![]() |
![]() |
![]() |
別子山と土佐を結ぶ峠。別子銅山開坑以前からあった道のようで、別子山から土佐に行くよりも、土佐大川村や周辺の人達が瀬戸内側に往来したのではないかと思われる。 現在は筏津から太田尾峠までは「市道太田尾2号線」となっていて、新居浜市管理の道路となっている。高知県は大田尾2号線となっている。面白い事に新居浜市側は「太田尾」表記で大川村側は「大田尾」となっている。 山肌が弱く、時々、山崩れなどで通行止めになるので、要注意の道路である。道路幅が狭く、落石・倒木にも気を付ける事。舗装はされているが、冬季は積雪が多く、凍結は覚悟の事。 生活に使用されるよりも、林業作業者や登山者に利用されている。筏津から太田尾越えまで車で15分ほどです。 |
|
別子山村史459ページに「往古の村の交通」について書かれている。 「それよりも先に開かれたのは、土佐の大川村大北川への道こそ、第一番の交通路となったのであろう。それは季清の弟俊清が一時土佐の北川に居を構え、此処に土佐北川番所を開いて、土佐との交通を第一としたことは想像に難くない。」 太田尾越の道は、開村当時(1185年)からほど遠くない時代からある事がわかる。 |
大北川山村は一つの村だったようです。太田尾の峠を越えると大北川村で大北川沿いの村であった。 明治22年(1889)小松村、船戸村、朝谷村、大北川村、高野村、川崎村、猪ノ川村、大平村、小麦畝村、小北川村、大藪村、下切村、南野山村、上小南川村、下小南川村、中切村が合併して大川村が発足し、現在に至っている。平成の大合併でも合併せず134年間同じ村である。 大北川村からだと海に出るには、桂浜よりも天満浦の方がかなり近いようだ。主な産業は別子銅山開坑以前の別子山村と同様の農業と狩猟など限られたもと思われる。 本川郷大北川村は山深く人家疎らで、明治の初年までは千年斧銀を入れざる森林さへもあった。 |
左記は1954年発行の高知年鑑に記載されている大川村の地図である。 村名 大北川 石高=6石100合 戸致=28 人口=127(男70・女57) 馬=0 牛=0 猟銃=14 寛保3年(1743)の「土佐国御国七郡郷村帳」より 住友が製炭した頃の統計である。 石高は6石と少ない (別子山村は34石) 高知年鑑より 1954大北川村 |
|||
さて この道が何時頃から「炭の道」として活躍するのか 住友林業社史別巻144ページに「元文2年(1737)大北川山北平で製炭等を行う」とある。 別子銅山が開坑して46年後の事である。「延享2年まで」と記されている。延享2年は1745年ですから8年間と言う事になる。 |
![]() |
高知年鑑1962年の大川村の地図に「鉱山マーク」を見つけた。ちょっと調べたので記してみる. 元禄12年(1699)2月10日に土佐藩は江戸幕府に対して、土佐郡本川郷大北川銅山の採掘を願い出ました。 上方より銅山師を呼び寄せ、多い時は働く人が610人もいたと言います。 この当時は「大北川銅山」と称していたのですが、手掘りで、採銅量は元禄12年には年間6969貫匁、同13年には6085貫匁を産出しました。 しかし、経営期間わずか4年4ヶ月で、採銅量が少なくなり廃鉱するに至ったのでした。 『ふるさと早明浦』132ページ |
||
有名な別子銅山も元禄三年(1690)に発見されたもので、翌4年に住友の請け山とり大銅山となったのである。このように全国的な鋼山の勃興期に相応じて、土佐藩でも銅の採掘に着手し始めたのであった。 大川村の銅山がクローズアッブされるようになるのもこの頃からである。.即ち元禄12年(1699)2月10日、4代藩主山内豊昌は西野総右衛門を使者として、幕府の老中阿豊後守正成に次の文書を出し、大北川山試掘の承認を求めている)。大北川銅山は元禄12年(1699)四月から経営が始まり、大阪の商人海部屋助右衛門の請負であった。ところが予想に反して銅があまり出ず、到頭四年四ケ月ののち元禄16年8月に廃業してしまった。 『山内家記録』大川村史より |
