| 小足谷収銅所・日浦周辺 | . | 2013/09/21 | . | ||
| 久しぶりに旧別子探索に出かけた。 お天気は昼からあまり良くないので早めに切り上げる予定。 先着の3台の車の人は出発したようだ |
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犬を連れた人と出会う。 3日ほど前に 生後1年ぐらいの子犬を 2匹連れてきた。 猟犬の訓練に来たのだが いまだ帰ってこないので探しに来た。 3日連続で来ているようだ。 どうも 登山客に着いて行って迷ったようだ。 |
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| 登山口を8時41分出発。 | ||||||
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旧別子は住友の聖地と言われ 新入社員研修など 研修登山によく出会う。 私は会わなかったのですが 日本板硝子も登っていたようだ |
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| 小足谷橋で 住友商事の研修登山のようです。 | 住友鉱山の社員研修に出会う 新入社員ではなさそうでした |
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小足谷収銅所 ![]()
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| 場所 GPSの軌跡 | 川下の部分がもう崩れかけている | 収銅所内部 | |||||
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木の根元にモーターのようなものが転がっている。 これと同じ写真が「銅の里」31ページに載っている 発行は別子山村 発行年は 昭和62年12月 25年余りで木が生長しモーターを飲み込んでいる。 |
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山村文化19号37ページに小足谷収銅所平面図 がある 高橋幹氏が小足谷収銅所について 書いている。 「しかし今、小足谷の収銅所跡を訪ねると、 これが僅か十年足らずしか稼動しなかった遺跡かと 疑問に感じる程、巨大な規模を誇っている。 小足谷収銅所は旧別子接待館の対岸にある。 南北三百米の細長い遺跡であるが、 大きく三つの部分に分かれている。 すなわち北の収銅所と南の沈澱池、・・・」 |
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| この収銅所の遺構に魅せられている。何とか図面が出来た。 素人が測ったので正確ではない。がおおよその大きさがわかる。 全長100m余りになります。 この収銅所は何時まで使われていたのだろう。 高橋氏の記述で「山川静雄氏の記憶によれば、昭和二十年代後半に、小足谷収銅所の一部で細々とだが、作業が行われていたらしい」とある 昭和39年 私が撮影した小足谷収銅所稼動しているようには思えないが・・・。そのままの姿で残ったいる |
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小足谷収銅所 ![]()
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| 接待館から折りるのが一番行きやすい。 案内板があり 真直ぐは銅山峰に行く登山道 |
しばらく行っていなかった。 銅山峰に行く登山道が崩れかけていたため 補修をした。そのため 小足谷疎水坑に行く道は 被害をうけ道が通れにくくなっている。 それ以外は随分と歩きやすくなっている。 バラのとげがある木や草が沢山あったが 下刈りがされ 悩まされる事もない |
小足谷疎水坑は崖の下で 少しだけ口をあけている。 しかし 今にも崩れそうです。 中は坑木が見えるが 坑口は石で閉鎖されています。 閉鎖後 坑口に土砂が流れてきて 坑口を塞いだようです |
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新居浜の工業用水 ![]()
鹿森ダムの水は何処から流れてきてダムに溜まっているのだろうか?
