出合峠       . 2015/05/03     .
   
何度目の挑戦だったろうか?
やっと 出合峠にたどり着く事が出来ました。
今回も前回の2014/11/30に引き続き 善次郎さんにお世話になった。
彼は山登りに関しては私より技術的に優れており アドバイスを受けながら登ることが出来る。
私が右の方を探索すれば 自然と左の方向を探していてくれるから とてもスムーズに事が運ぶ
私が別子銅山のホームページを立ち上げる前から別子銅山のホームページを持っており
何かと参考にさせてもらった。 と言う訳で全善次郎さんとコンビを組むのは私にとってとても都合が良い
善次郎さんのホームページ こちら
中の川  8:21
別子渡瀬 8:43
勘場平  10:17 
出会峠着 11:09

出会峠発 11:35
勘場平  11:58
別子渡瀬 13:02
中の川  13:22

歩数 18489



天気予報がはっきりしなくて
出発するかどうか ずいぶん迷った
前日 「中止」とメールを出したら
「行ける所まで 行こう」と返事

結局雨にならないで下山できた。
積極的だなぁ  見習おう
    
林道に駐車 ここから上る  入口がわかりづらい 中の川集落跡 立派な石垣がつづく 道は人が通らないと思うが解り易い
    
この先で道は数回沢を渡っているが、この内最も大きな
沢を渡る所が、史話にある「別子渡瀬」であろう。浦山村
の中持ち衆にとっては、目的の中宿まであとひと息の所で
あり、最後の休憩を楽しんだに違いない。…
山村文化05号_39ページ

中の川をすぎてしばらく行くと沢に出るが、ここ
が「別子渡瀬」だろうか。まったくロマンチックな名の割
には単なる沢である。
山村文化06号_38ページ
分岐 上に行って失敗  別子渡瀬 
   
石積みがある 集落があったのでしょうか 谷を渡る。 一番危険な場所。橋が腐って 崖を渡る。
   
谷が細くなってくる。 前回この辺で迷い 引き返した 目印を付けて登る 道は無いので 尾根伝いに行く
  
植林地帯なので登り易い 
作業道か泉屋道か? 時々顔をだす
石積みがあり 平たい所にでる。 イノシシだろう 足跡が残っている。
  
勘場平(かんばなる)
 これを男衆が十二貫、四五s、女子衆が八貫、三〇sを背負って歩く訳ですが、一日で通すことは勿論出来ない。
そこで三区間に分けて運搬するのですが、先程も話しましたように、一、二〇〇mもある高い峠を越さねばなりませ
ん。従って運搬路の状況を勘案した上で別子山村の芋野部落と出合峠を越えた勘場平という処に中宿(中継所)を設
けて継ぎ持ちをした訳であります。
山村文化05_07

仲持は往復とも重量物を背負わなければなりません。不測の事態に備えて天満の港には大きな倉庫が何棟もあったこと
でしょうし、勘場平や芋野の中宿にも何日分もの食糧を保管出来る建屋があったものと思います。
山村文化05_08

この一帯が、中宿のあった「勘場平」である。史話は勘場平の情景を次のように記している。
赤星山の裾を巻いて、踏み分け路の細い急な坂を、およそ一里近くも辿ると「勘場平」と呼ぱれる処にでる。
二反あまりもあろうか、此処は極めて平かに均された山中には珍しい平坦地で、処々に壊れた石垣が点在してい
て、物の建てられた跡が偲ばれる。(中略)勘場平は、路がおぱこの高原へ出ようとする僅か手前に位し、天満
村から別子への道に中宿を設けるとすれば、最も格好の位置に当っていて、馬の中継、中持の交代、さては冬季
積雪の深い折など殊に交通の安全、物資の貯蔵等になくてはならぬ場所であることがはっきりとわかる。此の辺
一帯、元禄当時は勘場を中心に、恰も旧別子に於ける目出度町のようにいろいろの店屋が栄えていて、それらが
「店の別れ」の平地に建ち並んでいたであろうと想われる。
山村文化05_40

記録によれぱ、元禄七年下半期に天満浦から大坂に積出した銅は約七八万斤(四六八トン〕である。中持ち一人が
四〇キログラムを運んだとすると、毎日六五人が稼働したことになる。勘場平は中継所だから、この倍の一三〇人の
中持ちが毎日出入りしたことになり、中持ち以外の人達を加えると、勘場平の賑わいは相当なものであったと想像さ
れる。
山村文化05_40

登りはじめて一時間ほどで、「店の別れ」と言う地に来た。ここも単なる山道の分岐点
であるが、昔の人は夢が多かったのだろう。見落しそうな場であった。これよりさらに高度を稼ぐこと30分で
「勘場平」と呼ばれる平坦地に着いた。ここの広さは縦横それぞれ5〜60メートル(約千坪)は有るだろうか。二
段に整地されていた。
山村文化06_39
  
勘場平の谷側 
少し崖になっていて造成地という事がわかる
野球が出来るぐらい 
サッカーが出来るぐらいの広さはある
何も残っていないが 一番上部に炭焼きの跡がある
炭焼きの跡は あちこちにあり 昭和に時代かもっわからない
   
道らしきところもあり なるべく通行する 木に白いテープが巻いている 作業道だった。 この辺は来たことがある。
   
もうすぐ 峠です 出合峠は「住友財閥の第一歩を踏み出した場所」と思うのですね。
元禄3年にここを越えて銅山の調査隊が別子山村に入った。その時から 歴史が動いたのです。
だから 出合峠には「住友のマーク」の石碑がある。
    
赤星山とニツ岳の最低鞍部を、出合峠と呼んでいる。展望も優れない平凡な峠で、現在は顧みられることもほとん
ど無い所だ。数年前までは、四国電力の送電線がこの峠を走っていたが、それも撤去され、道は荒放題である。しか
しこの出合峠こそ、別子銅山の黎明期に、当時の幕府の屋台骨と言っても過言ではない大量の荒銅を別子銅山から天
満の港へと運んだ記念すべき峠なのである。世に言う一次泉屋道である。
山村文化05_37

泉屋道に関する史料を読むと、小箱越の名前は必ず登場するが、出合峠は全く出てこない。出合峠に言及したのは、
恐らく「別子開坑二百五十年史話」が初めてであろう。泉屋にとって小箱越は何か特別の恩い入れがあった所なのかも知れない。
山村文化05_37

峠から小箱越方面に二百米位の所に、番所跡の石垣が残されている。更に横掛け道を一時間足らずで、小箱越に着
く。泉屋道はここから他領津の尾根を経て、七曲りと呼ばれた中持ち泣かせの急坂を下り、大木谷を渡る所まではト
レース出来るが、それから先の小箱別れまでは現在通行不能
山村文化05_41
   
なんとか雨にあわずに下山することが出来た 花を見ることが無かった わずかにこの花があった。
   
やっと 第一次泉屋道(赤い線)が一本の道で繋がった。