1819 文政2年 吉野川鉱毒問題起こり、幕府検分使派遣
1825 文政8年 別子本鋪内に大湧水発生
1827 文政10  広瀬宰平の叔父治右衛門 別子銅山支配人
1828 文政11年 瑞応寺が大火災で消失
広瀬宰平生まれる 名は北脇駒之助
1836 天保7年 広瀬宰平 別子に来る
1838 天保9年 広瀬宰平 別子銅山勘定場の丁稚小僧となる
1840 天保11年 別子開坑150年記念祭挙行
1841 天保12年 三光銅山(福井)経営開始。(1848年別家に譲渡)
1843 天保14年 別子銅山休山願、幕府却下(1回目)
1845 弘化2年 幕府隠密が別子銅山に来山、実情調査
広瀬宰平 新居浜荷方帳場勤務
1847 弘化4年 伊庭貞剛誕生
1850 嘉永3年 別子銅山計画的植林事業に着手
1851 嘉永4年 別子の食糧自給対策として新田開発に着手
1851 嘉永4年 新居郡中村上原を開発
1853 嘉永6年 新居浜浦塩浜の惣開新田を開拓
1854 安政元年 安政の大地震により「三角」の富鉱帯水没
地震により坑内大湧水  幕府、復旧資金融資
広瀬宰平 相子と結婚
1855 安政2年 別子銅山休山願、幕府却下(2回目)
広瀬宰平 広瀬家の養子となる  妻病没
1858 安政5年 広瀬宰平 町と再婚 長男 満正が誕生
1861 文久元年 小足谷疎水道の開さく(2回目)、失敗
広瀬宰平「遠計利銀積立法」を実施
1864 元治元年 西条藩より3000両を借用
1865 慶応元年 広瀬宰平、別子銅山支配人になる
買請米の増石を出願するが不許可
1866 慶応2年 幕府が長崎御用銅廃止通達 続いて幕府が銅山安値買請米制度停止通達
幕府は長州征伐のため軍用金調達を命じ
1867 慶応3年 飯米削減による別子銅山稼入騒動発生 3か月休山
前年御用銅廃止につき長崎店閉店。
幕府への銅代金13000両 諸大名への貸付金 回収不能
1868 慶応4年 別子立川両鉱山 土佐藩銅山に差し押さえられる
大阪本店の銅蔵が薩摩藩に、差し押さえられる
官軍による別子銅山一時封鎖
廣瀬宰平、住友による別子銅山稼業継続出願、新政府許可
立川精銅場完成
小足谷疎水道の開さく再開(3回目)
1869 明治2年  立川精銅場操業開始(山元一貫操業が決まる)
銅の国内販売許可
銅の輸出解禁
別子限り通用の山銀札の発行
黒色火薬の採鉱実験成功
随応寺内に住友家霊牌堂建立
1870 明治3年  小足谷に醸造所設置
黒色火薬使用開始
別子銅山山師家内は主家の命により、洋服を着用
全山洋服を着用
1871 明治4年  政府買請米制度廃止
広瀬生野鉱山でコワニーの指導を受ける
1872 明治5年 蒸気船「白水丸」を購入 大阪〜新居浜間を就航
別子銅山の請負永続許可
1873 明治6年 仏人鉱山技師・コワニエが指導のため来山
別子目出度町に私立足谷小学校開校 (近在各地の38箇所の寺小屋統一)
この年より別子鉱山と称する(現 住友金属鉱山梶j
小足谷酒造場で醸造成功
1874 明治7年  仏人鉱山技師ルイ・ラロックを雇用、近代化に着手
塩野門之助をラロックの通訳として住友に雇入れる
広瀬家、中萩地区に茶の栽培を始め地方産業の開発を行う
白水丸沈没
1875 明治8年 「別子鉱山目論見書」完成、ルイ・ラロック解雇
英国人技師フレッシュビル別子視察
囚人を薪炭運搬に使用(明治22年まで)
大阪川口に本店を置く
御代島南岸を埋め立て、住友回漕店を置く
泉屋の屋号廃止
廣瀬宰平 幸と再々婚 
1876 明治9年   広瀬宰平、別子近代化企業方針を示す
