寛永谷の間符    . 2012/04/29           .

立川銅山
寛永年間(1623〜1639)に開坑されたというから別子開坑に先立つこ
と約60年である。初代の請負人は西条の人、戸左衛門で、後土佐の寺西喜
助、紀州の熊野屋、大阪の渡海屋さらに大阪屋吉兵衛と経営者は移り、別子
開坑時には新居浜金子村の真鍋弥一右衛門で7代目の大阪の銅業者、大阪屋
久左衛門の稼業の時代に経営不振に落入り、大阪屋の強い要請により、滞納
していた連上金もこめて住友に吸収合併された。これは寛政2年(1749)
12月のことで、当時、立川銅山の従業員の数は3,350人という記録があ
り、産銅量は年間40T位の貧弱な山であった。立川銅山は長谷坑ともよび
太平間符、都間符、大黒間符、寛政間符等があり後者は排水坑であった。足
谷山と立川山とは同一鉱床に属している。
第一通洞北口から西100mの所に現在銅山峰ヒュッテがあるが、これよ
りさらに西へ屋根を廻って800m進んだところに左側に太平坑、北方右下
80mの所に寛政坑、その西側200m位離れた所に長尾間符の跡が娃って
おり、昭和30年頃まで太平坑は細々ながら稼動していた。
都間符は、太平坑より露頭線にそって約標高差50M上方にあり、嶺南の
歓喜問符と抜け合って輸送用坑道として使用されていた。
大黒問符は都間符の上方さらに100Mの所にあり、嶺南の大和間符とほ
ぼ同一レベルである。太平坑(標高1,100m)から喜三谷に降りて、喜三谷
の社宅跡を通って下って行けば、第三通洞坑口で軌道に出合う。ここから、
軌道に沿って福井橋のトンネルを抜けると東平の停車場がすぐ眼の前にある。

「旧別子銅山案内」の25ページより



8:00 東平駐車場を出発 
登山者の車が並んでいる。たぶん西赤石山の登山者でしょう
早ければアケボノツツジが咲いているだろうが 
今年は寒いのでまだ咲いていないはずである

1 坑口周辺の草刈はこの住友金属鉱山の関    連会社が行った。
2 坑内保坑の木が腐食して、危険なので、
  ライナープレートにて、保坑補修した。
3 トロッコは、水滴の落ちが、少ない処に移動しまたとの返事がありました。
10分ほど歩くと「第三通洞」に着く    「オッ! 散髪しているぞ」
なんと鬱蒼と茂っていた雑草雑木がすっかりなくなって
全体が現れている。何年も山ごもりをしていた山男が散髪を
したようで 見違えるようだ。鉄の扉もお化粧したようだ。
   
8:22 寛永谷取水口の看板   登山道を少し
    登った所にあります。
    「すぐ下に取水口があるのだろう」
    とちょっと行ってみる事にした  
    奥には「立入禁止」の看板。
    そーっと通るだけです ご勘弁を・・・
道があって 脇に土管が通っている。
谷に降りるのかと思えば
道は谷沿いに登っていく。
8:30 入口の塞がった抗がある。 
   名前名なかった。
   
谷の向かいに「新寛永谷横抗」があった。
整備工事が2012/1/16〜2012/4/27とある
看板がある。
住友共同電力の東平発電所の
施設のようです。
「火薬庫風回し抗」と看板があった。
東平火薬庫の空気抗でしょうか?
第三通洞からここまで休憩なしの時間で
15ぐらいです。
8:52
寛永谷取水口と看板のある水路にでる。
     
ここからは大きな塩ビのパイプが伸びている。
谷の向かいには寛永谷収銅所の跡が続く
9:10 2つ目の水路があった 
塩ビの大きなパイプはここからきている。
   
寛永谷収銅所
寛永坑は古鋪であり造られた年代は正確には分からないが、疏水坑として完成したのは安永
五年(1776)である。寛永谷収銅所は、この寛永坑から排出される坑内水の浄化の為に造られた。
寛永谷収銅所が寛永坑口からやや離れた第二通洞の対岸に造られたのは、勿論地形上の
理由もあったろうが、明治二十五年に工事が中断していた
第二通洞を、将来改めて使用する可能性を考えてのことかも知れない。
(山村文化07号30ページ 別子銅山の遺跡5 寛永谷収銅所 高橋幹著)
    

