旧別子 木方吹所 ・目出度町 | . | 2013/10/12 2013/10/17 2013/10/18 2013/10/27 |
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木方吹所 寛政谷側
「明治中期の別子銅山」と言う地図がある。 伊藤玉男さんの本の中にある地図ですが この地図を参考に歩いています。 この中で全く手付かずのところがあります 「延喜の端」から足谷川までの「木方」と 呼ばれている所です。 家が密集していますが 登山道から下の方になるので ほったらかしにしていました。 2013/10/12探索 |
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吹所とは製錬所の舌い呼称である。開坑当初は下の床屋ともいった。下の方の谷間は両岸とも絶壁になっていて、その上にせり出す様に 荒吹炉と間吹炉が建ち並んでいた。ここに吹床(昔の熔鉱炉)が置かれていたのは開抗後まもない元禄年間のことである。以来明治30年頃 まで200年余り鉱山の心臓部として機能してきた。この辺りの地名はキカタと呼ぶが、木方とは薪を多量に使って鉱石を焼くことから、そう呼 ばれる様になった。これから上部一帯には何百という焼窯が重なるように並んでいて、立ち上がる排煙はしばしば日光を遮ったという。この 平坦地には千窯という明治になってから改良された効率の良い焼鉱炉があったらしい。(登山道にある看板より) |
パイプ橋を渡らず真直ぐ行って | 裏門から谷に下ります。道はありません。 | 谷に降りると対岸はカラミの崖になっています 木方吹所があった所です。すごい量ですね |
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谷を遡ると崩れかけの橋があります。 寛政谷の分岐点です。 |
木方吹所の跡です。明治の地図では石段に なっていますので段々畑のように上部に向 かって石段があります |
寛政谷に近いところに残ったいる煉瓦の遺構 | |||
木方には道路(東延と山方を結ぷ道)に接して、重任局、勘場、巡査駐在所等があり、道路上部の山肌には沢山の焼鉱炉があり、寛政谷に近く 吹所があり、寛政谷と代々坑をはさんで焼鉱炉が設けられていたが、今は荒廃して遺蹟は崩れはてて、写真によるほか昔をしのぶよすがもない。 別子撤退後、山は次々に植林され緑を復活して小鳥たちの天国となっていることも嬉しいことである (別子銅山 合田正良著 190ページより) 木方は三つの区域に分けられていて・今の登山道から上方が焼鉱場・下方の上手(上流側)が木方部落、下手が熔鉱炉となっていた木方部落の 住人は勿論焼鉱方で、戸数は百戸もあったという(実際には5・60戸位) (明治の別子 伊藤玉男著 93ページ) |
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崖の上に煉瓦の遺構があるが なんで あったかは分からない。 |
谷に降りると 坑口のような遺跡がある 水が流れ出ているが坑口ではないようです。 |
寛政谷です。右岸は下まで石垣になっている 木方吹所の跡です。 |
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寛政谷の左岸を見上げると 明治時代の 石垣がそのまま残っているのに感動する |
寛政谷を遡ると 登山道に砂防ダムのような 施設があるが その直下に出る。上に手摺が 付いています。 |
以上が木方吹所の赤く囲った部分の探索です | |||
木方吹所 道より下
ここから もう一度もぐりこみます。 | 地図にもあるように見上げるほどの 石垣が続きます。。 |
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登山道から谷間での間を ローラー作戦でつぶさに見て歩きます。 | |||||
住友史料館報より明治23年の木方 カラミのある所はこの辺りかと思います |
赤い枠の中を探索します。 | カラミです。こんなに摘み上がっています。 どのようにして出来たのでしょう。 下は絶壁です |
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この辺は 吹所だったので 工場の跡です 吹所とは製錬所の古い呼称である。 |
谷にカラミを捨てたのでしょう。 崖一面にカラミが見られます |
大きな精錬所だったのでしょうが 何の痕跡もありません。この先谷になります |
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← なぜ登山道の下にあるのでしょうか?。 常夜燈はよく人が通行する道筋にある物です。 常夜燈のある所が道路だった可能性が高い 右面 「壬文久二年 戌七月吉日」と書いてある 1862年7月です。151年前の物です。 左面は 「役頭上邑真十遍 世話人 同 前谷仁左右衛門」 と読める? |
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一輪車が転がっていました。 古くはないようでした |
登山道から下に見えている「常夜燈」です。 | ||||
一番下の段まで来ると対岸がよく見える | 岩に突き刺さったボルトがあった。 何年ぐらいでここまで錆びるのだろか? |
岩の上に石を積み上げただけの石崖 簡単にに積み上げているようですが 今まで崩れていないと言うことは 巧みの技なのだろうか。 |
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城壁のような石垣 上は目出度町のようです。 | すぐ上に目出度町の分岐が見える | 木方吹所 道より下 探索 | |||
木方吹所 道より上
登山道から見えるところに煉瓦の遺跡がある。 何に使われていたのか さっぱりわからない。 上部にも煉瓦の遺跡があり 一体で使われて いたような感じです。もうすぐ崩れ落ちそうです。 「煙道の跡だろうか」と伊東玉男氏 |
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この遺構は登山道からも見える | すぐ上にある煉瓦の遺構 | ||||
