1100m | |||
アクセス 角石原に登るには東平から第三通洞横を通り標高800m地点に 「馬の背経由」「柳谷経由」の看板がある。どちらも角石原に到着 します。ほとんどの人は「柳谷経由」で登ります。時間は馬の背の 方が多少早い。「柳谷経由」の方がメインになっていて道も良い |
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別子銅山で採掘された鉱石は、第一通洞から運び出され、角石原停車場で鉱車に積み込まれ、上部鉄道で石ケ山丈停車場まで運び、ここから索道で端出場に輸送され、港へ運搬されていた。 | |
明治44年10月。「第三通洞」ができ 鉱石は東平へ出鉱されるようになり上部鉄道の役目を終え廃線になりました。 | |
その間 18年。 歴史としては短いようですが 上部鉄道はとても重要な役割を演じたと思います。 そして現在 110年以上が経過し、1000m級の山中に産業遺産として残っています。 |
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角石原停車場跡には、伊藤玉男氏(故人)が昭和38年に開業した個人管理の山小屋の銅山峰ヒュッテとして、登山者に親しまてれいます。 会社施設を譲受け、整備拡張して 角石原停車場のプラットホームの上に建設されました。 |
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27 角石原停車場 別子の高橋で製錬された粗銅は、第一通洞を経由してここに運ばれ、角石原で処理した焼鉱と共に貨車に積み込まれて、上部鉄道にて5.5km先の石ヶ山丈まで運ばれた,そこからは索道で端出場まで下ろされ、更に下部鉄道で新居浜の惣開まで輸送されていた。鉄道は明治26年(1893)に敷設され、同44年まで近代化した鉱山の象徴として走り続けたが、第三通洞が貫通して東平地区が中継拠点となったことにより、明治44年に廃止した。現在の銅山峰ヒュッテが建つ辺りが駅舎であった。 現在、角野の大山積神社境内には当時活躍していたドイツのクラウス社製蒸気機関車が展示されている。 |
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角石原と石ヶ山丈の別子鉱山上部鉄道の駅舎風景である。石ヶ山丈と角石原間五・五キロの所用時間は約四〇分であり、途中駅には岩屋谷・一本松の二駅があり、一本松が単線の交差駅となっていた。鉄道の終点、角石原駅のプラットホームを写しており、その上方には焼鉱窯が見える。プラットホームには白煙を上げる二両のドイツ製蒸気機関車が停車している。その周囲には粗銅入りの袋や、米俵.木材などが山積みされ、その積み下ろしをする人物が写っている。写真右手が角石原運輸分課の建物である。 住友史料館報30号より |
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蒸気機関車が2両停車している。どちらもお尻を向けている。下記の「角石原停車場平面図」出もわかるようにターンテーブル(列車を回転させる装置)がない。石ヶ山丈にはバックで走ったようだ。 機関車の後ろの線路の右が、2本のレールになっている。脱線防止レールです。 参考 春秋のホームページ |
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①角石原停車場 ②第一通洞 ③柳谷 ④分岐 | |
②の場所にある案内板です。 | ||
28 第一通洞(八丁マンプ)北口(標高1,100m) 別子銅山の近代化が進むにつれて産銅の増加と生産物資や食料の輸送量が増大し、明治13年(1880)には立川中宿まで牛車道をつけたが1,300mの銅山越は交通の隘路で、輸送路の短縮が求められていた。そこで、ここ角石原と別子の東延谷をトンネルで結ぶ計画を立て、明治15年第一通洞の開削に着手した。 幸い、この年からダイナマイトを使用したことにより、予定より早く明治19年に代々坑に貫通した。全長1,020mであった。坑内には軌道が敷かれ、人車や馬車によって輸送を行っていた。明治44年、運搬の機能が第三通洞に移って廃止されたが、以後は人道として一般にも共用されていた。 |
明治23年の角石原 (住友史料館報29_56ページより) 上部鉄道の建設が始まったのが明治25年5月ですから 牛車道時代の角石原です。左に第一通洞北口があり 写真右端には角石原の事務所が写っている。 上部に銅山峰に向かう牛車道が見えますが第一通洞のが出来ていますのでほとんど使われていなかったと思われます |
第一通洞北口は扉があり中には入れません。通洞はもう潰れています。通洞内の石積みは素晴らしかった。蒸気機関車の煙で黒ずんでいる。残っているんですね。 | ||
角石原停車場平面図 別子鉱山鉄道略史53ページより | |
③の場所 角石原停車場を出る時、谷を渡ります。上部鉄道が始まっていますよ。 | ||