大阪から立川へ製錬作業の移転完了
採鉱・治金研究のため塩野門之助・益田芳造フランスへ派遣
東延斜坑の開さく着手
牛車道(目出度町〜新居浜)の開さく着手、のち一時中断
弟地赤太郎銅??試掘出願許可
別子山中で沈殿銅試作成功
1877 明治10年 新居浜御代島築港着手
高橋溶鉱炉着工
広瀬宰平、住友家総理代人(後の総理事)となる
1878 明治11年 牛車道(目出度町〜新居浜)の開さく再開
別子〜新居浜間牛車道、第1期工事新居浜・立川間12km完成
小足谷疎水道の開さく一時中止(3回目)
弟地坑(のち筏津坑)開坑
コレラが発生、翌12年度末までに県内での死者3,362人全国で10万人余り
工部省鉱山技師の大島供清 入社
弟地沈殿銅工場の建設着手
1879 明治12年 新居浜御代島築港完成
伊庭貞剛、叔父広瀬宰平に勧められ住友に入る 伊庭貞剛本店支配人となる  
高橋洋式精錬所完成
1880 明治13年  別子銅山山林方を設置(現 住友林業鰍フ前身)
牛車道完成 目出度町〜新居浜間
別子山吹方に湿式収銅所完成
弟地沈殿銅工場完成
高橋排水処理収銅工場建設
御代島に灯台完成
ダイナマイト使用実験成功
1881 明治14年   目出度町に別子山郵便局 開局
泉川村喜光地に泉川郵便局開局
別子銅山に囚人労働使役
塩野門之助フランスより帰国 鉱山技師長に
小足谷から七番まで車道完成
弟地坑操業中止
1882 明治15年 第一通洞の開さく着手
別子鉱山で初めてダイナマイト使用
立川精銅所で初めてコークスを使用 
「住友家法」制定
東延斜坑に馬巻揚機設置 東延新鋪開さく
広瀬宰平、惣開精錬所の建設を政府に出願
1883 明治16年 私立住友病院開業(目出度町)
惣開製錬所の建設着手(塩野門之助) 
東延の築提に着工
第一通洞角石原からも掘進
小足谷疎水道の開さく再開(4回目)
1884 明治17年 小足谷疎水貫通
新居浜御代島に火薬庫建設
第二通洞開削の建議
私立足谷小学校を別子山村へ寄附(村立となる)
1885 明治18年 弟地湿式収銅所の建設着手
東延事業所の堰堤竣工
住友の商標「菱井桁」認可
コレラ大流行
1886 明治19年 広瀬本邸の移転開始(久保田〜中村上原へ)
第一通洞貫通(旧代々坑口〜角石原)
山根精錬所の建設着手
小足谷疎水道の拡幅工事完成
角石原焼鉱場完成
弟地収銅所完成
別子銅山の監獄出役所(官設)を廃止し、囚人労働体制を整備
硫酸を製造、新居浜肥料製造所(住友化学工業株式会社)の母胎となる
私立小足谷小学校開校(別子山村小足谷)
1887 明治20年 塩野門之助、住友を辞職、足尾銅山へ転職
角石原選鉱場完成 焼鉱窯設置
立川に監獄所派出所を設置し、銅山労役者を収容
別子銅山に囚人600余人を新規使役
耐久小学校を『角野小学校』と改称する
煙害による農民暴動発生
1888 明治21年 山根製錬所操業開始  エントツ山の煙突出来る 明治28年まで使用 
惣開製錬所操業開始
住友汽船、御代島一尾道間に就航
愛媛県議会、別子銅山の囚人労働禁止の建議を知事に提出
新居浜浦を新居浜村とする
別子銅山工作方を設置(現 住友重機械の前身)
1889 明治22年  山根製錬所で硫酸製造開始
広瀬本邸の新座敷竣工
第二通洞の開さく着手(小足谷疎水道〜寛永谷)
廣瀬宰平 妻と欧米視察 5月―11月
KS銅試作開始
別子銅山構内に1回線電話架設
新居浜村誕生
角野・立川両村合併し角野村に
小学校が山林課の隣りへ移設
松山監獄別子・立川出役所の廃止
高橋鎔鉱炉コークス使用開始
