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旧別子探訪

2010/10/10

私の友人に「石ケ山丈」を調べている友人がいる。
ホームパージは 
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/haruaki/

春秋氏に連れられて「石ケ山丈」に行ったのが
2009年6月28日でした。
この日から「歴史マニア」というか
別子銅山を調べるきっかけになった。

今回はその春秋氏を別子銅山でも
最後に栄えた「東延」を案内した。
春秋氏の目でみた情景を彼の写真を借りて
ご案内します。

春秋氏のカメラは
ニコンデジタル一眼レフカメラ「D80」
このカメラに 専用超広角ズームレンズの
AF-S DX NIKKOR 10-24mm f/3.5-4.5G EDを
セットして撮影しています
私のカメラは広角18mm(35mm換算28mm)で
このカメラは広角10mm(35mm換算15mm)と言う
超広角レンズなので面白い写真が満載です。

小足谷醸造場の煙突

明治3年(1870)からの長い歴史をもった
「イゲタ正宗」の醸造も、明治44年(1911)に
休止となり大正3年(1914)に完全に廃上された。

採鉱課長宅跡

採鉱課長を始め八十戸に及ぷ職員社宅が建ち並び、特にその社宅の石垣と石段
は全く堅固で、石工の自慢の作と云われ、今も完全に残っている
  合田正良著 別子銅山214ページより
 

接待館跡

別子山中の足谷で最後に拓けた小足谷集落:には、
明治期後半、接待館も置かれていました。
この接待館は、別子山中の中心街であった目出度町
の住友新座敷が、小足谷にあった伊予屋支店(泉亭)跡に
移動してきたものとされ、要人の宿泊や賓客の接待、
職員の懇親会などに使用されていました。
現在、重厚な赤煉瓦塀のみが残されており、館跡には杉が
植林されています。
  歓喜の鉱山84ページより

鉱山で働く人々のために収容人員一千人を越すという大劇場を
建設した。年数回大阪から歌舞伎芝居を呼んで公演された。
この大階段から当時の繁栄の様子が伺える

小足谷劇場跡

通称「パイプ橋」

真直ぐ行くと目出度町を通って銅山越に
橋を渡ると歓喜抗・歓東坑を経由で銅山越にいけます。
橋を渡って行ったほうが楽です 

第一通銅南口

明治15年(1882)2月、別子側南口となる代々坑の坑口と
角石原を結ぶ第一通洞の開さくに着手しました。
同年、この第一通洞の開さくから日本の諸鉱山にさきがけて
ダイナマイトの本格使用を開始したため、開さく工事は
順調に進捗し、当初計画より3年も早い明治19年(1886)
全延長約1,021bが貫通し、総工費も8,613円余で
済みました。
これまで物資の運搬は、銅山峰(海抜1,294b)を
越えなければならなかったものが、この第一通洞
(海抜約1,100b)の完成により、その困難性が解消されました。
  歓喜の鉱山28ページより

明治18年に完成したこの石垣ですが 120年余り経過したにもかかわらず ご覧の通りの頑丈さです。
当時人々の苦労がここに見られます

明治十六年十月に着手したが、冬季のこととて本工事に着手したのは翌年雪解けの三月二十二日であった。
以来、酷しい自然現象の中で事業を継続して翌十八年十月十三日をもって地形の全てが完成した。
以下はその二年分の稼働人員である。
石材切採工 6381人
石材運搬人夫 7316人
石垣築造石工 3909人
石垣築造手伝 3476人
埋坪石工 70人
合計すると21152人という膨大な数にのぼるが、まだこの他に採石場の剥土工や修羅運搬のための
木道工事にかかった者や雑工と称する者たち合わせて1811人を加えると23000人にも及ぶ職人や
人夫が築堤という新事業に従事したのである。   山村文化31号6ページより 

ラロックの『別子銅山目論見書』に準じて、明治9年
(1876)7月から開さくを始めた東延斜坑が、
明治23年(1890)4月、東延機i械場に蒸気捲揚機が
完成してから開さく作業が進展し、明治28年(1895)
1月に8番坑道準の三角に到達、同年10月、実に19年
と4か月の歳月をかけてついに完成しました。
延長約526bの開さくでした。
この東延斜坑は、完成後、各坑道間の連絡や鉱石の
運搬路、排水路を兼ねており、上部坑の開発に大きく
貢献しました。
また、東延一帯は、東延斜坑をはじめ第一通洞南口や
採鉱課事務所(採鉱本部)ほか各課の事務所が置かれ、
これにより『史話』のいう東延時代が出現することになりました。

歓喜の鉱山32ページより

東延斜坑

巻揚機室

この巻揚機室は旧別子に残っている建物の
数少ないひとつで シンボルのように取り
扱われていますが 私にはどう使われていたのか
まだよく分かっていません。
昭和27年の写真に写っていて 使われていたようでは
ありますが 今後の課題のひとつです。

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東延の煉瓦の建造物

この煉瓦の建造物も分かりません。

東延東走り抗

手前の穴が 歓治問符

この建造物の煉瓦には色々なマークがついています
煉瓦の製造所のマークです。

別子銅山の煉瓦については高橋幹氏が「山村文化」に
寄稿しています
山村文化15 別子山中の煉瓦一中間報告一
山村文化16 端出場の煉瓦
山村文化17 東平の煉瓦
山村文化25 喜三谷社宅跡の煉瓦
山村文化27 石ケ山丈停車場の煉瓦
山村文化31 別子銅山の煉瓦一その形状からみた分類一

間符とは
間符とは坑道のことである。間歩とも書く。「ま
ぶ」から転化してトンネルのことをマンプと呼ぶこ
とがあった。江戸時代は「問符」と呼ばれていたが、
明治6年(1873)に日本坑法が制定されてから
は「坑」と呼ばれようになったようである。ちなみ
に別子銅山はこの年から「別子鉱山」と称するよう
になった。

新居浜史談379号
別子銅山の「間符」(坑道)について
入江義博氏 より

そーめんの滝

東延の暗渠を抜けて二百米足らずの所に絶壁があり数条
の水を落下させている。そうめん滝というのはこれである。
滝の上方には住居跡が沢山ある。

明治の別子81ページより

今は滅多に人の訪れないだろうそうめんの滝である
水の少ない旧別子で滝は珍しいものだったろう
滝の上に人が住んでいたようだから 当時は
こんなに水量がなかったものと思われます。