この橋を渡ります。上柳谷です。殆どの人は素通りしてしまいます。谷を覗いてください。 煉瓦造りの立派な橋台が残っています。 |
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④の場所には案内板です。 | ||
29.上部鉄道 海抜850mの石ヶ山丈と1,100mの角石原を結ぶ上部鉄道は、明治25年(1892)5月建設に着手,同26年8月に完成した日本初の山岳鉄道である。沿線の地形は急崖の連続で、始めは牛車道を改良して馬車鉄道を運行する計画であったが、明治25年11月欧米視察から帰国した住友家総理人広瀬宰平は蒸気機関車を走らせることを命じた。 以来、総力を挙げて建設を続行し、僅か1年余という短期間で完成させた。22箇所もある谷渡りには煉瓦積みの橋台が施され、殊に唐谷に懸かる3連橋の橋台は石ヶ山丈駅の遺構と共に文化財として価値が高い。 |
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千人塚精霊遥拝所 上部鉄道跡と東平登山道の分岐点辺りに「千人塚精霊遥拝所」が建立されている。供養のための千人塚への往来が安全面等で困難となり、此処へ遥拝所を設置したという。 入江義博 『別子銅山の歴史を学ぶ会』 402号より 遥拝=遠く離れた所から拝むこと |
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真直ぐ水平に道が付いています。上部鉄道は突き進みます 下の道は下り坂になっています。東平に下ります。 |
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看板があります。 「通行禁止」 住友林業株式会社 とあります。 ここは住友林業株式会社の社有林です。 ただし、 「警告を無視して通行されましても、事故等の責任は一切負いかねます。」 とあり すべて自己責任と言う事です。 この先に西赤石山に登る登山道があります。 |
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角石原選鉱場と焼鉱場 この辺りの開発が始まったのは明治時代になってからで、明治13年(1880)に銅山と立川中宿を結ぶ牛車道が完成し、この先の大地形は中継所となっていた。その後、明治15年になって第一通洞の開削が始まり、そのズリで斜面を埋め立て、やがてそれが鉄道用地へと展開していった。 明治26年上部鉄道が完成した頃、新居浜で稼動していた惣開製錬所の煙害問題がエスカレートしたので、その対策として鉱石を山元で焙焼することにして、この辺り一面、谷底から山上に至るまで焼窯やストール式という焼鉱炉で硫黄を取り除いていた。この辺りには選鉱場があり、第一通洞から出た鉱石を選別し、横のインクラインで焼鉱炉へ上げ下げしていた。 |
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第一通洞北口より200m位東方、柳谷本谷にはさまれた所を大地形といい、明治中期にはここに牛車道の中宿があり、牛小屋もあつて山神社や30戸位の家もあった。目出度町の伊予屋の支店やうどん屋もあり、中宿として繁昌していたらしい。 第一通洞上部には住宅10戸位があった。第一通洞北口の西方150mの所に角石原停車場があり、この付近は、第一通洞内の運搬を馬車でやっていた時代には、20余頭の馬を入れる馬小屋や馬子の宿舎倉庫などがあった。 角石原停車場の下には明治19年5月に出来た焼き窯や選鉱場があり、東延斜坑から出した鉱石や太平坑、都間符から出た鉱石を処理して、これを上部鉄道で石ケ山丈まで運んだ時代(明治19年より明治末期まで)もあった。現在ストール式焼鉱炉の煉瓦の跡や選鉱場らしきものの跡が残っている。 焼鉱炉は明治38年選鉱炉は明治44年に廃止された。 旧別子銅山案内25ページより |
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明治30年代 写真の中央に+のラインが見える。水平は停車場からのトロッコライン。縦はインクラインである。 | 登山道のある看板。後ろの斜めの石垣はインクライン跡で、歩くことが出来る。ただし藪。 | |
中央窪みはインクライン跡で突き当りの石垣は巻揚げ機のあった場所。きれいに残っている。 | 停車場の上部にある水路。雨水を柳谷に逃がす物と考える。このような私設は小足谷劇場上部にもある。 | |
新太平坑は二代採鉱(昔捨てた鉱石が技術革新により製錬できるようになり再び取り出す)のために大正15年から徐々に取り明けていたものである。鉱石は太東索道により東平(標高750m)へ搬送されていた。新太平坑口前には貯鉱庫や索道停車場跡がある。 | ||
立川銅山時代の古い坑口です。 | 新都間符の入口にはトロッコが残っている。 | |