1890 明治23年 別子開坑200年記念式典新居浜村で挙行
惣開に新居浜出店移転、惣開製錬所を合併し新居浜分店となる
惣開精錬所を新居浜精錬所と改称
山根精錬所が塩化焙焼法による湿式収銅に着手
別子銅山東延斜坑堀進に蒸気捲揚機を使用
住友専用鉄道の用地買収開始、交渉難航
小足谷に劇場完成
立川和式精錬廃止
登久が第14代家長になる
山根精錬所に製鉄係設置
1891 明治24年 立川精銅場の丁銅吹きを全廃し、新居浜製錬所でKS銅製造
別子、初めてさく岩機使用する
複式高架索道竣工(端出場〜石ヶ山丈間)1,585メートル
別子鉱山鉄道下部線(下部鉄道)の建設着手
高橋洋式焼鉱炉(ストール式)完成
金子村に住友病院開設   翌年廃止
金子村字江口・新田両地区に煙害発生
台風で国領川か氾濫し、被害甚大
電話線開通(別子〜立川)
1892 明治25年 宮内省に「別子鉱山産出品標本」献納
広瀬宰平、民間人で初めて明治勲章を受勲
別子鉱山鉄道上部線(上部鉄道)の建設着手       
別子山一新居浜間に直通電話開設
別子重任局移転跡地に大山積神社遷宮
大徳寺隆麿(友純)氏を住友家婿養子に迎える
第二通洞の開さく中止(激しい湧水による)
1893 明治26年 別子鉱山鉄道下部線(下部鉄道)(新居浜〜端出場間竣工)
別子鉱山鉄道上部線(上部鉄道)(角石原〜石ヶ山丈間竣工)
角石原 ストール式焼鉱炉・インクライン完成
九州庄司炭鉱を買収 石炭自給のため
角石原選鉱場
新居浜で煙害問題発生
牛車運搬廃止
1894 明治27年 住友家総理人、広瀬宰平辞職
伊庭貞剛、本店支配人のまま新居浜に赴任
伊庭貞剛、別子の大造林計画を立て、山林復旧の植林事業を開始
第三通洞の開さく着手
牛車道 廃道
煙害騒動 農民の襲撃となる
石ケ山丈一端出場間に複式架空索道完成
山根精錬所休業
1895 明治28年  山根製錬所廃止
東延大煙突完成
新製錬所候補地として四阪島購入
東延斜坑貫通(東延〜8番坑道準)
住友本店を富島より中之島5丁目に移す。
東平にペルトン水車設置(第三通洞開さく削岩機動力用)
私立別子尋常高等小学校惣開分教場開校
住友銀行開業
四阪島を買収
塩野門之助再雇用
坑内照明螺灯を種油に 坑道照明は石油ランプに
高橋に様式鎔鉱炉新設
1896 明治29年    煙害問題解決のために新製錬所の候補地を四阪島に決定
高橋精錬所の拡充工事着手
鈴木馬左也入社
角野尋常小学校、山根に新築移転
別子鉱山出店を別子鉱業所に改称
樅ノ木鉱業所・黒滝鉱山売却
惣開精錬所で製錬用コークス製造開始
山内で流行病 患者2913名 死者147名
1897 明治30年 四阪島製錬所の建設着手
単式高架索道完成(石ヶ山丈〜端出場)
住友銀行、新居浜支店を惣開に開設
端出場火力発電所完成
別子山村足谷小学校廃校
坑内排水に機械ポンプ使用 人力と併用
私立別子尋常高等小学校足谷分教室開校
1898 明治31年 惣開尋常高等小学校が開設 昭和16年に市立惣開国民学校となる。
単式高架索道(端出場〜石ケ山丈)運転開始、牛車、人車廃止
湿式収銅を流水沈殿を残し全廃
小足谷に測候所所完成
高橋精錬所の拡充工事完成
端出場火力発電所完成 85HP  
小足谷、東延、寛永に沈殿池完成
1899 明治32年   別子鉱業所本部と採鉱課を除く全施設を新居浜に移転
住友私設小足谷測候所開設
私設電話使用開始
高橋洋式精錬所廃止
別子大水害(死者513人、高橋精錬所など施設大破)  国領川堤防決壊
私立住友病院を惣開に本院として移転 (目出度町の病院は出張所となる)
別子本舗(歓喜・歓東坑)終掘
