石ヶ山丈が歴史の中に登場してきたのが 元禄15年3月
西条藩は 別子銅山峯 角石原 石ヶ山丈 立川 角野、
泉川 新居浜に出る銅の運搬道を許可しています。
明治13年石ヶ山丈に牛車道が出きました
その後明治26年に上部鉄道が走ると一躍有名に でも
明治44年には廃止になっています。別子銅山280年間で
石ヶ山丈が最も活躍したのは18年間だったようです
石ヶ山丈平面図


ヶ山丈の歴史

元禄15年      西条藩が別子銅山峯 角石原 石ヶ山丈 立川
             角野、泉川 新居浜に出る銅の運搬道を許可
明治13年(1880)  牛車道完成 (目出度町~新居浜)延長22km
            足谷山-銅山越-角石原-石ヶ山丈-立川中宿
            明治28年(1893)に牛車運搬は廃止されました
  
明治24年 1891  複式高架索道完成(石ヶ山丈~端出場)

明治26年(1893)  上部鉄道完成(石ヶ山丈~角石原 5,532m)

明治30年 1897  単式高架索道完成(石ヶ山丈~端出場)

明治44年 1911   上部鉄道(角石原~石ヶ山丈)廃止  
            石ヶ山丈~端出場間の複式索道廃止  




角石原方面



私の友人が 石ヶ山丈を詳しく研究しています
ホームページはこちらです

索道基地跡 

人の背丈ほどの溝があります。
索道の機械が据わっていた跡なのでしょうか。

ホームページなどを見ていると機関車を下から整備するための溝
と書かれていますが 当時の地図にはここまでレールは敷かれていませんでした。
石ヶ山丈では明治24年に鉄道より先に索道が完成しています。そして翌年の明治25年鉄道
建設が始まっています。線路は山の根付側を
走っています。
また索道は山の地形から見てこの場所
(山の背の所)でなくてはならないようです。
昔の住友さんは「煉瓦」が好きなようです。「端出場」「東平」「旧別子」いずれの場所にもふんだんに「煉瓦」が使われています。この「上部鉄道」も例外ではありませんでした。橋台はすべて煉瓦造りでした。
旧別子の東延地区の1個の暗渠に「赤煉瓦30万枚を使って構築し」とあります。
「赤い煉瓦の煙突」と言うタイトルの歌にもなっています。
煉瓦は何処で造られ どのように運ばれたのか気になるところです。
(別子山では煉瓦はほとんど見かけ ませんでした)

プラットホーム付近の煉瓦
山肌を押さえるように築かれた石垣 苔むしてはいるが、まだ頑丈そうに思える。
プラットホーム

当時の図面ではプラットホームの端の方は少し湾曲しています写真のこの場所がそうでしょうか植林させた檜が根を張りプラットホームの石垣を崩しています。

この石ヶ山丈の土の下は硬いようです。風で倒されたと思われる檜の根は下に向かって伸びていません。

2009年6月28日に訪れた時の写真です。
木々が青々としているだけですが、山の息づかいを感じます。
石ヶ山丈を支える石垣

石ヶ山丈のすごさはこの石垣郡だろう。
広場の端から下を覗いたとき度肝を抜かれた。
すぐに 降りていきました。
崩れているところもありましたが。当時(100年前)
のまま眠っていたわけです。


山のなかに「平地」などないですよね。

特にこの一帯は石槌山系に代表されるように急斜面の山が多く 登山者には格好の場所です。
( この上にある西赤石山・兜岩などは九州・中国地方からの愛好家が訪れています。)

この場所にプラットホームを作るぐらいの広場を確保するには石垣を何重にも積み重ねるほかないようです。
左の写真も見えるだけで三重の石垣が見えます。私の友人が写っていますが 石垣の高さがわかります。


「遺跡マニア」

私の友人は「遺跡マニア」である。
私も「遺跡マニア」の仲間入りをしたと言うが 「遺跡マニア」でなくてもこの石垣のすごさはわかります。
道のない藪の中を下まで下りて見上げたときの感動は行った者にしか味わえない感動であり、特権である。(感動は写真に写らない)

いま「東洋のマチュピチュ」と言われ東平に観光客が押し寄せているようですが、どうか ここまで「石ヶ山丈」まで「上部鉄道」までは来ないでください と 願う。

道も険しいよ!
トイレもないよ!
売店もないよ!
----- だから 来ないで ----

ベストコース

東平 ---<1時間>--- 角石原(銅山峰ヒュッテ) --- 一本松 --- 石ヶ山丈 ---<1時間> -- 一本松 ---<25分> 東平

角石原から石ヶ山丈まで5532mです 平地では1時間ちょっとで歩けますが 2時間半は予定してください。
ちなみに私は 東平を7時15分に出て 東平到着は16時52分でした。写真撮影に時間を費やしました。