高橋 住友病院旧別子探索       . 2012/11/18     .
   

     

春秋氏と同行するのは今年3回目になります。(3/25 上部鉄道 4/29 寛永谷)
珍しく探索項目が一致して 一緒に行くことになった。
先日 「別子銅山絵葉書パネル展」があった。そこに目を引く
1枚のパネルがあった。「別子鉱山住友私立病院」とあり
何処にあったか 場所が記されていない。
よく似た建物は東平の病院だが 周囲の風景がどうも違うようです。
高橋にも病院があったが その写真を見たことがない。
この写真の場所を探しに行くことになった。
病院以外にも私の探索事項につきあってもらった

  パネル展にあった 絵はがき  「愛媛の鉱物・鉱山のページ」より
     
    
GPSによる 歩いたコース

登山口 9:08 - 醸造所 - 高橋 - ダイヤモンド水 - 

 東延 - 東延新口間符 - 竜王神社燈篭 - 第一通洞(昼食)

 高橋病院跡  - 登山口 15:28
  

          高橋 住友病院跡          

私の頭の中では 高橋の住友病院は明治32年の災害の時 一時的に高橋にあったと思っていた。
上の写真は高橋にある案内板です。
ですから こんな立派な建物ではなく 茅葺きの質素な建造物ぐらいに思っている 
目出度町の住友病院がイメージとして残っていたのかもわからない。
住友病院跡の看板はダイヤモンド水の手前にある。
とりあえず ここを探査する。
絵はがきのように すぐ裏に山の斜面が迫っているようには見えない
木々が邪魔をして視線を遮る。
高橋に行ってみることにする。ダイヤモンド水上流の
橋を渡ってから 川沿いに下る。
  
登山道から確認しておき 対岸の現地に行く
ここに橋があったのだが 今はない
ダイヤモンド水の上流の橋を渡り 対岸に出る

対岸の高橋は藪であったが 最近は 登山道
ほどではないが 歩けるぐらいには手入れされてきた
登山道からみた病院跡 赤い線に橋が架かっていた 地形からみるとこの辺りのようだが
対岸の高橋から 玄関付近に門柱のような柱がある? 雪庫(氷庫)?東平にはあったようですが
何の為の穴か わからない
基礎になる部分は煉瓦でした 基礎かなぁ? 30m以上ある煉瓦の基礎
「住友病院百年のあゆみ」から
歴史

明治32年8月28日 山津波
 病院は風呂屋谷の東方にあり室の一部破損したぐらいで
 大きな被害はなかった
明治32年(1899)
 私立住友病院を新居群金子村614番戸に移し
 同日付で住友病院別子出張所となる

明治33年(1900)
 住友病院別子出張所を
 元鉱業所別子出張所跡に新築移転する

大正元年(1912)8月25日
 収釧所跡に別子出張所院舎新築落成移転

大正3年小足谷の火事で焼失した。
(旧別子銅山案内_033ページ)より

大正5年
 住友病院別子出張所 廃止

東平分院
 明治38年 東平出張所解説
 明治42年 新築竣工
 昭和43年 廃止
 春秋氏が実測をもとに作図してくれました。

天井部分は木で出来ているため入り口付近は
腐って崩落が始まっています。
この排水溝は奥まで歩けたようです(山川氏談)

石垣に2箇所 木が入っている 明治の写真にも
写っているが腐敗もしている。 松の木は水に
漬かっていると腐敗しないと言うが 旧別子では
石垣の間に木が入っているのをよく見かける。
石垣の部分に開いていた排水口
  
当時の写真の右 奥の方に石垣が写っている
登ってみると あるにはあったが
少し様子が違うようだ。

          醸造所の釜    

春秋氏は なぜか醸造所周辺が好きでなようです。
必ず立ち寄る場所です。私は見慣れているので
近くを探索。広い石段を降りてみる。

そこにあったのが鉄の釜?
最初は五右衛門風呂かと思ったが 棒きれを入れてみると
風呂にしては浅い 50cmであった。直径は80cmあった。
五右衛門風呂の大きさを調べて見ると 直径86深さ74ぐらいが平均だ
私が座って肩までがほぼ70cm風呂の底板を入れると74cmが調度良い。
50cmの風呂だと脇の下ぐらいの深さしかない。
これは大きな釜だろう。
煙突だったのだろうか 筒状の物が周囲にある
小足谷酒造場の醸造中止は明治44年ですので丁度100年
当時の物とは思えないが・・・・・。

大正五年(1916)別子採鉱本部の東平への撤退に伴い、
醸造所は操業停止を余儀なくされ、遂には廃嘘となった。
当時の醤油倉の屋根は石が葺かれていた。
その屋根の石は青色で三尺も四尺もの大き
なもので、それをシックイ止めにしており、見事な
ものであった。酒倉は茅葺き屋根であった 現在そ
れらの跡を偲ぶものとしては、酒倉の赤煉瓦造りの
麹室と同じ煉瓦造りの煙突が残っている 醤油倉の
方は、醤油醸造用に造った大端釜が二つ窯にかかっ
たまま残っている。その釜の大きな方は直径六尺も
あり、小さい釜の方でも径四尺くらいはあった。銅
山の醤油使用量が大きかったごとを物語るものである。
 住友家と別子銅山雑録4 高橋重美 
    (西条史談034_20ページ) 1995年刊 より
     

         東山新口(仮称)  

以前行った時は思うような写真が撮影できなかったので再度 訪問した。
 驚いた!! ピンクのテープが何箇所もぶら下がっている。親切心で付けたのだろうと思うが
 余計なお世話だ。探索する魅力がなくなる。苦労がないから発見したときの感動がない。
  景観が台無しである。
私のブログかホームページを参考に行った人が付けたのではない事を望む。
  

         竜王神社の石灯籠  




明治四十四年と書いてあるのだろうか?

     .
  



2012年11月18日、15:28 登山口着