別子銅山に女鉱夫登場
四阪島社宅建設始まる
筏津坑採鉱開始
1900 明治33年  伊庭貞剛住友家第2代総理事就任
別子開坑200年を記念し皇居前に楠正成象献納(別子銅)
惣開分教場が私立住友惣開尋常小学校として開校
新居浜精錬所の大煙突完成
住友銀行東京支店開業
角石原焼鉱場をストール式に改造
四阪島に小型発電機設置
1901 明治34年  惣開に住友病院新築竣工
私立別子尋常高等小学校の校名を私立住友別子尋常高等小学校に改称
私立住友四阪島尋常高等小学校開校(生徒35人)
別子に腸チフス蔓延 患者78人 死者18人
別子銅山に電灯設備設置さる 石油発動機
鉱毒問題起き中央より調査官多数来る
弟地坑(筏津坑)休坑
別子銅山遭難流亡者碑を随応寺東墓地に設置
1902 明治35年 第三通洞貫通(東平坑口〜東延斜坑底)
端出場火力発電所完成 90Kw      
鋼製汽船御代島丸 新居浜-尾道定期航路就航
住友本店を今橋4丁目に移す
東平に選鉱場建設
電動式ポンプを導入
1903 明治36年 第一通洞の照明を石油灯から電気灯に
軽便索道完成(一本松〜東平)
1904 明治37年 伊庭貞剛辞職し、鈴木馬左也住友家第3代総理事就任
落シ水力発電所設置 90kw
第一四阪丸進水(新居浜〜四阪島)
東平第三変電所完成
新居浜精錬所の粗銅、精銅の生産終結、閉鎖
別子焼鉱場操業停止
高橋洋式焼鉱炉(ストール式)廃止
角石原焼鉱場操業停止
四阪島精錬所完成
四阪島火力発電所完成
四阪島郵便局開局
焼鉱用薪木を石炭に切り替え  
1905 明治38年  四阪島製錬所、本格操業開始
四阪島製錬所、煙害問題発生
石黒駅開設  東平〜黒石間に複式索道設置  
角石原焼鉱場廃止
第三通洞に電車導入
第三広場造成完成
第三沈殿所完成
東平選鉱場完成
東平収銅場完成
山根収銅所完成
坑水路完成(第三通洞〜東平〜端出場〜新居浜)
新居浜火力発電所完成(惣開)
四阪島日用品配給所開設
住友病院四阪島出張所開設
住友病院東平出張所開設
1906 明治39年 私立東平尋常高等小学校開校(生徒21人)(昭和43年閉校)
東延選鉱場廃止
飯場制度改革に着手
太平坑の開さく着手
四阪島に住友別邸(日暮亭)完成
四阪島娯楽場設置
東延斜大半焼失
東平配給所完成
東平 柳谷社宅完成
1907 明治40年 別子山中で暴動発生  軍隊出動
呉木マンプ完成
四阪島製錬所でコークス製造
1908 明治41年 鷲尾勘解治、鈴木馬左也に勧められ住友入社
東平郵便局開局
住友病院東平分院新築
住友本店を北浜5丁目新館に移す
日浦通洞の開さく着手
坑内労働8時間 坑外労働12時間に
新居浜村が新居浜町に
1909 明治42年 別子産銅量が6,000tを超える
東平接待館完成
東平郵便局開設
惣開〜四阪島間に特設電話開通
1910 明治43年 四阪島製錬所の煙害に関し、第1回の賠償契約成立
第四通洞の開さく着手
1911 明治44年 別子鉱山鉄道上部線廃止
日浦通洞貫通(東延斜坑底〜日浦)第三通洞と連絡
索道廃止(石ヶ山丈〜端出場)
軽便索道廃止(一本松〜東平)
角石原選鉱場廃止
大立坑の開さく着手
小足谷酒造場の醸造中止
東延斜復旧
第一通銅鉄軌道牛車廃止
1912  明治45年  端出場水力発電所完成(3,000kW)
東平娯楽場設置
別子山村郷土誌を編さん
1912 大正元年 鷲尾勘解治、別子銅山に『自彊舎』を創立、自費で運営(別子山方)
1913 大正2年 住友肥料製造所開設(現 住友化学活、媛工場)
支配人の上に所長を置き最高責任者に