ここで休憩をする。
ちょっとのつもりが30分も登ってきてしまった。
善次郎さんの地図からすると 引き返すより
登った方が近そうだ。

9:22 さぁ 出発です 谷に降りれそうにないので
急斜面をよじ登る事にする。
あった!!
「あった!! 第二通洞あった!!」
春秋氏の喜びの声がする。

9:25 「えッ! 本当」
   「まぼろしの第二通洞だよ」
あっけなく 春秋氏が見つけた。 

坑口は塞がてれいなかったが 抗水が流れとても
入れる様子ではない。
(もっとも入っていける坑口でも
  臆病の私はいつも遠慮している)
とっても冷たく澄んだ水だ

   
   第二通洞は、四番坑道準(海抜約1130メートル)で、寛永谷から
    坑内を通って小足谷疎水道と連絡するもので、明治22年から着工した。
    しかし、予想外に水が涌き出たため、25年に中止され、
    その後東延斜坑の完成や第三通洞(後述)の開さくなどにより
    必要がなくなったことから、そのまま未完成に終わった。
        (別子300年の歩み23ページ)
   
谷を渡り向かいの寛永谷収銅所の跡を
覗いてみた。構造は小足谷収銅所とよく似ている。

明治三十年六月に坑水収利委員会を設置し、
「東延、小足谷、寛永谷の各坑道出口で沈澱池、
濾過池を設ける」
ことを決め、翌年にかけて相次いで完成させている。
寛永谷収銅所はその時造られたものである。
(詳しくは 山村文化07号29ページ 別子銅山の遺
跡5 寛永谷収銅所 高橋幹著
  をご覧頂きたい 新居浜図書館で閲覧できる)
9:39 程なく谷に降りて そのまま遡る
 鉄の塊がある よく見ると
 トロッコのバケットの部分です。
     
寛永間符 (二番坑道準位)
安永5年(1776)立川銅山側の寛永間符を、
水抜間符として、排水を嶺北国領川の方へ
流したが、採鉱が進むにつれてこれでは不足し、
さらに深い所に疎水道を作る必要が生じた。
(旧別子銅山案内16ページ)
最初は立川銅山の採鉱間符だったようですが
寛延2年(1749 ) 別子銅山と合併したあと寛永
間符は水抜間符となった。
そして今も構内から水が流れ出ている
寛永年間(1636〜43) 立川銅山(西条藩領)
開坑している。寛永20年ごろと言われているが
寛永間符もこの時期開抗し年号が間符の
名前になったのだろう

10:01 寛永間符

人の話し声が聞こえ 赤い帽子人がやってきた。
第二通洞の場所を教えると引き返した。

第二通洞から20分ぐらい谷を遡ると白く濁ったよう
に見える水が流れ出しているところがある。
白い塩ビパイプから出ている
これをたどっていくと寛永間符がある
   
新長尾間符があるなら長尾間符もあります。
黒川氏のデーターにも載っているのですが
探訪済にはなっていません。時間があるので
少し探して見ます。
新長尾間符から水平に藪の中を歩きます。

10:35 寛永間符から10分
      谷の右側に 新長尾抗が見えました。
  新長尾抗は歴史に登場してきません 
  詳しいことは分かりません
坑口が塞がれています。と言うより潰れたと
言った方が正解かも分かりません。
僅かの隙間から中を覗けますが
坑木が落ち水が溜まっていました。
   
谷から40mぐらい登ったところでポスト跡を発見
コンクリートの跡が4箇所あります
太平抗から東平間での索道のポストだと思った。
ヒカゲツツジ
 ヒカゲツツジは、本州(関東地方以西)と四国、
九州に分布する常緑の低木。 高さは1〜2m
になり、山地の崖や岩の上に生育する。とある
寛永谷まで降りると 赤い帽子のグループはもう
出発した後だった
春秋氏が写真を撮っていてくれた。
女性一人を含む8人のパーティー
    
