「小箱越」は別子銅山をよく知る人には有名な峠ですが、実際に足を運んだ人はごく少ないと思う なぜなら、「第一次泉屋道」の時、また、それ以前の「天満道」と呼ばれていた時は別子山村から村外にでる公道の役割をした峠ですが、今は廃道となり峠の場所も分からなかった。何年か前に「小箱越」と書いた小さいプレートを立てた。そして2022年に少し大きい看板を立てて来た。なんの展哲もない所なので地図にあっても分からない峠です。寺野からと芋野からと登ってきた道が出会うところが小箱越との設定である。銅山越のようにこの道の一番高い所ではない。登山者でも、寺野から登ると3時間あまりかかるし、ここから次の山を目指す事も難しい。国土地理院の地図にも記載されているのでハネズル山から15分位の距離という事でまれにやってくる人がいるくらいである。小箱越から芋野の道は廃道です。国土地理院の地図には黄色い線の道になっているが、そんなところに道はない。第二次世界大戦の時、陸軍が馬道として付けた道がそのまま記載されているようです。 歴史的に「炭の道」以外に小箱越がどのような役割を果たしているか見てみよう。 この峠は古く、別子山村史には、往古の村の交通のページでは |
やがて鎌倉三代の世も過ぎた頃は、銅山川の川下も津根山からの交通路も出来、やがては土居町浦山へ越える尾箱越えと蛾臓越えの通路も開けたことであろう。 |
と記している。尾箱越は小箱越の事であり蛾蔵越は峨蔵越の事である。別子山村と土居を結ぶ重要な道と言える。そしてこの道を通って元禄3年に泉屋の大番頭、田向重右衛門が銅山の調査のため通っている。 田向重右衛門の書いた「予州別子銅山初発之書」の中に |
翌日天満村?おばこ峠へ登り乙地之近クニ宿致、 |
翌日天満村よりおばこ峠へ登り、乙地(弟地)の近くに宿泊致しました。とある。別子銅山の開坑にもかかわっている峠でもある。その後、元禄15年銅山峰を超えて新居浜浦に出るまで、この小箱越は、別子銅山の銅の道であり生活を支える生命の道でもあった。 その後、往来は無くるのかと思われるが、炭の道としての役割をするのである。 |
軍事道路 肉淵に住んでいた和田●●氏にお話を聞かせて頂いた。 戦争中、太平洋岸に敵が上陸した時、瀬戸内海側から高知に向かう〝馬道〟を作った。土居から高知に向かうには小箱越を通る。何日も手伝いに行った。 筏津から高知に向かって道がある。 |
(苧箱は又小箱とも叔母越とも書す 峨蔵(人名)の叔母の越したる山) 別子郷土誌 |