旧別子取材
2010/09/26
今回は「東延」の取材に行ってきました。
@ 東延に煙突があった 第二次世界大戦の時に倒したそうですが残骸がある これの確認
A 東延に間符がある これの発見
B 東延築提の1段目に降りる
C 東延竜王神社の確認
@ 東延に煙突
これは東延の絵葉書です。大煙突が写っています。
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同じく山村文化34号の8ページ
の写真には破壊された煙突の
残骸が見えます。
これまで何度か東延に足を
運んでいますが 見たことが
ない。
昭和9年に破壊されて 写真は
昭和27年ごろなので
破壊されて約60年
これだけの大きなものだから
どこかにあるだろう。
発見
同じところに
同じように ありました
同じアングルで撮影したかった
のですが 木が茂って
無理でした
登山道のすぐ脇にありました。
何だろうと思っていたのですが
まさか 煙突の残骸とは。
倒壊した煙突の煉瓦の上にも木が茂り
いつしか 自然に帰るのでしょうか。
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A 東延の間符
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東延には沢山の間符がある
東延斜抗
天満水抜間符(弐番抜戸・東延西走り抗
東延新坑口(仮称)
歓冶間符(東山間符)
東延東走り抗
東延風廻し
新居浜史談379号 別子銅山の「間符」(坑道)について(入江義博)より引用
このうち東延斜抗のみ確認済み
歓冶間符(東山間符) 発見
東延東走り抗 発見
↑
東延東走り抗
↑
歓冶間符(東山間符)
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この間符は 歓治問符のすぐ隣にありました
坑口は別子銅山の中では大きいほうだと思います。
入り口は石で塞いではいましたが
上部は崩れて中が覗ける状態でした。
気味が悪いので、写真を撮っただけで退散しました。
東延斜抗から小さな谷を渡ったところにありました。
木々が被い茂り東延斜抗からは見えませんがすぐそこ
にあります。
プラスチックの看板があります。
坑口は広く下部は土で埋まっていました。
入り口は封鎖されています。
左が歓治問符 右が 東走り抗です。
東延東走り抗
巻揚機室
大煙突の残骸
東延斜抗
東延での間符の位置関係は
昭和27年の写真で確認してください。
B 東延築提の1段目に降りる
下の写真は住友金属鉱山が出版している「あかがねの故郷_15_東延斜坑」です
石積は2段になっています。
下の写真は2009/11/28撮影ですが1段しか 確認できません。
今も2段あるか 確認しました。
ここが1段目の上の広場です 上の写真の赤丸付近です 木が生えて何も見えません
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C 東延竜王神社の確認
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山村文化30号の伊藤玉男氏の写真は語る7
東延(上)の38ページに下記の写真があがある
森の中に姿を見せる遺物
(東延竜王神社の灯篭)
近藤幹夫氏提供
となっている
伊藤玉男氏の「明治中期の別子銅山」の地図では
東延竜王神社は明治中期は東延斜坑の
すぐ上に祀られていたようである。
赤丸が鳥居の記号で竜王神社だったらしい
しかし「後年西方の尾根へ祀る」とある
ので 赤い線の尾根かも分かりません
東延斜抗の上には何もなかった。
これを探して見ようと山中をさまよった。
遺跡があるが住居跡らしい
ここは尾根の広場でるがここでもなさそうです
結局わからないまま下山した
木の葉が茂って分からなかったかも・・・
11月になったら木の葉も落ちて見通しが利くから
もう一度出直したほうがいいかな
帰って文献を調べていると
「旧別子銅山案内」の32ページに
「今も南口の坑口上にほこらが残っている。明治40年の
暴動に最初の「のろし」を上げた所である。
対岸の岩山の上に残るコンクリートの火薬庫跡と共に、
歴史に残る所である。
とある。本当なら全然別の所を探していたことになる
こんどは第一通洞の上を探してみよう