       マイントピア別子ガイドの人たちのグループのようだ。東平の管理人をされていた太田さんも一緒だったようです。
       (第二通洞は見つからなかったようです。  この人たちにとっては「幻の第二通洞」だった。)
       私に間符の事を教えてくれた入江氏も一緒だった。
   
太平〜東平の索道
認可申請 昭和10年3月6日
認可  昭和10年3月27日
完成  昭和10年5月5日
延長  1312m
廃止  昭和32年10月8日
別子銅山閉山は昭和48年ですから比較的遅くまで
活動していたことになる。
新長尾抗を寛永谷沿いにさかのぼると石垣が
見えるそこが新太平抗です。
貯鉱庫跡 55年前まで使われていたのですね
木はボロボロになっていますが 
鉄は今でも使えそうです
新太平抗の下のある索道場のコンクリートです。
4本残っていますが どんな風に
使われていたのかは分かりませんでした。
    

新太平抗です。
坑口の前は少し広場になっています。
角石原までトロッコも走っていたようです。
たぶん馬車でしょう。上部鉄道は角石原までで 
新太平抗までは来ていません。
軌道が違っていたようです

新太平抗から谷を越えると太平抗があります。
ちょっと見づらい所にあります。
  「別子銅山」166ページに新太平抗の写真があった。
   
角石原には銅山峰ヒュッテがあります。
伊藤玉男さんが造った山小屋です。
12:34 お昼にしました。
第一通洞 第一通洞の中は崩れていました。
伊藤玉男氏はここを通行して旧別子のほうに
行っていたといいますから 最近に崩れたの
でしょうか
2009年10月に撮影した写真も崩れていました。
    
昼からは 標高1100mラインから上の
間符の探索です。
ヒュッテを13:20出発 銅山峰への登山道を
2つ目の鉄塔(13:43)まで登ります。
古いお墓が並んでいるところです。
ここから水平に東に進むと大黒間符が
あります。道はありません。
鉄塔から10分弱で大黒間符に到着です
大黒間符 大黒間符から少し下ったところにあった。
大黒間符
別子銅山の例をみても分かることだが、近代以前の鉱山の開発は高所に始まり、次第に標高の低い所に下っていく
傾向がある。従って大黒問符が立川銅山における最も古い問符と考えられる。(山村文化09号32ページ 別子銅山の遺跡7 高橋幹)より 
元禄八年(一六九五)四月には、別子銅山側の大和問捺と立川銅山側の大黒間符が地中で抜き合い、境界紛争が発生した。
これは、天領の別子山村と西条藩領の立川山村との境界線も解決されていなかったことも重なり、訴訟にまで発展した、
   
都間符 放置されたトロッコ 新都間符
  
都間符
別子銅山開坑以前から、立川銅山師の手により別子鉱床の西端部分にあたる銅山峰の山腹に間符をつけて盛んに採掘が行われていた。
享保6年(1721)の「予州立川銅山覚書」には、立川銅山の間符として、大黒・都・金栄・天王・大平・寛永の六か所がみえる。
元禄八年(一六九五)立川大黒、別子大和の両間符で抜合い事件がおきたが、この時点で都間符が存在していたかどうかの記録はない。
しかし少なくとも元禄14年(1701)の京都銭座(京都糸割符仲間)が立川銅山を請負った時には、都間符はすでに拓かれていたと
考えてよいだろう。(山村文化09号32ページ 別子銅山の遺跡7 高橋幹)より
   高橋幹氏が都間符の事に関して3ページも掲載されています 山村文化は新居浜図書館で閲覧できます。
  
4月29日 世間様はゴールデンウィークで浮れているころ
春秋氏にさそわれて 間符探索に出かけました。
立川側(銅山峰より北)にも たくさんの間符があります。

今回は 
大黒間符(本鋪坑) 都間符  新都坑  太平坑  新太平坑   新長尾坑 寛永間符
寛永風廻し坑  第一通洞(北口) 第二通洞  第三通洞(東平) 
を探索してきました
発見できなかったのは 長尾間符 金栄間符 恵比須間符 天王間符(天王寺間符)
あと探索していないのは 児島第二通洞 大斜坑 第四通洞 
 間符資料は黒川氏提供
16:43 東平到着