東平 ペルトン水車 | . | 2014/03/22 | . | ||
明治28年辷坂部落の一番下にベルトン水車が設置されました。
辷坂部落と言うのは 東平でも一番下流に位置しこれから下には 民家や施設はありませんでした。 すぐ下流は「セリ割り」と呼ばれる所で 谷が断崖になって とても家の立つようなところではありません。 水車と言えば 米をついたり 小川で回ったりする
のんびりしたイメージを持っていると思いますが 「ペルトン水車は、水流の衝撃を利用した衝動水車、タービンの一種である」 とあります。 水を上から落としその力を利用してタービンを回します。 落差が大きいほどよく回りますので端出場発電所などは 598mもあります。 東平のペルトン水車は100mほどです。 タービンを回して発電をしたりしますが
東平のペルトン水車は圧縮空気を作っていました。 圧縮空気を利用して削岩機を使いトンネルを掘ります。 東平にある第三通同を掘る為にペルトン水車を設置しました。 それまでは手で掘っていたのです。 第三通銅は1795mもあり 坑道幅3・35m 高さ3・73m 削岩機は 人力の六倍と言われています。 当時 電気はありませんでした。
別子銅山に一番早く電気が導入されたのは 明治34年 別子採鉱課で石油発動機によって電灯が灯されました。 ペルトン水車は電気が点くより6年も前の話です。
そのペルトン水車を調べると言うので行った。
同行者は春秋氏 非常に興味を寄せています。 もう一人 住友共電のOBのY氏 Y氏は 別子ダムの建設に携わり 別子ダムの管理者。端出場発電所・東平第三変電所
など住友の電力通で 新居浜市役所が発行した端出場発電所の本の協力者にも名を 連ねる人です。 Y氏が調査に行くと言うので私と春秋氏が同行させてもらったのだ。 |
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水車を回すには「水」が必要にです。 ペルトン水車の水は 何処から取っていたのでしょう? 地図で確認しましょう。 寛永谷と柳谷が合流している所が第三通洞です 赤い曲線が標高750mの等高線です そして 標高650m付近にペルトン水車があります。 これで落差100mが確保できます。 等高線750mのラインに今でも水路の跡の石垣が残っています。 赤い線の先端に四国電力の鉄塔があります。 薄い茶色の地帯は崖になっているところです。 とても水路を通すのは無理なようなところです。 等高線750mはうまいこと崖を避けて通っています。 取水口は何処でしょう? Y氏の話ですと 柳谷の水だけでは水量が足りないので 寛永谷の水も取水したようだ 寛永谷の取水口を捜す と言うより Y氏が場所を確定しているので確認に行った。 |
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寛永谷を5分余り登った所に堰がある。 その堰の川底に取水口があったとY氏 もう40年も前のことなので取水口は確認出来なかった。 川底を掘れば現れてくるだろう。 |
さあ ここから どう水を運んだのか? Y氏も分からないことなので 推察をする。 谷の右岸に水路がある。これは近年の物なのですが たぶん ここを通ったのでしょう |
水は木樋で運ばれた。いま道沿いには コンクリート管が埋められています。 端出場水力発電所の送水管と思われます。 |
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第三通洞の横を通って登山道がある。 ほんの10mほど行ったところにコンクリートの 箱のような物が山際に付いている。 これは端出場発電所に寛永谷から送水した名残だ 下のほうは管の内部が見えるほど破損している。 写真は別の日に撮影したものです |
登山道のすぐ左に流れているのは柳谷です。 寛永谷より柳谷のほうが水量が多い。 夏でも枯れた事はないが水量は少なくなる この日は向こう岸に渡れないほど水量が多かった。 この堰は端出場発電所の物でこの堰の下に 水のトンネルが通っている。 左に見える構造物は端出場発電所の柳谷の取水口だ。 |
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木樋は第三通洞の上を通過したと思われます。 木樋が出来たのは第三通洞が出来る前なので 「ここだ」とは言い切れません。 |
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ペルトン水車の柳谷の取水口は何処にあったの だろうか? 明治28年にペルトン水車が完成しているので 工事はそれ以前のことになります。 「柳谷の堰の下流はすごい絶壁になっているので ここは避けて木樋を作ったのではないだろうか」 とY氏そうすると絶壁より上になる。 堰の上に一筋の道らしき跡があるように見える。 レンガの構造物も見え その上流には石垣もある。 たぶん木樋があった場所ではないかと想像する。 赤い矢印の所 |
となると柳谷の取水口は堰の二つ上の滝の辺りになる。 確認したいが水量が多いため対岸に渡れない。 今後の課題だ。 寛永谷からやってきた水はどこかで柳谷の水と合流するはず 木樋橋を作って柳谷を渡ったと思うが柳谷の木樋が通った ところが分からないのでこれも課題になった。 Y氏と春秋氏が指を指して見ています。 木樋の通った場所は何処かを確認しています。 |