役職を退いて閑になった友助は、醤油穣造の傍、鉱山業を始めた。即ち高松屋多兵衛と協同して本川鉱山(高知県土佐郡大川村)と言う別子裏山の小鉱山を買収して、当時流行の「鉱山経営」に手を染めたのである。 (明治の初年) この山は、一名大北川鉱山とも言い、吉野川の支流大北川の上流に位し、土佐では名高い銅山であるが、維新の頃には、既に老齢になって、廃坑に近い状態に陥っていたのである。旧記によると「この山は周囲9里、銅坑のある処を鋪と呼び、全ウラの従業員合計526人とあるから、昔のしは相当の山であったことがわかる(四国鉱山誌777P)。 しかし、老鉱山は、思った程楽には経営川来ず、殊に深山の事とて交通の便が悪かった為、結局、この廓業は失敗した、高松屋も川中屋も、全財産を山に注ぎこんだ末、終に山を手離さねばならなかった、折衝の衆、本川鉱山は別子銅山へ引取られた 『川之江天領史』 |
![]() |
ここで 別子銅山が絡んできた。 住友の記録も掲載しておく。 土佐圀大北川銅山 元文2年より同4年まで當家にて稼業す。 『別子開坑二百五十年史話』 明治20年(1887)五5月3日高知県土佐郡朝谷村(現・大川村)の朝谷銅山と大北川村(現・大川村)の中久保銅山を買収して、9月24日付で縦之木坑業場(鉱業所)とした。 『住友別子鉱山史上巻』410ページ |
||
明治29年3月11日には、高知県にある別子支山も採算がとれないので処分することに決し、縦之木鉱業所所管の土佐郡朝谷村(現・大川村)の朝谷鉱山・同郡大北川村(現・大川村)の中久保鉱山、ならびに別子鉱山開坑課所管の同郡桑瀬村(現・本川村)の黒滝鉱山を5500円で永野慶右衛門ほか三人に売却した。 『住友別子鉱山史上巻』454ページ |
さて、太田尾越の炭の道を歩いてみたのだが、どこが出発地点か分からない。 加藤正典氏の「別子銅山 炭の古道」にも 大川村大北川山村→大田尾峠→筏津→吹方炭蔵 と経路が書いてありますが 詳しくは書かれていません。 |
![]() |
||
住友林業社史別巻144ページに「元文2年(1737)大北川山北平で製炭等を行う、延享2年まで」と記されている。延享2年は1745年ですから8年間と言う事になる。 同じページに「寛保2年(1742)大北川山南平で製炭等を行う、寛延元年(1748)まで」とありこの間7年。 147ページ「文化9年(1812) 土佐大北川山で製炭等を行う、文政5年(1822)まで」この間11年。この資料では元文2年から文政5年までの間で、合計33年間炭を焼いた。 寛延元年から文化9年まで大北川山で製炭をしていないのであればこの間の64年間は製炭していない事になる。 |
|||
![]() |
大北川山北平や南平は何処にあったか分からないが、当時は山の木は大量にあっただろうから、山の上の方、太田越に近い所に炭窯を整え製炭したのではないだろうか。 そうすると、筏津までは2時間半から3時間で運んだと思われる。 地図を眺めていて、懐かしい地名を見つけた。「カヤクボ」である。てっきり「火薬棒」と書くのかと思っていたら「萱窪」だった。私が中学生の頃、釣竿を担いで太田尾越を通り、カヤクボまで釣りに行ったのも2時間ぐらいまでの所と記憶している。 別子から高知県は近かった。 |
||
大北川山の製炭は第一次と二次に分けたと考える。第一次は1737年から1748年の12年間 二次は64年後の1812年から。その間に木々も成長したに違いない。 製炭は、私の勝手な想像で本在所のある所から太田尾越の間とした。本在所は大北川で一番大きな集落で学校もあった。大北川分教場として明治16年4月、開設され昭和41年 廃校になっている。 1954年の地図には「本在所」となっているが、1962年の地図からは「大北川」と記され◎のマーク(戸数が50~100)が付いている。 |
