木々の間から 「東平」が見えてきました 覆い茂った木々が邪魔をして遠望がききません。 上部鉄道全体が「苔が生えている状態」と思えるほど うっそうとしています。 上部鉄道を撮影するなら 木々の葉が落ちた「冬」がいいかもわかりません |
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昔は「はげ山」だった だから周りが見えないのが嬉しい。 明治26(1893)年頃、四国・新居浜にある別子銅山では、製錬所の亜硫酸ガスと 伐採量の拡大により森林は荒廃し、一面のはげ山となってしまいました。これを嘆いた 当時の別子銅山支配人(後の住友二代目総理事)伊庭貞剛は、専門技術者を招いて 森林計画を作成させました。 翌年の明治27年「大造林計画」を発表し、森林を再生させるために植林事業を開始。 それまで毎年6万本に満たなかった植林本数を、一気に毎年100万本台へと増やしたそうです。 そして現在、別子銅山は緑あふれる豊かな森林へと再生しています。 |
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1966年 銅山峰付近 私が撮影しました。 | |||
紫岩の怪1 | |||||||||
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写真の撮り方ではそう思えるのですが。もう少しアングルを変えてみると | |||
機関車はクラウス社のもので 春秋氏所蔵の「クラウスの機関車」 で調べてみると 上記の図面がある。 機関車の幅は1800mm+屋根の出張り 2mもあれば通行可能か? |
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紫岩がこの場所に在っても 鉄道の通行に再仕えのないことが判った では 廃線になってから この場所にずり落ちて または 転がってきて この場所で止まった こんな仮説を検証してみましょう |
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その1 | |||
紫岩の下に側溝がある 壊れかけているものの大きく破壊 されてはいない 落ちてきてここで止まったとも考えられるが? |
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紫岩は最初からここにあった。 | ||||
上部鉄道のすぐ上に牛車道が通っていました。その牛車道を検証してみました。もしこの牛車道が破壊されていれば紫岩がずれてきたり 転がってきて上部鉄道で止まったと思われます。 しかし 写真で見るように 紫岩の上に牛車道の石積みが残っています。つまり 紫岩は最初からここにあった。 (牛車道にも土留めがあり これも残っています) | ||
紫岩の怪2 まだミステリーがある | |||
写真① 線路跡が急激に下になる | |||
写真② 見上げる程で3mの高さである 上部鉄道を歩いていると紫岩手前で急に段差があるのを 気がつくだろうか?写真① 降りてみると3m程の高さがある。写真② 線路の勾配としてはあり得ない高さです。 |
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山がずれたと考えられます。 牛車道か牛車道土留めから幅150mに渡って 角石原側が3m 石ケ山丈側が1.5mずれた。 もちろん紫岩も乗せたままで地表のみ そのままの状態で 崖崩れではありません 崩れたのであれば上部鉄道が 残っていないからです。 上部鉄道は3m程ずれた |
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同じ地表の180mほど下に端出場発電所導水路があります。 ここもずれています。上部鉄道はずれ始めなので3m程ですが 導水路は幅も広く 落差も20m位あるだろうと思われます 導水路の原型がそのままで残っています。 |
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同じ場所で端出場発電所導水路でも「ずれ」が確認された。 | |||