高知年鑑より  1954大北川村
上記は1954年発行の高知年鑑に記載されている大川村の地図である。

村名 大北川 
石高=6石100合 戸致=28
人口=127(男70・女57)
馬=0 牛=0 猟銃=14
寛保3年(1743)の「土佐国御国七郡郷村帳」より
住友が製炭した頃の統計である。
石高は6石と少ない 
(別子山村は34石)
別子山と土佐を結ぶ峠。別子銅山開坑以前からあった道のようで、別子山から土佐に行くよりも、土佐大川村や周辺の人達が瀬戸内側に往来したのではないかと思われる。現在は筏津から太田尾峠までは「市道太田尾2号線」となっていて、新居浜市管理の道路となっている。高知県は大田尾2号線となっている。面白い事に新居浜市側は「太田尾」表記で大川村側は「大田尾」となっている。山肌が弱く、時々、山崩れなどで通行止めになるので、要注意の道路である。道路幅が狭く、落石・倒木にも気を付ける事。舗装はされているが、冬季は積雪が多く、凍結は覚悟の事。
生活に使用されるよりも、林業作業者や登山者に利用されている。筏津から太田尾越えまで車で15分ほどです。
別子山村史459ページに「往古の村の交通」について書かれており、それによると
「それよりも先に開かれたのは、土佐の大川村大北川への道こそ、第一番の交通路となったのであろう。それは季清の弟俊清が一時土佐の北川に居を構え、此処に土佐北川番所を開いて、土佐との交通を第一としたことは想像に難くない。」
としており、日常欠くことの出来ない米塩は、やはり土居村方面に要求したのであろうと記している。
太田尾越の道は開村当時(1185年)からほど遠くない時代からある事がわかる。しかし太田尾越から筏津に降りたとは思わない。瓜生野までの直接の道があったかもわからない。

さて この道が何時頃から「炭の道」として活躍するのか 
住友林業社史別巻144ページに「元文2年(1737)大北川山北平で製炭等を行う」とある。別子銅山が開坑して46年後の事である。「延享2年まで」と記されている。延享2年は1745年ですから8年間と言う事になる。
大北川山村は一つの村だったようです。太田尾の峠を越えると大北川村で大北川沿いの村であった。明治22年(1889)小松村、船戸村、朝谷村、大北川村、高野村、川崎村、猪ノ川村、大平村、小麦畝村、小北川村、大藪村、下切村、南野山村、上小南川村、下小南川村、中切村が合併して大川村が発足し、現在に至っている。平成の大合併でも合併せず134年間同じ村である。
大北川村からだと海に出るには、桂浜よりも天満浦の方がかなり近いようだ。主な産業は別子銅山開坑以前の別子山村と同様の農業と狩猟など限られたもと思われる。
本川郷大北川村は山深く人家疎らで、明治の初年までは千年斧銀を入れざる森林さへもあった。
高知年鑑1962年の大川村の地図に「鉱山マーク」を見つけた。ちょっと調べたので記してみる
有名な別子銅山も元禄三年(1690)に発見されたもので、翌4年に住友の請け山とり大銅山となったのである。このように全国的な鋼山の勃興期に相応じて、土佐藩でも銅の採掘に着手し始めたのであった。
大川村の銅山がクローズアッブされるようになるのもこの頃からである。.即ち元禄12年(1699)二月十日、四代藩主山内豊昌は西野総右衛門を使者として、幕府の老中阿豊後守正成に次の文書を出し、大北川山試掘の承認を求めている)。大北川銅山は元禄十二年(1699)四月から経営が始まり、大阪の商人海部屋助右衛門の請負であった。ところが予想に反して銅があまり出ず、到頭四年四ケ月ののち元禄十六年八月に廃業してしまった
『山内家記録』大川村史より
役職を退いて閑になった友助は、醤油穣造の傍、鉱山業を始めた。即ち高松屋多兵衛と協同して本川鉱山(高知県土佐郡大川村)と言う別子裏山の小鉱山を買収して、当時流行の「鉱山経営」に手を染めたのである。 (明治の初年)
この山は、一名大北川鉱山とも言い、吉野川の支流大北川の上流に位し、土佐では名高い銅山であるが、維新の頃には、既に老齢になって、廃坑に近い状態に陥っていたのである。旧記によると「この山は周囲九里、銅坑のある処を鋪と呼び、全ウラの従業員合計五二六人とあるから、昔のしは相当の山であったことがわかる(四国鉱山誌777P)。
しかし、老鉱山は、思った程楽には経営川来ず、殊に深山の事とて交通の便が悪かった為、結局、この廓業は失敗した、高松屋も川中屋も、全財産を山に注ぎこんだ末、終に山を手離さねばならなかった、折衝の衆、本川鉱山は別子銅山へ引取られた 
  『川之江天領史』
元禄12年(1699)2月10日に土佐藩は江戸幕府に対して、土佐郡本川郷大北川銅山の採掘を願い出ました。上方より銅山師を呼び寄せ、多い時は働く人が610人もいたと言います。この当時は「大北川銅山」と称していたのですが、手掘りで、採銅量は元禄12年には年間6969貫匁、同13年には6085貫匁を産出しました。しかし、経営期間わずか4年4ヶ月で、採銅量が少なくなり廃鉱するに至ったのでした。   『ふるさと早明浦132P』
 