住友林業社史別巻に炭山見積り覚書があり、 26ページに土州大北川山 の事が記してある。 こちらの文章では延享五年(1748)から文化五年(1808)まで61年となっている。 |
|
住友林業社史上巻82ページに 「明治18年に大北川村の北川山の借用が許可された。」とある。明治になり国有林となった大北川村の山は政府の許可を得て貸し出すと言う形になっている。 | |
![]() |
明治41年8月25日発行(明治39年測量)の地図 大北川から太田尾越まで点線の道がある。見やすく赤く色を付けた。この道が古来より別子山に通ずる道と思われる。 左岸には道は見当たらない。 中央に鉱山記号がある 後述 |
![]() |
現在の地図です。黄色い線が県道でA地点から左岸になっています。道は細く対向車に難儀しますが全線舗装されています。 古道はA・B地点から入れそうなので、探索する事にした。 |
これが探検の場所になる |
![]() |
![]() |
||
赤い線は 私が通った足跡である。黄色い線上は車で移動 | ①山手の法面コンクリートの切れた所から道があり登れる。 | ||
![]() |
![]() |
![]() |
|||
②2~3分も登ると古道に出た。炭の道と確信する。 ③まず、下流に向かって歩く。道はきれいに残っているが、何とか歩ける程度。左は絶壁 ④5分ほど歩くが、これ以上危険とあきらめる。下に県道か見える。 |
|||||
![]() |
![]() |
![]() |
|||
⑤引き返し、上流に向かう。 なだらかな道が続くかと思われた。 ⑥崩落。矢印の所がぱっくりと口を開けている。のぞき込むと、2本の梯がある。 ⑦大岩にもたせ掛けているだけで固定していない。何とかクリアするが、帰りも怖かった。 |
|||||
![]() |
⑧10分ほど歩いたところで崩落。 今度は無理。迂回出来るか? 出来ない あきらめる 古道があった。炭の道としての道だったのだろう。歩く道から 馬が通れる馬道に改修したと思われる。ここに道があった事が分かった。大きな成果だったと満足。怖かった! |
||
![]() |
![]() |
||||
①から⑦まで 馬道であった。 | ①県道との分岐 チェーンが架けられて車両は通行止。 | ||||
![]() |
![]() |
![]() |
|||
②廃屋 自然の家のようは建物。碑があったが字が読めない。上流に向かって歩く。 ③廃屋の施設を抜けると 思った通りの炭の道があった。 ④5分ほど歩くと崩れていて、道は続いているが、本日はここまでとする。 |
|||||
![]() |
![]() |
![]() |
|||
⑤廃屋から林道を下り、大座礼橋を渡りここまで舗装されていた。施設があった形跡 ⑥さらに進むと炭の道が現れた。伐採の跡なので、道は破壊されているが、石垣などが残っている所もある。伐採地は作業道を付けるが、石垣をつけないので、古道との見分けがつく。 ⑦伐採跡に植林をし、害獣よけの柵が貼り巡られて、立ち入ることが出来ない。廃屋から15分 |
|||||
A・B地点を探索した結果 大北川沿いの炭の道の様子がわかった。なだらかな道で階段や急坂がなく、馬が通れる道であった。地図で見ると、B地点の少し上流に開けた所があり萱窪(茅久保と書いている資料もある)と思われる。 |
|
大北川沿いに鉱山記号がある。 | |
大北川銅山は元禄12年(1699)4月から経営が始まり、大阪の商人海部屋助右衛門の請負であった。 ところが予想に反して銅があまり出ず、到頭4年4ケ月ののち元禄16年(1703)8月に廃業してしまった。 大川村史252ページ |
|