普通のダムは 降った雨が流れてきてダムに溜まります。
鹿森ダムは独特で 山の向こうに降った雨もダムに溜まっています。
水は高いところから低いところにしか流れないと思っておるでしょう。
別子ダムと鹿森ダムに関しては 低いところから高いところにも流れています。
面白〜い話になりそうですが、実は 難しい話なのです。
新居浜史談210号の9ページに
新居浜工業用水道の源 日浦(別子山村)揚水と言う記事を
高橋達雄氏が寄稿しています。
12ページに新居浜市工業用水道の略図があります。
新居浜から山を越えた向こうの別子山から水をもらっているのです。
別子ダムから銅山峰の下にトンネルを掘って水を通しています。
わかりやすい地図が新居浜市役所のホームページにあります。
こちら
PDFファイルで開きます 少し時間がかかります。
別子ダムに溜まった水は23の番号から1 2の番号に流れています。
今回の話は、11の暗谷川から水を取る所から始まります。
「暗谷川」は「暗り谷」とも言われ「くらがりだに」と読みます。
9月21日 行ってきました。
GPSの赤い線は誤作動をして日浦橋から新山谷川までは川の
北側を通ってますが 実際は南側を通りました。
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| 日浦通洞から暗谷までのGPS | 新居浜市工業用水道の略図 | |||||
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| 水量のある谷でした。しかし全く取水していませんでした。 水路には水が流れていません。壊れた様子はありません。 メンテナンスも出来てるようです。 ここから取水しなくても他の所の取水で間に合っているようです。 |
暗り谷(くらがりだに)からの水は大きなコンクリート 管によって日浦へと運ばれます。 |
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| 暗り谷から250mの所に大野谷から来た 送水管と合流します。 大野谷からの菅の中は大量の水が流れています。 大野谷でほぼ同じ高さで取水された水は 銅山川をわたり此処まで持ち上げられます |
ここからはコンクリート管ではなく水路になります ほぼ水平 水が流れる程度の勾配です。 銅山川の川下から川上に流れている事になります。 |
新山谷の取水口です 施設はあるのですが大野谷の水があるので取水は されていません |
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大野谷の水が取水されなかった場合 暗り谷と新山谷の水が利用されると思います。 |
余水吐の施設です。 水は多すぎても困るので多い分は ここで谷に流されます。 大野谷の水です。大量に流れています。 ですから暗が谷の水は要らなかったのですね。 |
水路は所々鉄管になっている所があります。 地盤の悪いところは石垣を積み上げるより 鉄管で真直ぐ通したほうが効率が良いのでしょう。 鉄管の上は歩けるようになっています。 |
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| 日浦橋の袂です。暗り谷から1350mの地点です。新山谷からここまで水路よりほとんどが コンクリート管です。一部鉄管もあります |
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| 日浦揚水場です。昭和53年に完成しました。 まずここで葉っぱとかの水以外の不要物を取り除きます。 |
日浦揚水場でポンプから押し出された水は川上へと 向かいます。 右手に日浦通洞の橋が見えます。カゴ電車が通って いた橋です。 金網で通れないようになっています。 |
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| 看板の右の橋の向こうに日浦通洞がある 日浦通洞は明治44年(1911)2月8日に 貫通しました。延長約2,120bで、端出場水力 発電所の導水路も設置してあります 第三通洞と連絡してあり総延長は3838mになり ます。この中を別子から新居浜に向かって水が 流れていた。各谷から集められてきた水が日浦橋 を渡りトンネルの中に吸い込まれて行ったのです。 この水は新しく出来た端出場水力発電所に導かれ 発電に利用されたあと 国領川に流されました。 |
現在は別子銅山が閉山され日浦通洞も閉鎖され ました。このため 日浦からの水の行き場がなくなり ました。別子ダムは日浦から84m 高いところにあり ます。日浦揚水場でその後3台のポンプにより84m 高い別子ダムに持ち上げています。 水量は8600tから22400tとなっています。 新居浜市の市民プールの50mプールは1100t余り 別子ダムからは新居浜に向けトンネルが掘られて います。 ポンプアップされて水が登っていきます。 |