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何処を通ったかは証拠の写真があります。 年代の確認は出来ていませんが 木樋が写っています。 (赤いラインを入れてみました) 第三通洞が完成し 通洞からレールが2本出ています。 電柱が立っていますがレールの上にないので電車ではないようです。 第三通洞に電車が走ったのは明治38年9月 落シに発電所が出来 第三まで送電したのが明治37年10月 ペルトン水車は明治28年完成 明治43年撤去 木樋はペルトン水車だけに使われました。 |
絵葉書ではないのですが あかがねの故郷_18ページの掲載写真から 木樋が写っています。 明治37年 東平第三変電所完成 明治38年 東平収銅場完成 |
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絵葉書です 変電所の下を通った木樋は導水路を通ります。 手前に木樋がないので明治43年以降の写真です。 |
道水路を探索します。 少し崩れている所もありますが 歩くことが出来ます。ほぼ水平ですから 体力的にも 問題はありません。 |
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対岸に東平がほぼ水平に見えます。 マイントピア別子のマイクロバスも 来ているので 観光客で賑わっているでしょう。 |
導水路は四国電力の鉄塔で終わりです。 道はまだ続いています。 導水路は石垣をつくり 道の部分は 幅1mほどありますが ここから先の道は 山道で石垣などは見当たりません。 写真は2013年7月21日 |
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鉄塔はペルトン水車の真上になり この辺に 水槽があり「鉄の導水管」によって落とされた。
水槽が残っていません。 木の水槽とは思えません。レンガ造りだったと思いますが 全くない。 「鉄塔を作るときに破壊した」が私の持論。 Y氏は吐水の問題で この場所ではない可能性がある と言う意見だった。
吐水とはペルトン水車を止めるときに 上の水槽の水を導水管に入らないように止める。 そのとき止めた水は水槽から溢れます。 その水のことですが その水の行き場を ちゃんと谷まで導かないと その水のよって山が削られ崩落する事になる。 ちょうど お昼になったので 鉄塔の下で お弁当にする。
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ペルトン水車の記された地図があります 別子銅山と近代化産業遺跡の15ページ 東平地勢図 広瀬歴史記念館が平成12年に出版した小冊子です ペルトン水車あたりを抜き出しました ペルトン水車から山に向かってジグザグの道が登っています。 ペルトンの導水管の保全路だったと思われます。 この道が残っていますので 歩いてペルトン水車まで降ります。 |
急勾配の道です。そして 人が歩かないのか 道が痩せてきて 狭くなっています。 2013年7月21日の撮影の写真です |
昭和30年頃のペルトン水車の写真があります。 ペルトン水車の写真は出てきませんね。 重要な施設だったのですがペルトン水車としての 活動時期は明治28年から43年までの15年間だったので 歴史的に見るととても短い。 落シの発電所が出来 端出場発電所が出来ると 動力は電気に変わりペルトン水車の役割が終わります。 |
ペルトン水車の写真がもう一枚あります 明治32年にとんでもない台風がやってきて 別子銅山に多くの被害が発生した。 特に旧別子は破壊的な被害だった。 その記録写真の中にペルトン水車の写真がある。 建物は大きな被害を受けている。 端出場発電所のような立派な施設ではない。 木造で屋根は瓦のようです。 明治32年旧別子銅山水害記録写真 |
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さて 今回の大きな目的は このペルトン水車の施設跡の測量です。 と言っても Y氏と春秋氏が中心で 私はお手伝い程度。 関心はあるが 出来あがった地図を頂く方が楽。 二人が測っていないような所を測量していました。 (役に立たないだろうな) 春秋氏のブログより写真を拝借 http://blogs.yahoo.co.jp/haruaki_natufuyu/10298090.html |
Y氏の図面は技術屋さんだけあて私のとは まったく次元が違う。 図面を完成させるには 後何回かは通はなければならないだろう。 Y氏が言う 「石垣の上部と下部の石の積み方が違う」 全然気がつかなかったが その気で見てみると違う・・・気がする。 台風で被害にあって上部を積み変えたのだろう。 |
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導水管は何処を通ていたのだろう。 上の昔の写真 2枚にもわずかに写っています。 写真を頼りに裏山に登って見た。 導水管を支えた土台があるはずなのですが全くない。 わずかに山肌を切り取った跡を見つけただけだった。 上の木樋道からペルトン水車までの標高差100mの間に 1箇所でも土台が残っていれば導水管路が分かるのに 残念ですね。 住友さんペルトン水車を造った時の設計図を出してください。 |
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