旧別子       . 2012/09/02     .
   

     

久しぶりに旧別子に行って来ました。
最近ずーっと「第一次泉屋道」をやっていましたので
行く機会がありませんでした。
富士山も行って来ましたし・・・

第一次泉屋道の芋野に行きたかったのですが 夜半まで
雨が降っていたので 旧別子に来た
取材で訪れるのは2012/04/01以来となる
6:52 登山口到着 私が1番  道路が濡れている 夜半まで雨
  
7:40 小学校跡の木が伐採され 登山道が崩れかけたいた 石垣がきれいに積み直されていました。
  住友金属鉱山エンジ・・に問い合わせてみると石垣の木の伐採に関しては、 風による倒木で、石垣を崩す
リスクの方が、根が腐って石垣を崩すより大きいと思うので伐採しました とのこと 
  
ダイヤモンド水で移植観察中のキレンゲショウマが咲いていました。 7月の終わりから8月の開花ですので花が終わりかけでした
  
東延の産業遺産 レンガのコンプレッサーの台が崩れかけになっている 少しおせっかいを焼いてきました 
  

           東延の間符      

「100年新居浜・西条・東予」と言う本がある
出版社は郷土出版社 定価は何と11000円である
新居浜図書館にもあるので買わなくてもいいよ
その31ページに「東延の採鉱課」の写真がある
写真の大きさはB5ぐらいだから 大きくて
鮮明に写っている。
明治30年代の東延を写した写真です。

なにが写っているか
中央左に 東延の大煙突が建っている。
今回はこれは 置いておいて 右の方に写っている
間符に注目したい。
右端の洋館の上のほうに見ええるのですが
写真を大きくしてみましょう。

赤丸のところに坑口が見えるでしょう。
洋館のところから上部に45度ぐらいの角度で
白い線が出ていますが これは送水用の水路です
この水路を調査したときに気になってのが間符です
この間符 明治14年の東延の写真にも写っています。
旧別子の写真は明治14年より古いのは見たことがありません。
    前置きが長くなりましたが この間符を見つけに行ってきました。
       見つけました
    あっけなく見つけたように書きましたが すっごーく苦労したんですよ
    木が茂っていて前が見えないぐらいのところもあります。
    明け方まで雨が降っていて 木を触れば葉から雨が落ちる。
    場所は写真の通りなのですが 雰囲気がまったく違う
坑口は石でつぶられていました。
坑口の前は崖ですので 坑口を撮影すのにも一苦労
坑口だけを残し坑口から奥へ5mぐらいは潰れて落ちたか
それとも 崖くずれか 左がえぐれている
  
下部に穴が開いており内部が覗ける
坑木のようなものが見えました。
山村文化30号47ページに 伊藤玉男氏の下記の記述がある
風廻わし間符と思われる。明治13年調整の東延坑坑内図によると、大体この位置に「風道」という坑口が画かれているから、
通気坑として掘られたのであろう。しかし、鉱床の位置的関係から推して?押し坑道であったと思われる。
ずっと古く、多分元禄の末期に東山新口という鉱さかじ問符(探鉱坑道)はこれに当るのかも知れない。

           山神宮     

エントツ山さんのホームページの中の
法皇山脈・赤石山系−
47.別子銅山遺構歩きシリーズ  下部鉄管道を歩く 
この中に
「東延」の小沢を挟んだ薄暗い対岸に下り付く。この辺りに東延・歓治間符があった筈なので探しながら上流部へと
進むと14時37分ソーメン滝があった。元来た場所に引き返しながら左手を注意深く見ながら歩いていると「山神宮」
が祀られており、それから直ぐに「東延・歓治間符」があった。とある 

まだ 「山神宮」へは 行った事がない。「行ってみるべ」

  
山神宮は東延斜坑の脇を通り抜けて 歓治間符・東延東走り坑
からそーめんの滝に行く途中にある。道らしき道はない。
そーめんの滝の手前に看板があるから わかると思う。
広場があって 崖の一角に盃やトックリが見える。
広場から3mほど高いところなので 見えにくいので捜そう。
地図に出ていません。そのことを山川静雄氏に尋ねると
絵図にあると言う 「別子立川両御銅山図」にあった。
住友別子鉱山史(別巻)の2ページにある 左の絵図は
拡大していますが(字は下から上に読む)「山神宮」と書いている
近くに「天満間符」「自在間符」がある そーめんの滝の
文字は見えない 
  
1分ぐらいでそーめんの滝に着く
11:27 少し早いが昼のお弁当にする

コンビニの弁当であったが
この滝の下で食べると 格別うまい
...........
竜王神社を捜して東延をさまようが
発見できず


接待館のレンガの上に伸びた
草木が除かれていた。また
後ろの檜の枝も払われていた。
山川静雄氏の仕事のようだ。