東延火薬庫

旧別子登山口に看板がある
この中の東延に「火薬庫」とあります。
東延には何回か行くが 火薬庫 は 
見たことがない。

探索に行ってきました

2010/11/20

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明治3年(1870)黒色火薬の使用開始した。
それまで 「のみ」と「金槌 」で掘っていた鉱夫たちは
火薬の威力に驚いたことだろう
こんなに便利なものだから大いに使った。
しかし 大量の火薬の管理にも気を使った事だろう。
明治35年制作の「別子全山測量係作成地図」にも
いたる所に「火」のマークがある 「火」が火薬庫です。

明治中期の別子銅山(伊藤玉男著)の地図には
東延の火薬庫が記してある

「別子全山測量係作成地図」コピーが広瀬記念館に
展示しているこれにもあった。

赤丸のところを拡大

この2枚の地図を頼りに 火薬庫に出発

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2010/11/20 
8:20 旧別子登山口を「東延の火薬庫」を目指して出発
なにわナンバーの車が1台あったのみ
登山シーズンが終わったのかな?
11月6日の金鍋抗探索の時は駐車場がいっぱいだったのにね

9:11 ダイヤモンド水に到着
「移植観察中」の看板のなかに
植物が植えてあった。「1」「2」の札がある

10:32 東延に到着
煉瓦の建物の近くに水槽がある。物住頭付近から上部鉄管道によって
運ばれてきた水がここに溜めて東延住民の飲料水になったようです。
測量をすることにした。

タコ糸に1m置きにマーキングした手作りの
メジャーですが歩測より正確でしょう。
貯水場と言うより分配場と呼んだほうが良いかも

東延の水槽

水槽を回り込むように道がある東延の堰堤の端から続く道は細道ではあるがしっかりしている

7〜8分歩くと 広場に出る。
谷間に石が積んであり護岸のようでもある。

この石積の谷を下った所から水平に行くと
目的地の「東延の火薬庫」に行くはずである。

藪です 水平は藪です。なかなか思ったようには
進めません 尾根まで来たのですが 火薬庫は見えません。

地図とにらめっこ 思案の挙句 山を下ってみることにする。
結果論ですが ここはもう少し水平に行った
方が良かったのでした。

なかなか見つかりません。
とうとう 代々抗(第一通洞)の標高(1100m)まで降りてきました。

少し広いところに出ました。

岩盤に鉄パイプが突き刺さっているのが見えました。

車輪もあります。

レールも見つかりました。

地図の赤丸近辺ですが施設のようなものは
書かれていません。東延付近は昭和になっても
作業していたので その時の残骸でしょう。

もう少し水平に進むと 草木の少ないところに出ました。
見上げると カラミが見えます。

見えてきました。カラミです。
標高は1115m

このあたりにも精銅所があったのですね

東延火薬庫に行くのに道に迷って
下に降りたのが 失敗ではなく
大変な発見につながりました。

11時32分 カラミ出発 標高1115m 
藪の中を火薬庫を目指して登る。

11時35分 道を発見 標高1139m
かなり綺麗な道です。ただし 木々は伸び放題です。
道は ほぼ 水平に続く

11時36分 突然 目の前に壁
やった!! 火薬庫だ!

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石積の砦のようである。
表面をセメントで塗ってある。
旧別子ではあまり見られない手法です。
いつ造ったのか 又 いつまで使っていたのかは
これから調べるところです。

一箇所 入り口がある。
恐る恐る入ってみる。
かなり広い空間が広がる。
「荒れ放題」と言う言葉が浮かぶ。

火薬庫らしく中央が一段高くなっている。
煉瓦5〜6枚の高さです。
ここで火薬を保管したのでしょう。

他の火薬庫と違うのは 周囲の壁が高い
他は1.2m〜1.5mぐらいだったのですが
ここは2m近くある。
それと山際は石積がない
岩盤をそのまま利用したのだろうか?

探索すると屋根瓦が見えた。端の方に集めて置いてあるので
ここを撤去する前からあったのだろうか
落ち葉などに隠れてほとんど見えなくなっていた。
1枚だけ引き出して写真を撮った

壁の上に上がってみた。
壁の厚みは 1.4〜1.5mはあるだろうか。
充分に歩ける幅がある。
松の木やその他雑木が生えている
それも相当の年月をかけて成長したような
小さいけど老木のようでもある。

突先からのパノラマ写真です。
中央に今も活動している索道が見える。
その右 谷を挟んで 東延の第一通洞南口付近も見える
と言うことは第一通洞付近からここがよく見えるということだ

突先から下を見る
足がすくむ。
カメラを下に向け手だを伸ばしてシャッターを押す
尾根道があるような ないような?

この写真も手をいっぱい伸ばして撮ったものです。
城壁以上に積み上げた石をコンクリートで塗っている
下から松などの植物が侵食している。
上の方が もうわずかに見えるだけです。

あと何年かすると 埋もれてしまうのかなぁ
この木は勝手に木っても良いものだろうか?

産業文化遺産の保護のしかたについて
考える事が多々ある。
伊藤玉男氏が角石原のみならず旧別子の方まで
遺産の保護に力を尽くしてきた。
伊藤玉男氏の亡き後(平成16年6月22日没)
これらの遺産郡は誰が護るのだろう
旧別子の登山道沿いは 草刈や道の整備は
行われているようですが 東延の石堤 そして
ここの東延の火薬庫など 人の行かないところは
自然のままにして 自然に返すのだろうか?