ここで 別子銅山が絡んできた。住友の記録も掲載しておく。
土佐圀大北川銅山 元文2年より同4年まで當家にて稼業す。 『別子開坑二百五十年史話』
明治20年(1887)五5月3日高知県土佐郡朝谷村(現・大川村)の朝谷銅山と大北川村(現・大川村)の中久保銅山を買収して、9月24日付で縦之木坑業場(鉱業所)とした。  
『住友別子鉱山史上巻』410ページ
明治29年3月11日には、高知県にある別子支山も採算がとれないので処分することに決し、縦之木鉱業所所管の土佐郡朝谷村(現・大川村)の朝谷鉱山・同郡大北川村(現・大川村)の中久保鉱山、ならびに別子鉱山開坑課所管の同郡桑瀬村(現・本川村)の黒滝鉱山を5500円で永野慶右衛門ほか三人に売却した。
『住友別子鉱山史上巻』454ページ
さて、太田尾越の炭の道を歩いてみたのだが、どこが出発地点か分からない。
加藤正典氏の「別子銅山 炭の古道」にも

大川村大北川山村→大田尾峠→筏津→吹方炭蔵

と経路が書いてありますが 詳しくは書かれていません。
住友林業社史別巻144ページに「元文2年(1737)大北川山北平で製炭等を行う、延享2年まで」と記されている。延享2年は1745年ですから8年間と言う事になる。
同じページに「寛保2年(1742)大北川山南平で製炭等を行う、寛延元年(1748)まで」とありこの間7年。147ページ「文化9年(1812) 土佐大北川山で製炭等を行う、文政5年(1822)まで」この間11年。この資料では元文2年から文政5年までの間で、合計33年間炭を焼いた。寛延元年から文化9年まで大北川山で製炭をしていないのであればこの間の64年間は製炭していない事になる。
表にしてみる。 

   場所

開始

終了

期間

大北川山北平

1737

1745

9

大北川山南平

1742

1748

7

大北川山

1812

1822

11

大北川山北平や南平は何処にあったか分からないが、当時は山の木は大量にあっただろうから、山の上の方、太田越に近い所に炭窯を整え製炭したのではないだろうか。そうすると、筏津までは2時間半から3時間で運んだと思われる。
地図を眺めていて、懐かしい地名を見つけた。「カヤクボ」である。てっきり「火薬棒」と書くのかと思っていたら「萱窪」だった。私が中学生の頃、釣竿を担いで太田尾越を通り、カヤクボまで釣りに行ったのも2時間ぐらいまでの所と記憶している。別子から高知県は近かった。
大北川山の製炭は第一次と二次に分けたと考える。第一次は1737年から1748年の12年間 二次は64年後の1812年から。その間に木々も成長したに違いない。
製炭は、私の勝手な想像で本在所のある所から太田尾越の間とした。本在所は大北川で一番大きな集落で学校もあった。大北川分教場として明治16年4月、開設され昭和41年 廃校になっている。
1954年の地図には「本在所」となっているが、1962年の地図からは「大北川」と記され◎のマーク(戸数が50~100)が付いている。
明治41年の地図
明治41年の地図の道を現在の地図上に記入 
  これが探検の場所になる