第一次泉屋道
 土居・天満浦
        . 2013/01/13     .
   

          11号線まで        

今日は山が綺麗に見えた。
一番低い所が峨蔵越です。
標高は1266m
第一次泉屋道が通っていた
小箱越は山の陰で見えません
標高は峨蔵越と同じぐらいなので
同じように雪が積もっている事でしょう

雪が有っても無くっても 
雨が降っても 銅を運び出して
生活物資を別子銅山に運び込まないと
別子銅山は成り立たなかった。
   
土居の図書館で 2002年の住宅地図を見せてもらった
細い道 あぜ道ぐらいの道を見つけたので 行ってみた

たぶん第一次泉屋道と思うのですが
県道133号にでたしばらくはこの道を北進 途中から斜めに道があったはずだ @の地点 道のような跡が残っているが
このあぜ道を抜けると国道11号線になり
国道を横切るとすぐまたあぜ道より少し
広めの道があり 今度はJRを横切る
10mぐらい道がないが デイサービス「スマイル」
の横を通る道があり 泉屋道 復活
細いあぜ道が続くが国道を走るトラックが見える。
この道が地図に載っていなかったので困惑した。

         天王橋まで   



国道から細い道がつづいており
すぐにJR予讃線が走っている
自動車も通れない小さな
踏み切りです。
  
路地のような所を通りました 石垣の道 
舗装のしていない田舎道 いいね 古い墓地があります 明和と刻まれています この辺でおばあさんに話を聞きました
左の道が荷車の道で細い道だったらしい 関川に出ました 天王橋が見えます 天王橋から見た関川 昔はもっと水量が多かった?
近所の おばあさんから聞いた話
 娘の頃 この辺の関川には橋がなかった。ずーっと下流に廻るか飛び石の関川を渡るかだった。
 川沿いのまっすぐな道は荷車の道で今より細い道だった。
第一次泉屋道が通っていた頃 この辺りに橋が架かっていたと思われる 大きな橋ではなく 水の流れているところだけの小さな橋っだたかも分かりません

         天満浦まで1 

坪井氏から頂いた地図を片手に 歩いています。常夜燈など古い建造物があり ゆっくり歩くと良いですね
  



関川の堤防から下る道がついている





  

@の地点
大きな木は枯れていた 下にはお墓?がある

Aの地点
郷社八雲神社の鳥居の前を通る
B 常夜燈はごみ置場に占領され小さくたたずむ。
   
Cの地点 集会所西にある常夜燈
   

Cの地点付近
 恵比寿神社 

 昔の街道の風情?かな
Dの地点 明治4年建立の常夜燈
   

         天満浦まで 


Eの地点



Fの地点 古い民家があった 人は住んでいない
天満の浦には寺尾九兵衛という大ボスがいました。元禄
三年秋、先程申しました田向調査団が海路川之江の港に上
陸し、翌日は代官所へ挨拶に行ったあと、陸路を天満の浦
までやって来て、寺尾九兵衛方に一泊しております。目的
は今回の調査如何では代官後藤覚右衛門の思惑通りこの港
が大坂と別子を結ぶ唯一の中継地になる訳で、その港や付
近の状況、民情の視察が必要不可欠だが、その外に何かが
あった、と私は考えております。寺尾九兵衛は宇摩郡内の
天領の村々を束ねる大庄屋で、多分寛文十年(一六七〇)、
西条松平藩成立の時点ではまだ天満村の庄屋に過ぎなかっ
たが、その後急速に頭角を現わしていって、元禄時代とも
なると宇摩郡内で隠然たる勢力を誇っていたものと考えら
れます。
寺尾九兵衛が並の大庄屋ではなかった証に、宝永三年
(一七〇六)に讃岐の金毘羅さんに唐金製の立派な灯篭を
寄進しております。一つは元禄十年に泉屋が別子銅山の繁
栄を願って寄進したものと比べると少し小ぶりですが、そ
れでも台座の直径は一mもあり、高さも二m六〇もある。
製作請負人は大坂の舛屋甚兵衛で、実際に鋳型に入れて細
工したのは松井太兵衛という男で、その銅は案外別子銅山
のものだったのかも知れません。またもう一つは、金毘羅
さんの本殿の裏庭に、泉屋と寺尾九兵衛の唐金灯篭が二つ
並んで建っている。偶然にしてはあまりにも出来過ぎてい
るとは思いませんか。しかしそれはともかく、そこに刻ま
れている寄進者の名前に寺尾九兵衛尉宗清とある。その内
の尉というのは佐に次ぐ官位であって、戦前ならぱ高等官
でございました。
庄屋は村役人で、ある者は名字帯刀を許されていました
が、官位までもらっていたとは考え難い。が、ともかく灯
籠にはそう書いてあります。
当時、川之江の代官所に詰める役人は大半が地下の役人
で、下代あるいは元締と称する者の他、何人かは代官の家
来で江戸から下向して地下の役人共を取り仕切っていたと
思われます。当時、代官後藤覚右衛門は京都におりました
ので、備中川上郡と伊予宇摩郡にはそれぞれ代理人即ち下
代を派遣して行政に当たっていた訳であります。従って、
地下の役人は、いわゆる世襲の月給取りでございまして、
しかも薄給でございますから実質は村内の取り仕切りは村
役人が行い、その頂点に立つ大庄屋ともなりますと、広い
屋敷を構えて大層豪勢な暮らしをし、権勢を誇っていたの
であります。
殊に寺尾家の場合は天満の浜も支配しておりましたよう
で、他の庄屋とは異なった立場にあったものと思われます。
当時、宇摩郡の海岸線は小さな舟溜りは幾つかあったと
思われますが、港といえるものは川之江と天満しかなかっ
たのではないでしょうか。ですから、字摩郡内は勿論のこ
と、法皇山脈を越えた銅山川筋の村々、あるいは更に土佐
との国境にあたる脊稜を越えて、今日土佐嶺北と呼ばれて
集められた海産物は背後の村々に送られ、代りに山村から
は茶、楮、小豆、大豆などの山の物は天満の港に集積され
消費地まで回送されておりました。このように天満という
処は、物資の流通上大変重要な位置にあり、今でも山村の
あちこちで天満道という呼称が残っておりますが、それは
当時の交通動脈の名残でございます。
このように見て参りますと、別子銅山の荒銅も、取りあ
えずは天満の港で船積して大坂へ回送し、生活物資や建設
資材も天満の港を基地にしてという着想が生まれるのは、
むしろ当然かと思う訳であります。更に飛躍して想像を逞
しく致しますと、寺尾九兵衛という男は、別子銅山の基地
を天満に置くことで近辺の村々の今日でいうところの活性
化を日論んでいたと言えないこともないのであります。 

  (山村文化5号_5ページ) 銅の道  伊藤玉男
新居浜市生きがい創造学園・講演よりー
Gの地点 文久3年建立の常夜燈
 文化7年建立の繰抜き方常夜燈 
Hの地点