坑内作業用種油灯に代えアセチレン灯使用
1914 大正3年 広瀬宰平没(87歳)
端出場用地造成
四阪島製錬所の六本煙突完成
1915 大正4年  大立坑、第四通洞貫通
大山積神社を目出度町から東平へ奉遷
住友本邸を鰻谷より茶臼山に移す
自彊舎が呉木に移転
四阪島6本煙突完成 6年廃止
1916 大正5年   採鉱本部を東延から東平に移転
小足谷小学校閉校
自彊舎を別子山村から東平に移転
小足谷劇場に幕
蘭塔場の石碑を瑞応寺へ移設
女子鉱夫の雇用禁止
東平に浮遊選鉱試験工場設置
別子式削岩機実用開始
鹿森社宅建設開始
1917 大正6年 余慶坑開坑
弟地坑を筏津坑の名で探鉱再開
別子鉱業所、本館を惣開に新築
第三変電所完成
私立住友惣開小学校鹿森分教場開校
打除・鹿森社宅 完成
住友病院端出場出張所開設
1918 大正7年 積善坑開坑
四通橋完成
1919 大正8年 土佐吉野川水力電気叶ン立(現 住友共同電力椛O身)
端出場仮手選鉱場完成
別子山村役場を弟地に移転
新居浜電錬(精銅)工場完成
円通寺 火災のため廃寺
実働8時間制実施 坑内は7時間
1920 大正9年 住友予州親友会設立
東平粉鉱選鉱場(比重選鉱)完成
1921  大正10年  住友林業所開設(現 住友林業梶j
四阪島製錬所大改造に着手
住友総本店を改組し住友合資会社設立
1922 大正11年  鈴木馬左也没 後任中田錦吉。
新居浜〜四阪島間海底ケーブル敷設
別子労働組合結成
東平粒鉱選鉱場(比重選鉱)完成
四阪島火力発電所廃止
1923 大正12年   全坑水を第四通洞から排水
東斜坑の開さくに着手
川口新田社宅第一期150戸建築
東平・鹿森で第一回坑夫取立式
1924 大正13年 四阪島製錬所、大煙突完成
筏津-日浦間索道完成
別子労働組合を結成
ニッケル・セレニウム製造開始
筏津抗の操業再開
1925 大正14年 鰹Z友肥料製造所となる(現 住友化学活、媛工場)
坑内に蓄電池式機関車導入
端出場手選鉱場の建設着手
住友病院筏津診療所開設
住友本邸を大阪茶臼山より神戸住吉に移す
星越浮遊選鉱場完成、星越駅設置
総理箏湯川寛吉辞任、後任小倉正恒
SK銅の製造中止
第三斜抗の開さくに着手
1926 大正15年 東平比重選鉱設備を新居浜選鉱場に移転
伊庭貞剛没
別子鉱業所、飯場制度を廃止
1926 昭和元年 川口新田に自彊舎再興(東平から)
1927 昭和2年 東斜坑完成
土佐吉野川水力電気鰍ノ端出場発電所など電力設備譲渡(現 住友共同電力梶j発足
別子鉱業所、住友別子鉱山鰍ニして独立
鷲尾勘解治、最高責任者となり末期の経営を説く
新端出場駅完成 打除駅は貨物取扱所
東平・鹿森で第二回坑夫取立式 以降廃止
端出場手選鉱場完成
1928 昭和3年 山根グラウンド完成
鷲尾勘解治、新居浜大改造計画発表
大山積神社を東平から川口新田に奉遷
筏津手選鉱場完成
山根収銅所拡張
東平収銅所廃止
採鉱課事務所を第三から東平へ移転
四阪島精錬所のペテルゼン式硫酸工事第1期工事着工
住友病院東平出張所を分院に
住友病院四阪島出張所を分院に
1929 昭和4年 別子鉱山鉄道を専用鉄道から地方鉄道に転換  一般荷客の営業輸送始まる
山田(星越)社宅建設開始
四阪島精錬所のペテルゼン式硫酸工事第1期工事完成
満50歳定年制度
七番ダム完成
東平一本松・柳谷・唐谷社宅撤退
筏津第二斜抗の開さく開始
1930 昭和5年 採鉱本部を東平から端出場に移転
川口新田倶楽部完成
四阪島精錬所のペテルゼン式硫酸工事第2期工事完成
東平選鉱場廃止
東延斜坑の使用中止
