高橋から下部鉄管道
   .    「明治の別子」と言う本がある。
書いたのは伊藤玉男氏 出版が昭和48年10月1日
この本の巻末に1枚の地図があります。
伊藤玉男さんが「別子鉱業所全山測量係地形図」
を参考にして自らの足で歩いて情報を書き込んだ
渾身の地図です。地図のタイトルは「明治中期の別子銅山」
私もこの地図を頼りに山の中を探索しています。

この地図の高橋溶鉱炉
(タカバシと読む・ダイヤモンド水の川向かい)
から下部鉄管道までをさかのぼってみた。
「導水」の2文字があるからです。
  
それと「山村文化」の4号の「上・下部鉄管道」著者は高橋幹氏
の中の35ページ
「住友別子鉱山史別巻の二七頁に、高橋熔鉱炉付近を撮影
した一葉の写真が載っている。この写真の中央やや左より
に、右手上方の山腹より左下足谷川に向って、一本の筒状
の建造物が写っている。これが土管か鉄管か、あるいは木
樋なのかは、この写真からは速断出来ないのだが、その形
状から考えて、導水管の可能性が高いのではないか。そし
て右手上方の山腹こそは、先に述べた下部鉄管道の遺跡の
終点付近にあたるのだ。下部鉄管道を運ばれてきた水は、
この写真にある導水管を通って高橋方面に送られていたの
ではないだろうか。この写真の撮影時期は明治十五年頃と
なっている。」
伊藤玉男氏の地図 高橋幹氏 の文章から 推測すると下部鉄管道の水は高橋に送られたと言うことになる
  

       探索 

今回探索のルート図
@水槽がない

Aトロッコの車輪

B見晴らしの良い尾根

C石積み

D石積み

E巻き揚げ機

F煉瓦の構造物

G道標

H索道の中間支柱

I下部鉄管道 会所

J分岐

K水槽

道はない 藪です。

ダイヤモンド水からすぐ上流の橋を渡ると登山道は左に折れる。これを右に行くと高橋製錬所跡に向かう
人の通れるぐらいの踏み分け道がついている。
  
@水槽がない 
もし下部鉄管道から高橋に導水されていた
のならば東延のように貯水池があるはずだ。
探したけれど見つからなかった。
木の樋のような跡は見つけたが上水が流れて
いたか坑水が流れていたかはわからない。
Aトロッコの車輪
落ち葉の色と車輪の鉄色が同じようなのでわかりづらい。
時間 9:11  標高1050m
車輪直径が28cm 厚さ7cm 
  
なぜ こんな所に車輪があるのでしょう。
ここは東延谷川にある製錬所から東に延びる
「鉄軌道」です。「別子鉱業所全山測量係地形図」
の二重の点線で描かれている。
長さは200m前後だと思われ トロッコを人が押して
運んだものと推測されます。
C石積み

少しの踏み跡がありますので誰かが探索したのでしょう。
 
D石積み
石垣が水平に続いています。
「明治中期の別子銅山」の地図で高橋溶鉱炉
と漢字が並んでいるすぐ上にそれらしき印がみえます
眼下にダイヤモンド水がみえる。
  
E巻き揚げ機
「明治中期の別子銅山」の地図で「○に捲」の記号
の所だと思います。捲だと「巻き揚げ機」と思われます。
まだナットの形はしているし ボルトの溝も見える
今まで何年の時間が経過しているのでしょう
   
煉瓦積みの施設ではありますが
長年の風雪に耐えもう「ボロボロ」の状態でした
少し大きな地震や台風でも危ない。
尾根で風雨にさらされている為でしょう。
この尾根は この日も風が強かった。
鉄の遺産なので 何年か 何十年か後には
錆びてなくなるのでしょうが

  
F煉瓦の構造物
ボルトが6本ささっている。先にナットのついている物もある。
煉瓦の構造物は 同じような物が2つある。長さが3m 高さが104cm 谷側の高さが148cm
奥行きが56cmありました。  この構造物は何だったのかは今はわからない。
2本の煉瓦構造物の方向は150度の方角だった。地図で確認すると矢印の方向です
   
Gの地点で道標があった。
木は腐っているが看板はまだ使えそうです。
ボルトなどから見ると最近(5年ぐらい前)まで
立っていたのではないがろうか。

何のために? 道案内でしょう。
誰のために? 人が来ていたのでしょう。
どこから?  う〜ん 道がない。

上から来た人の為の道標なら ここには立てない
横道を歩いて来た人のために
「ここから降りたら高橋溶鉱炉ですよ」と案内したはずだ
標高的には東延の第一通道と同じであるので
東延からの横道があったのではないだろうか。
「明治中期の別子銅山」の地図には道がない
「別子鉱業所全山測量係地形図」も同様です。
また 探索する場所が増えた。
  

鉄塔跡だろうか
写真のようなブロックが4個
ありました。最近の物のようです
別子銅山には関係ないかも。
現在も活動中の索道の中間支柱で
日浦谷の林道から東延に物資を送っています。
  
H索道の中間支柱
下部鉄管道に出ました
会所です。「明治中期の別子銅山」の地図では
この会所から高橋に導水しているのですが
下に水を落とす穴がありません。不思議です。

「上・下部鉄管道」著者は高橋幹氏は
「右手上方の山腹こそは、先に述べた下部鉄管道の遺跡の
終点付近にあたるのだ。」と述べている。
この会所は終点ではなかった。

会所には東から西に向かう穴があるが
高橋に水を流す穴がない。
I下部鉄管道 会所
  
J分岐
東延から登ってくるとここに出会う。
これから西はまだ探索のしていない所です。
  
K水槽
尾根に水槽がありました。木が茂っています。
使われなくなって100年ぐらいになるのでしょうか
水槽からは鉄管が突き出しています
穴は3個ありますが 1本だけでした。
すぐしたには煉瓦の構造物がありました
      
    
とりあえず現況確認だけで 下山します。
雨の具合が心配になりました。   詳しい探索は後日 また登ってきます。

       収銅所 

天気が回復しましたので
収銅所によって
寸法を測りました。

       案内板 

鉄管橋のところに道標がある 「銅山越」の案内ですが 
「目出度町経由50分」「寛政谷木方経由50分」とある
知らない人は「町」のつく方を選んでしまう。
2010/09/26に「こちらが楽です」と手書きのシールが貼って
あった。 いつの間にかとれていた。
  
お節介と思うが「銅山峰は橋を渡ると楽です」と書いたプレートを設置してきた。ちょっと見えづらいが 気がついてくれたらいいな