簡単な測量をしてみた。タコ糸にメモリを付けただけの
手づくりのメジャーですが 大まかな図面ができる
内径で15mぐらいあるから 外から見れば 17mでしょうか?
山際は岩などで境目がはっきりしない。
入り口のある東延側 が7m 
東側が10mほどある 
中の台は8mぐらい 
電子メジャーでは木々が邪魔をして図れないだろう

記念写真を撮って 東延火薬庫を後にした。

尾根づたいに下に降りれば30mぐらいで索道がある
「道ぐらいはあるだろう。」と思ったが、
「東延に引き返したら何処に出るだろう」とも思い
東延に出ることにした。

藪道であったが 石垣もあり 道のなりを呈している
倒木、道の石垣のズレ バラ科の植物の刺などに
悩まされながら 何とか道に出た。
この間 10分ぐらいか?
出たところは  此処でした

藪の中を真直ぐ東に進んだら 東延火薬庫でした。

火薬庫の位置関係のわかりやすい写真があったので
紹介します。

撮影場所は東延の第三通洞の少し手前になります。

@はレールのあった所です。
Aの場所 カラミのあったところ
Bは東延火薬庫です。
冬場の写真なのでよくわかりますが
夏場は木々の繁りで見えづらくなります。

白いコンクリートが見えているのですがこれが
東延火薬だとは知らなかった。
また 火薬庫から下の尾根に索道が見えます。
ここに通じる道があるかどうかは不明です。

下部鉄管道

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さて時間があるので 登る道があるので
行ってみる事にした。

5分ほど登ると コンクリートの跡がある。
何かの施設の跡だろうがわからない。 
同じような物が2カ所あった。

1〜2分登ると横道に出た。左手は藪になっているが
右手の道は綺麗に整備されている

標高は1180m 水平に続いている
「はて 何だろう?」
ここが 鉄管道だと全く気がつかないで歩いていた。

道の下に「土管」発見!
「あっ! 鉄管道だ!」
「土管だ! 鉄管じゃないぞ!」

家に帰り山村文化の4号 高橋幹氏の鉄管道を
読んでわかったのですが、「鉄管道」とは通称で
ほとんどが土管で 谷を渡る時は鉄管を使ったようだ
又 上部鉄管道は木製の樋(とい)であったようです。

13時7分 鉄管道を歩き出して6分の地点で谷になった
ここは鉄管です。水平に谷を渡る鉄管を発見しました。
支えになる物も何もありません。鉄管だけが残っています。

鉄管と土管の継ぎ目は割れています。鉄管が外れたようです。

割れた土管

鉄管道も長年の風雪に崩れているところもあります。
土管が覗いています。
水平に通っていますので。谷だろうが崖だろうが
曲がりくねっていますが 上下はしていません。

時々会所がある。土管は道の下に埋まっているため
会所も必要か?。会所は尾根にあった。

下部鉄管道は結構厳しい山
を通っている為
このように道幅のない所もあります。
「端出場発電所導水路」は
トンネルが多かったが
ここはトンネルは全くありません。

下ばかり見ながら歩いて
いましたが 
見あげれば結構景色も
いいんですよ。
旧別子の上の方を歩いて
いるのですからね

土管と道の高さがわかるところに来ました。
ステッキの長さが1mです。ほぼ同じぐらいの深さです。
土管は道より1mぐらいのところに通っています。
すべてがこのように深いところではありません

なぜ 道の下に埋めたのでしょうか。
寒さではないでしょうか?
別子ダム(標高845m)の昭和42年から5年間の記録があります。
1月の最低気温はマイナス10.4度
2月は マイナス10.2度となっています。
鉄管道は標高1200mラインですので
まだ2〜3度寒いと考えていいだろう。
地中深くでないと水が凍るからでしょう。

私も標高600mぐらいのところに住んでいましたが
冬は水道は「だしっぱなし」でした
凍ると水道管が破裂するからです。

土管は地中に埋めたとして谷を渡る鉄管は
どのような寒さ対策をしたのでしょうか。

小さな橋がある。
この道は補修されて
いますね。
木々が生えていなく
一応整備されているようです。
誰が通るのでしょう?

13時40分 鉄管が見えました。
この鉄管は上部はあるものの 下部は腐って落ちていました

13時53分 林道に出ました。 車の「わだち」があります
今も活動している 林道のようです。
ブルーシートがある方の道から来ました。
林道は まだ 続いていますが
今日は此処までとします。
林道を取材をしながらですが1時間歩きました。
続きは 日を変えて 歩く事にします。

本日の行程図
始点は鉄管道の始まりのところです。
GPSは谷あいの為充分に感知していませんでした。

15時54分 登山口に到着しました。
この日の歩数は23094歩

「山村文化」の4号の31ページから始まる「上・下部鉄管道」に
「鉄管道について、可能な限り史料や絵図を調べたが、こ
れに言及したものは全く見当らない。二本の鉄管道は、各々
延長五キロメートル近くあり」と高橋幹氏は記している

全文紹介したいが最初の数行のみ記したい。

「別子銅山三百年の歴史は、水との戦いの歴史と言っても
過言ではない。坑内湧水、鉱水の処理、水害等はいずれも
銅山稼業を悩ませたものであるが、工業用水と生活用水の
確保も又、銅山の死活に係る問題であったに違いない。今
回は水に関係のある遺跡を紹介する。
西赤石の南斜面に残されている上下二本の水路跡は、水
を求めて苦悩した先人の貴重な遺跡である。二本の水路跡
は、現在鉄管道と呼ばれている。」

この本は新居浜市立図書館にあります
興味のある人はぜひ熟読ください。貸し出しも出来ます。

資料のない鉄管道のことは この高橋幹氏の「上・下部鉄管道」
がバイブルである。

此処まで行きました