週休制実施
1931 昭和6年 住友病院山根分院開設
昭和通り完成
1932 昭和7年 東延斜坑で大火災発生
四阪島精錬所のペテルゼン式硫酸工事第3期工事完成
東延斜坑廃止
1933 昭和8年 鷲尾勘解治依願退職
新居浜築港に着手
1934 昭和9年 住友機械製作叶ン立(住友別子鉱山叶V居浜製作所の分離独立)
鰹Z友肥料製造所、住友化学工業鰍ノ社名変更
土佐吉野川水力電気梶A四国中央電力鰍ノ社名変更(現 住友共同電力鰍フ前身)
別子銅山の全鉱石を浮遊選鉱に
1935 昭和10年 東平〜端出場の索道完成 東平〜黒石間索道廃止
索道完成(太平坑〜東平)
探鉱通洞の開さく着手
新立坑の開さく着手
筏津娯楽場設置
1936 昭和11年 新居浜港に浮桟橋完成
別子鉱山鉄道新居浜港線(星越〜新居浜港間)開通
星越に住友別子病院完成
住友倶楽部、泉寿亭完成
ほぼ全面的に削岩機に切り替え、手堀りはほとんどなくなる
1937 昭和12年 住友倶楽部完成
泉寿亭完成
住友本邸を神戸住吉から京都鹿ヶ谷(有芳園)に移す
四阪島精錬所の中和工事第1期工事着工
1938 昭和13年 四阪島製錬所の中和工場第1期工事完成
東平〜日浦間にかご電車運転開始
1939 昭和14年 新居浜築港完成
四阪島製錬所の中和工場第2期工事完成:排ガス完全処理に成功
四阪島製錬所の煙害問題が完全解決
1940 昭和15年 別子開坑250年記念式典挙行
新立抗完成
京都鹿ヶ谷に芳泉堂を建立
住友機械製作梶A住友機械工業鰍ノ社名変更
1941 昭和16年 私立住友惣開小学校を新居浜市に移管、鹿森分教場は東平小学校の分教場となる。
聡理事小倉正恒辞任、後任古田俊之助
筏津新坑完成
1942 昭和17年 別子鉱山鉄道国鉄連絡線開通(滝の宮〜新居浜駅)
端出場−黒石間の索道完成
1943 昭和18年 探鉱通洞貫通(大立坑〜筏津坑下部)第四通洞と連絡
基安鉱山買収
住友鉱山、捕虜1000名の労役使用を申請
1944 昭和19年 枝折−石黒間の索道完成
1945 昭和20年 戦争により住友各社生産を一時休止
住友吉左衙門(友成)、住友本社社長辞任
1946 昭和21年 住友鉱業梶A井華鉱業鰍ノ社名変更
住友本社総理事古田俊之助辞任
連合国軍総司令部より住友本社解散命令
別子労働組合結成
別子復興運動始まる
1947 昭和22年 別子坑内大火災発生(鎮火まで約1ヵ月)
本社東京移転
学制改革により、別子学園東平小・中学校、別子学園四阪島小・中学校に改称
1948 昭和23年 別子銅山復興(下部開発)起業に着手
別子農林事業所、四国林業梶i現 住友林業鰍フ前身)として発足
1949 昭和24年 別子鉱業所と別子製錬所統合、別子鉱業所になる
1950 昭和25年 別子建設叶ン立(現 三井住友建設梶j
兜ハ子百貨店開店(新居浜大丸)
別子鉱山鉄道電化完成
井華鉱業鰍ゥら非鉄部門を分離し、別子鉱業叶ン立
「佐々連鉱業」を合併
昭和天皇 新居浜電錬工場ご視察
1951 昭和26年 兜ハ子百貨店、兜ハ子大丸に社名変更
白水会(12社)発足
新居浜選鉱場、磁力選鉱開始
1952 昭和27年 別子鉱業梶A住友金属鉱山鰍ノ社名変更
1954 昭和29年 別子銅山上部開発・中部開発起業着手
1955 昭和30年 別子鉱山鉄道が、地方鉄道から専用鉄道に再転換
住友林業叶ン立(四国林業鰍ニ東邦農林轄併)
別子銅山下部開発起業完成
東平プール完成
新居浜電錬工場を新居浜精銅工場と改称
1956 昭和31年 別子鉱山上部開発・中部開発起業完成
1957 昭和32年 索道廃止(大平坑〜東平)
