現在林道が通っていて、歩くことなく三ツ森峠に立つことが出来るが、一般の車両は入れない。この林道は「菊淵三ツ森線」と名付けられていて、国土地理院発行の地図にも掲載されている。県道47号線の入り口で施錠されている。一般には平家平や三ツ森山への登山道として利用されている。 他の炭の道の峠に比べて、別子銅山に一番近い所にあり、住友と関わりの深い峠でもある。 |
『別子銅山 炭の古道』で加藤正典氏はこの古道を一番に記している |
①三ツ森峠 別子銅山が開坑してわずか18年の宝永6年(1709)に、別子周辺の炭木を伐り尽してしまったため、銅山近接の土佐藩領小麦畝村から炭を買い入れることにしました。別子銅山では、幕領以外から初めて買い入れになるため、この峠越のルートが、歴史上「炭の道」第一号といえます。 この道は、それ以後三百年余り別子から土佐へ抜ける近道として利用され、現在では下七番への道は途絶えましたが、中七番から上は林道として活用されています。 |
時代を遡って、順に述べてみます。住友別子鉱山史(平成3年5月発行)、 住友林業社史(平成11年2月発行)の2冊から抜き出してみます。 |
宝永 |
4 |
1702 |
土佐領大平村・小麦畝村の炭山見分を出願 |
鉱山史 |
4 |
1702 |
小麦畦(小麦畝か)村の炭山見分を出願(許可されず) |
林業史 |
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6 |
1709 |
泉屋が土佐炭を使用し始めた |
林業史 |
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6 |
1709 |
小麦畝付近の山林を炭山として請け負った |
林業史 |
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6 |
1709 |
泉屋は小坪谷に中宿を建て |
林業史 |
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7 |
1710 |
蔦屋名義のまま別子銅山抱えの炭焼が入山(正徳2年まで) |
林業史 |
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8 |
1711 |
土佐小麦畝山を蔦屋名義で請け負う、正徳2年まで |
鉱山史 |
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正徳 |
3 |
1713 |
桑名を名.義人として小麦畝山など炭山請負を落札 |
林業史 |
3 |
1743 |
炭山小麦畝山を桑名弥左衛門名義で請け負う、正徳5年まで |
鉱山史 |
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4 |
1714 |
2月から翌年末まで製炭 |
林業史 |
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享保 |
10 |
1725 |
小麦畝山で製炭等を行う、享保14年まで |
鉱山史 |
寛政 |
5 |
1792 |
小麦畝山で製炭等を行う、寛政9年まで |
鉱山史 |
文化 |
5 |
1808 |
土佐足谷山で製炭(小麦畝村が請け負う)、文化8年まで |
鉱山史 |
文久 |
4 |
1764 |
小麦畝山で製炭等を行う、明治5年まで |
鉱山史 |
明治 |
22 |
1889 |
高藪に製炭分課設置 |
鉱山史 |
22 |
1889 |
高薮村に製炭分課 |
林業史 |
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24 |
1891 |
小麦畝には製炭出張所が置かれた |
林業史 |
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大正 |
6 |
1917 |
製材事業は高藪・七番山・五良津山・立川山・加茂の各事業区 |
鉱山史 |
14 |
1925 |
本川・大川事業区を合併、高薮事業区とする |
鉱山史 |
住友別子鉱山史を 水色 住友林業社史を緑色 に色付けしました。同じ項目もありますが、時系列にしてみると、より詳しい年表が作れました。 加藤正典氏の指摘のとおり、宝永6年(1709)から三森峠を越えて別子銅山に炭が入っています。宝永4年年から交渉を始めたようです。 |
上の地図は明治44年の地図ですが、旧別子小足谷の小学校から高知県高薮迄一本の道が伸びている。この当時二重線の道は稀で新居浜市内でも登道と讃岐街道だけです。別子山村内は破線の道です。 この明治13年の、運搬車道が今の林道と思われる。 |
「明治13年、製錬用木炭の運搬車道を確保するため、鉱山から高知県土佐郡大藪村の大藪炭宿(現、大川村)までの運搬車道開発に着手した。同車道は、鉱山から七番山を経由して三ツ森峠を越え、高知県の小麦畝(現、大川村)を経由して大藪炭宿に至るが、翌年には七番山まで開通したので、11月広瀬は人力車に乗り、写真師を連れてそのできばえを視察した。 住友林業社史上巻95ページ |