土佐國大北川銅山 元文2年(1737)より4年まで當家にて稼行す。 別子開坑250史話 45ページ |
太田尾越から弟地炭宿まで | |||
![]() |
左の地図は大日本帝国陸地測量部が明治41年8月25日発行(明治39年測量)の地図です。 上部は「新居浜」下部は「日比原」と2枚の地図に分かれている。 公にさえている地図ではこの地図が一番古いが、「別子鉱業所では森林計画作成準備等のために明治32年から明治40年までに別子銅山周辺の山林・土地の測量をして6000分の1・の地図を58枚作成しました。」とある。 しかし公開はされていない。(原図は広瀬歴史記念館) |
||
![]() |
私が子供のころ(昭和30年代)に高知県の「カヤクボ」まで釣りに行った事がある。カヤクボは火薬棒とばかり思っていたが、大川村史(1962年発行)によれば、「萱窪 122町7反8畝02歩(明治10年ごろ)」と記されており、萱窪と書くようだ。場所は太田尾越からそう遠くはない所だったと記憶している。 思い出して2015年5月5日に歩いている。 筏津から1時間30分かかっている。 あったはずの道が藪になって引き返している。仕方なく車道を歩く。右の地図が歩いた時の軌跡です 上の明治41年の地図と見比べてみると、私の歩いた道は、 |
||
![]() |
![]() |
![]() |
|||
①太田尾越まで舗装道路が続いているが、途中から旧道に入る。これが炭の道です。 ②高知県ほどの広さはないが、しっかりとした道が残っている。 ③住友林業の境界案内板が立っている。地番60と64の境界です。 |
|||||
![]() |
![]() |
![]() |
|||
④細い橋が残っていた。いつの頃の名残だろう。 ⑤石垣積の古道が残っている。新しく道が出来ると、以前の道は廃道となる。まず、歩く人がいなくなる。こだわりのある登山者か、私のようなモノズキぐらいだろう。 ⑥車道にでる。旧道に入って35分かかっていた。 (行程の都合上 筏津から大田尾越に向かって歩いた) |
|||||
その他文献に見る 源平屋島の合戦に敗れた平家の残党が、高知県土佐郡大北川に雲谷山円通寺を建立、慶長年間(1596年 ~1615年)別子山村保土野小学校のところに移転した。 別子銅山101ぺ―ジ 字筏津より 葛籠尾を経て 土佐に通ずる道路もあり、其他は 羊膓たる小径 常に炭焼?夫等の 往来するのみなり。 別子郷土誌 伊予への出口として大北川口(大田尾越え) 野地口(野地峰)の二箇所は、道番所につぐ名本下番人が当たっている。他の出口小番所より重要視したとのことである。 予土の峠物語 64ページ 「夏切狸と大田尾狸と豊後狸」の民話がある 山村文化09号35ページ 安森滋著 郡戸中村の葛籠黒滝山・稲村山、脇ノ山村(現、本川村)の脇ノ山、大藪村の名谷山など9か村で3888町歩であった。さらに同18年は、第二備林全体の81%の借用が許可された年であり、高知県長岡郡で売生野村の桑ノ川山、七戸村の阪瀬山、下川山村の場吉山など4か村で2023町歩、土佐郡では大北川村の北川山、桑瀬村の一ノ谷山・黒滝山、中ノ川村の上瀬戸山、長沢村の長沢山・立橋山、越裏門村の竹ノ川山・休場ヶ谷など19か村で8357町歩、新居郡では藤ノ石村の笹ヶ峰・谷崎山など2万280町歩余を借用したのである。 住友林業社上巻 82ページ 土佐郡本川郷の小麦畝・井ノ川・大北川(以上、現、土佐郡大川村).足谷.黒滝(以上、現、土佐郡本川村)の諸山は、比較的別子銅山に近く、運搬にも有利であったため、何度か繰り返し願請けされた。だがなかには文化五~八年(1808~11)この足谷山のように、泉屋は名義を貸しただけで実質的には地元の小麦畝村が請負い、出来炭を泉屋が購入した例もあった。 住友林業社上巻 54ページ |
|||
2024/12/27
![]() |
|||
![]() |