山の中で燈籠を見つけた。 下を覗くと登山道が見える。 崖の上に石積みの上に設置しているのですが 燈籠の下に電柱の切り跡があり 近くに電柱が転がっている 最近ここに引っ越して来たような痕跡です。 山村文化14号38ページの 写真のこの燈籠です 正面には「御仏燈」 裏面には「忽手代中」 側面には「文政七甲甲九月」 と書いてある |
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登山道の上部を探索する。 藪に入り 登ると見晴らしが良くなる。 延喜の端の下部辺りになります |
登山道の寛永谷付近から見上げると 赤茶けた山肌が見える所です。 |
大きな石は無い。うすっぺらい石だけです。 手で二つに割っても中まで同じ赤褐色です。 表面だけ赤いだけかと思っていました |
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小足谷劇場跡
小足谷劇場跡と小学校跡の平面図を作りました。 素人が測ったので参考までとしてください。 両者の間には谷があります。南は登山道になり 北面は山になっていて、「明治中期の別子銅山」 の地図では 建物がありません。 探索に出かけて 面白いものを見つけました。 西の石崖がある所を登ります。 東側に石垣が続いています。 小足谷劇場跡は東西に100mほどあり山際には 小さな谷が2つほどある。山に降った雨を 劇場跡と小学校跡の間の谷に流しています。 小学校跡は尾根になっているので雨は両サイド の谷に流れるようです。 |
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山肌に降った雨を石垣がくい止めます | 石垣に沿った溝で雨を導く | 最終的には劇場跡東の谷に流す。 | |||
両見谷
両見谷は、見花谷の隣りで、その昔、いつまでも喧嘩していてはいけない、了簡しようで はないかという意で、小谷もあり、家も立ち並んで来たので此の名が自然についたのであろう。 見花谷は喧嘩谷、両見谷は了簡谷とするのが正しい(別子銅山絵図)。 この辺りに集落が出来たのは開坑後間もない頃と推測される。 見花谷、両見谷部落の住人は吹所関係者であった。 葬祭に関しては両部落は合同で行なったというし、その証拠に五月の大祭 には両部落でつくった太鼓台が練り歩いたという。 両見谷部落はその遺構から推して、中央部には役付が居住していたのであろうか、 今に立派な石垣を残している。戸数は4・50戸、あるいはそれ以上あったものと思われる。 明治32年8月28日のこと、その日、午後から降り出した雨は、いよいよ豪雨となり、夜中頃には 山全体が山津波の状態を見せ、見花谷、両見谷両部落の家は一大音響と共に 谷間に崩壊して流失した。 |
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① 足谷川との合流地点。地表岩の 上に石垣をついて平地を作っている。 よく持ちこたえている。 |
② 川幅が狭い。先日雨が降ったのですが この程度の流れしかない |
③ 煉瓦の遺構。 ドアノブ、 「村上ひせん湯薬」のビンがあった。 |
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④ ここに橋が架かっていたようです。 川幅が7.6m木の橋だったと思われます。 |
⑤ 登山道にかかる橋 長さは5.4m 見花谷より短い 水は一枚岩の上を滑るように流れる |
⑥ 明治の地図にはこの辺に家はない 斜面は木の根など張っていないので やわらかい |
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⑦ 鉄塔が見える。尾根まで行ってみたが 遺構はなにもなかった。 |
⑧ 両見谷で一番高いところにあった石垣。 尾根にあり石垣の上に立つと両見谷と 見花谷の両方が見える |
⑨ もうこれ以上は何も無いと判断しました。 台風の時は濁流と化すのでしょう |
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見花谷
見花谷は明治32年8月の台風で甚大な被害を出した所です。 急斜面に木で張盤をつくり その上に建てられた住宅は 一瞬にして見花谷を下っていったとあります。 今は植林がされたと言えども まだ砂礫の残るところも見える。 当時の爪あとが垣間見えるところである |
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① 見花谷が足谷川に合流地点 両岸とも石垣だった為 川には降りられない。 |
② ここに橋が架かっていたものと思われる。 対岸までの幅は7m。両見谷までの川と川の 間は20.4mと非常に狭い |
③ 護岸が石垣で出来ており谷は狭い 水路のようになっている。 先日雨でしたが水量は少ない。 |
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④ 見花谷の登山道の橋。 橋の長さは7.3m 丸太を渡して作ってある。 |
⑤ 石垣の上は登山道になっている 見花谷には最盛期には30戸程もあったという。 |
⑥ わずかに石垣が残っている。 見花谷で一番高いところの石垣です。 |
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⑦ このあたりに神野医師の自宅が あったようです。跡形もない。 |
⑧ もう水が流れていない。 | ⑨ もう水路ほどの谷になってしまった | |||
⑩ 尾根に出てみた。水平ぐらいに 送電線があり 近くに鉄塔が見える |
⑪ 大山積神社のすぐ裏手にある鉄塔に出た。 | ||||
目出度町
「明治の別子」_伊藤玉男著 明治中期の別子銅山 地図より 目出度町を抜粋 | |||||
① 住友病院跡 | ②高原医師宅 | ③清水 | |||
④村上八郎氏宅 | ⑤荒井平次郎氏宅 | ⑥公衆浴場 | |||
⑦今井肉屋 | ⑧料理屋 養老亭 | ⑨伊予屋 | |||
⑩星加伊太郎氏宅 | ⑪鷲見六郎宅 | ||||
⑫永久橋 | ⑬一心楼 | ⑭雑貨・料理屋 あんけら屋 | |||
⑮まんじゅう製菓 奥定商店 | ⑯別子山村郵便局 | ⑰うどん屋荒久 | |||
⑱別子山村役場 | ⑲大山積神社 | ⑳住友新座敷 | |||
風呂屋谷 2013年10月27日、10:38 撮影 この撮影の直後 谷で転んで 左手首骨折 左手肘脱臼の怪我を負い そのまま入院となる。 |
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