なすび平       . 2014/04/27     .
    
 朝起きて ネットで 豊受山カタクリ満開 の情報を得て 妻と なすび平に出かけた。



大永山トンネル南口 8:50
フォレスタ分岐 10:09
なすび平 着 10:38
なすび平 発 12:15
フォレスタ分岐  13:22
大永山トンネル南口 14:52
住友林業フォレスタ着 15:05
住友林業フォレスタ発  15:45
    
大永山トンネル南口 8:50 先客がいた。笹ヶ峰か? アケボノツツジが満開でした。
   
フォレスタ分岐10:09 住友林業フォレスタからだと ここに来る もうすぐ なすび平  雪渓が残っていた 今年は大雪さったのかな
      
 登山道は 荒れているところがあるので 注意が必要です。 
     私の妻もけっこう ドンクサイのですが 何とか通行できましたので それなりに・・・
      
一輪だけ見つけた。

我々のために
咲いていてくれたようだ。
   


気温 12度  寒かった
なすび平は まだ冬の装い  
   カタクリは見かけなかった。何年か前に鹿に食べられたので まだ繁殖していないのかなあ

   住友林業フォレスタ    

住友林業フォレスタ は 桜が 満開だった。  おもいがけず お花見
    
カタクリは ハウスの正面の花壇はもう散っていたが 白樺林の奥は みごろ だった。
    
何を書いてあるのか読めないので
気にも留めていなかった。



すぐ後ろに生垣があり まだ芽が吹いていない。
だから 何かあるのがわかった。
銅版の説明板でした。
日本を代表する銅山であった別子は、多年に及ぶ森林の乱伐と製錬
の煙害から、明治中期には一木一草も生えない山肌となり、自然災害
もしばしば起こしていた。
当時、別子銅山支配人として着任した伊庭貞剛は、この荒廃した山
容に接して、「別子全山を旧の青々とした姿にして、之を大自然にか
えさねばならない」との強い願いから、大造林計画に着手した。また、
新居浜地方の煙害解決策として、四阪島への製錬所移転にも大いなる
決断を下した。
明治三十二年(一八九九)一月、別子での大任を終えて大阪本店へ帰
任する伊庭は、新居浜の港を発った後、船上から別子の山々を仰いで、
一句を詠んだ。

五力年の 跡見返れば 雪の山

この句を送られた心友の品川弥二郎は「月と花とは人に譲りて」と
付け句した。品川は、伊庭の別子時代は苦難の季節のみで、やがてふ訪
れる好季節は後進に譲ったと、爽やかな処し方に賛辞を呈したのである。
 伊庭の国土に報いる志は、後の人々にも確実に継承され、今日別子
は生態系の豊かな森林としてよみがえった。平成十三年(二〇〇一)、
伊庭貞剛没後七十五年にあたり、造林事業ゆかりの中七番の地に、そ
の偉業に感謝し徳を敬慕する者が相集い、顕彰の碑蓬立する。

平成十三年十月二十一日
「伊庭貞剛」没後七十五年感謝式典
実行委員会一同
碑文の文字は伊庭貞剛直筆書状などからの集宇である。