備えて確保された。両村御林の雑木伐採については遠藤代官の時代すなわち宝永五年まで
に許可を得たといい、宝永四、五年には津根山村の葛川山松木御林で留木や水船などの用
材採取を許可され、さらに宝永七年には津根山村の折宇山四五〇町歩(約四五〇ヘクター
ル).寺野山二五町二反、浦山村の峨蔵山一=六町歩において御用木を除く雑木伐採が認
められた(表1-9参照)。折宇山は銅山から約五里(約二〇キロメートル)、峨蔵山へは三
里余の道のりであった。正徳二年(一七一二)には早くも津根山村松木御林を切り尽くし、

住友別子鉱山史上巻44

で天明七年(一七八七Vには、幕府勘定所の吟味下役柳田喜十郎・普請役和田繁蔵が近辺
の炭山を見分したうえで、浦山村の地吉山八六四町歩・外之尾山八六四町歩が新たに下げ
渡された。幕府にとってこの下げ渡しは最後の切札と認識されたようで、折宇山・葛川山・
鬼ヶ城山・寺野山・峨蔵山の生育状況を調査し、今後銅の増産があっても炭山願を出さな
いよう念を押している。泉屋も地吉・外之尾・折宇・葛川の四山で=二年ほど炭供給が可
能であると上申していた。しかし風水害の影響もあって、早くも寛政四年(一七九二)に
は土佐領井ノ川山(現、高知県土佐郡大川村)の願請けに向けて動き出したのである。
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