1958 昭和33年 別子銅山筏津下部開発起業着手
排気斜坑完成
積善坑 閉坑
1959 昭和34年 角野町、新居浜市と合併
石黒駅廃止
1960 昭和35年 大斜坑の開さく着手
泉屋博古館設立
1961 昭和36年 別子鉱山30番中坑道準で富鉱帯に着脈
別子学園(東平・四阪島小・中学校)公立に移管
四阪島精錬所のペテルゼン式硫化工場を新式に改造
1962 昭和37年 別子建設梶A住友建設梶i現 三井住友建設梶jに社名変更
鹿森ダム(国領川総合開発計画)完成
1963 昭和38年 大斜坑の開さく計画変更
別子鉱山筏津下部開発起業完成
銅山峰ヒュッテ 小屋開き
1964 昭和39年 河又-東平腺開通(通称自衛隊道路)
1965 昭和40年 地圧増大による山鳴りの発生(地表下1,600m)
1966 昭和41年 住友病院山根分院廃止
別子ダム完成
山根発電所 東平発電所 完成
1968 昭和43年 索道廃止(東平〜端出場)
東平坑終掘3/25 、東平撤退
上部竪抗巻揚機運転終了4月
新居浜市立東平小、中学校廃校3/25、鹿森分校は新居浜市立角野小学校の分校となる
1969 昭和44年 大斜坑完成(端出場坑外〜32番坑道準)
東予精錬所の建設着手
鹿森分校が角野小学校に併合
1970 昭和45年 別子鉱山中部坑終掘
住友共同電力樺[出場発電所廃止
新居浜市立角野小学校鹿森分校廃校
1971 昭和46年 別子鉱業所を別子事業所に名称変更
東予精錬所完成、生産開始
金鍋抗閉塞
1972 昭和47年 別子鉱山下部坑操業終結
かご電車廃止(東平〜日浦)
山ハネ現象発生
本山坑坑内作業停止3/31
1973 昭和48年 別子鉱山筏津坑終屈3/31 別子銅山休山
1975 昭和50年 別子銅山記念館開館
別子鉱山鉄道新居浜港線廃止
別子大丸が新居浜大丸と改称
1976 昭和51年 四阪島製錬所の銅製錬操業終結
1977 昭和52年 別子鉱山鉄道(下部鉄道)廃止
1978 昭和53年 東平第三通洞閉塞5/17
1979 昭和54年 佐々連鉱山閉山
1981 昭和56年 鷲尾勘解治没
1988 昭和63年 潟}イントピア別子創立
東平地区銅山の里自然の家開所
1990 平成2年 別子開坑300年記念式典挙行
円通寺卒塔婆建立10/16
住友化学工業活、媛工場歴史資料館開催(旧住友銀行新居浜支店)
大永山トンネル開通12/1
1991 平成3年 潟}イントピア別子端出場ゾーンオープン
1992 平成4年 別子銅山記念図書館開館
1993 平成5年 16代吉左衛門(友成)逝去。17代吉左衛門(芳夫)襲名。
1994 平成6年 潟}イントピア別子東平ゾーンオープン
1997 平成9年 広瀬歴史記念館開館
2001 平成13年 伊庭貞剛没後75周年記念碑建立(住友の森エコシステム)
旧住友銀行新居浜支店(現 住友化学工業株愛媛工場歴史資料館)が登録有形文化財となる
歓喜坑、歓東坑復元
2003 平成15年 別子山村が新居浜市と合併
広瀬宰平の銅像が復元される(広瀬歴史記念館)
旧広瀬邸が国の重要文化財に指定される
2004 平成16年 住友化学工業鰍ゥら住友化学鰍ヨ社名変更
2005 平成17年 遠登志(おとし)橋が国の登録有形文化財に登録される
2009 平成21年 山根競技場観覧席/旧山根製錬所煙突/旧泉寿亭特別室/旧別子鉱山鉄道 端出場隧道/ 旧別子鉱山鉄道 端出場鉄橋(足谷川鉄橋)国の登録有形文化財に登録
2019 平成31年 銅山峰のツガザクラ 国の天然記念物に指定

2022/06/22