銅の道 口屋から立川まで       . 2013/06/23     .
   7月末に槍ヶ岳に登りたいので荷物を背負ってのウォーキングのトレーニングどこかに行きたい
   立川まで行ってみようか

   6月23日 雨が降りそうな日曜日 4リットルのペットボトルをウェイト代わりに約8kgのザックを背負って家を出た。
   時刻は8時前 向かう先は新居浜口屋

   ホームページ用の撮影のため写真は全て旧別子から口屋に向かって撮影つまり 仲持ちさんが口屋まで
   銅を背負って歩いてきたというコンセプトです。

   実際は口屋から立川に向かって歩いたのですが (口屋)発 8:52  立川着 11:35 
   写真の向きの都合上 立川から口屋ぬ向かっての案内にさせていただきます

龍川橋です。地名では「立川」と書きます


現在の龍川橋の袂に石灯籠がある
文字が刻まれているのですが私には難解である
今まで幾度となく訪れたのですが対岸の場所にあるので
灯篭の存在すら気がつきませんでした。

ここに立川中宿があり別子銅山から運ばれてきた銅は
ここからは 牛車で新居浜口屋まで運ばれた。
また別子銅山に運ぶ食料・材料もここから仲持ちさんにより
運ばれた。
立川は中継基地であった
   
龍川橋から下りますが 道は右岸と左岸にあります。
銅の道は左岸です。こちらは市道です
エントツ山のエントツが見えてきました
明治21年に、作られたレンガ造りの煙突です
山根発電所 所有は住友共同電力で昭和41(1966)
年4月に運用開始した水力発電所です
  

「太鼓台の登る参道」と言う石柱のある神社がある
新居浜太鼓祭りの初日早朝、重さ約2.5tの太鼓台
99段の石段を上り拝殿することで知られてい
る「内宮神社」です。

内宮神社の前に国領川を渡る朱塗りの橋が架かって
いる。「生子橋」である。
昭和57年(1982に建設着手し、橋長32m、全幅3.3m、
アーチ高4.3mの規模で昭和58年(1983)に完成した。
「生子橋」を渡ると「精錬夫像」がある
対岸に「大山積神社」が見えてきます 昭和3年 山根大通りに来ました。 この水路は生子橋付近から取水しています
   
「明治15年9月?」と書いてある灯篭 ちょっとレトロな町並みも残っています ここで少し曲がり喜光地商店街となります
  
喜光地商店街 この商店街はT字型商店街で銅の道と金比羅街道が交差する所がそのまま商店街になった。 喜光地伏見稲荷 なんと個人所有のようです
  
アーケードを抜けるとすぐに 国号11号線がある 道は真っ直ぐ口屋を目指す JRで道が遮断されています
   
線路を越えるとその道が続いています 高木の交差点 銅の道は陸橋の所から西に折れる 南北に通っている黒道と交差します
   
ここで道は北にほぼ直角ぐらいにに折れる 金栄大橋付近 光温泉 明治10年 広瀬邸が上原に移転するまで
ここにあった
   
一宮神社 創建の年代は不詳 登道の看板が見えた  一宮町神社本殿横 登り道サンロード  アーケード街です
   
百縁笑点街&さんさん産直市が開催されました 突き当りが本町通り 昭和通りが出来るまで新居浜の中心地でした
   
口屋公民館 右記の写真に写っている松の木 口屋の写真 明治14年
   
この口屋は、遠く元禄15年(1702)、旧別子への新道設置以降、その起点となり、浜宿または口屋と呼ばれた。元締以下多数の
係員がいて、船から荷揚げした糧米その他、銅山に必要な物資を倉庫に納め、ここから山に送り、また、銅山から搬出された粗銅は、
この港から大阪に送られていた。明治22年まで新居浜分店があり、180年の長い間、別子銅山経営の重要な拠点であったが、同年
その事務所をはじめことごとくが惣開に移転した。その後は、小学校、町役場、さらに市立図書館などに利用されていたが、それらもす
べて新築移転し、あとには新たに口屋跡公民館が新築されている。残りし松や碑が昔を物語り、往時をしのぶことができる。
明治大正昭和新居浜036ページより
   
立川から口屋までを歩きました。
この道は 旧別子から銅が運び出された道の一部です。
仲持ちさんが運んだと思われがちですが牛馬によって運ばれたようです。
下部鉄道が1893年(明治26年)に出来ていますので
元禄15年から189年間使われた事になります。
その間 今検証した道とは別の道を通っていた可能性も大いに あります。