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| 新居浜史談210号9ページより抜粋 新居浜工業用水道の源 日浦(別子山村)揚水 高橋達雄著 明治44年に日浦通洞が竣工し第三通洞と連絡しました時前に述べました銅山川の支流の谷から取った水をこ の通洞を通し東平へ導きました。そして翌年完成しました端出場水力発電所の発電源として使われた後・ 国領川へ放流されておりました。 そのほかに鉱山用水として日量8600トンの水利権がありました。 ところが昭和44年に端出場発電所が老朽のため廃止されましたが、その日浦の水利権は新居浜市 が工業用水としての使用許可を昭和45年に取りました。 ところが今度は280年余続いた別子銅山が昭和48年閉山となり、日浦通洞が閉鎖され・導水 路も廃止されましたので、水はどんどん銅山川を下流へと流れて行くようになりました。 そこで現工業用水供給量と山根地点下流水利権者の用水を維持するため、国に願い出て、端出場発電 所で使っていた水利権を認めて貰い、通洞を通る自然流下は不可能となったので、一度別子ダムに揚げ て、それから落とすという方法で、途中二回発電をした後に工業用水に使うという、たいへん効率的な 使い方をすることになりました。 また、住友共電も増強分の収入が増えますので、市と費用の共同負担ということになりました。 このように日浦に端を発した水が別子ダム・鹿森ダムのニダムを経ながら、二回の発電をし、そして 山根地点で工業用水と農業用水に取られ、地下に入った水は工業用水や農業用水にも利用されますが、 私たちのもっとも必要とする生活用水として使われております。 |
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日浦のトロッコ道 ![]()
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| 国土地理院発行の5万分の1の地図で 昭和7年の地図に日浦から七番まで線路が 続いている。 |
日和佐初太郎氏の写真集「別子あのころ山浜海」の17ページの 写真に日浦のトロッコの写真がある。馬に惹かれている写真です。 七番辺りで切り出された木や炭は こうして坑内に運び込まれたのでしょう |
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この道を探索に行ってきました。 現在の国土地理院発行の5万分の1の地図で確認すると 林道になっているようで 別子ダムで途切れています。 実際に歩いたGPSの地図 |
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| 歩き初めは日浦橋です。日浦橋を渡ると右に日浦揚水場があり左に水路と林道が見えます。どちらも 立入禁止になっています「ごめんなさい」入ります。 |
入口に鎖がして鍵がかかっていますので ほとんど車は通らないのでしょうね。 道は整備されています。 |
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| 林道の折り返し地点です。東に延びていた林道が ここから西に向かいます。 レールがあった道をそのまま林道にしたのでしょう 地図で見ると昭和7年の地図と同じ所でターン しています。 レール道にしては少し勾配があるように思います。 |
林道の分岐があります。 地図で確認すると大田尾越まで延びています。 高知県に行く林道です。 江戸時代からの炭の道があります。 まだ調べてはないのですが 別子銅山から高知に行く道がありました。 もしかしたら・・・・。 左は大田越に行く林道。 真直ぐに行く |
分岐からの道は 藪になっています。 車の通った轍が残っています。 |
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![]() トンネルがあります。 入口のコンクリートのアーチは もう落ちかけです。長い間 使ってないようです。 |
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| 日和佐初太郎氏の撮影した 馬とトロッコの写真は ここではないかと思います。 道幅が違います。むかしはトロッコ幅に近いぐらいの 道だったのですが 林道になったため道幅が広がっ たようです。どうも 山を削って道にしたようです。 |
大野谷から日浦揚水場を通過してきた水は このパイプを登ってきます。 写真は高低差が見づらいのですが登ってきている のです。 別子ダムの高さはもう少し上です。 |
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| 木の残骸がたくさん落ちています。 天井を木で作っていたようですが これが落ちていたようです。 向こうの出口付近は まだ天井にくっついています |
トンネルの谷側に測道があります。 この道はトロッコ道ではないでしょうか 林道にするとき 道幅を広げるより トンネルを掘った方が効率が良かった為と思われ ます。 狭いですね。でも馬1頭は通行出来そうです。 |
別子ダムが見えた所で 有刺鉄線があり 通行止めになっています。 残念ですが引き返します。 ダムまでの高さ まだかなりありますね |
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7番ダムは昭和4年に完成しました。 その時はこの道が作業道だったのでしょうか 昭和41年に7番ダム下流に 別子ダムが完成。 七番ダムは別子ダムの湖底に沈みました。渇水の時 その姿を現すようですが 私は見たことがない。 別子ダムを作るときに作業道として出来たのが 旧別子登山口の前の道路です。 それまでは 日浦からのトロッコ道があるだけでした。 明治時代に七番に行くには 旧別子の劇場まで行き そこから延びる七番までの車道を行くようでした。 明治41年の地図には日浦から七番まで川沿いの道は見あたりません。 |
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