野地峰は のぢみね、のじみね、のじほう、のぢほうと色々書かれているが、伊予三島市史 中巻には〝のぢみね
〟とフリガナがあるのでこちらを採用しました。
この峠は現在も歩いて登るしか手立てがない。登山地図などを見ると、登山口の白滝(しらたき)の里山村広場の登山口から1時間10分と短時間で登ることが出来るし展望も良い。地図では直登のようですが、登山道も整備されていて、初心者でも登れる峠となっている。
野地峰に到着すると、いきなり、お地蔵さんが目に飛び込んでくる。山岳宗教で社や祠がある所は多いが、お地蔵さんはあまりお目にかからない。銅山峰にも峰地蔵はあるものの、石囲いの中にあり、野地峰のように単体ではない。その上、「首」がないときたら、驚く。
少し調べてみた。
『予土の峠をゆく』63ページ 妻鳥和教著 に次の文章が掲載されている。
明治になって新政府の誰かが、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)といって、外国の仏教を捨てろと言い出した。
仏像受難のときであった。
意気揚揚と帰る生き残りの土佐武士の目にとまったのは、笹ヶ峰の杖立て地蔵であり、
野地峰の地蔵であり、遍路道と重なっている街道の不動明王である。それらの石仏の首
から上がいつの間にか無くなった。
廃仏毀釈運動とは
明治政府は、天皇を中心とする国造りをして近代国家を形成するには、神道を中心とすることによって精神を統一しようとした。江戸時代、仏教が中心で、寺が法外な力を持っていた。他の宗教を排除する目的でもあった。廃仏毀釈運動は明治政府が命令したものでもないのに、神仏分離令をきっかけに全国に広がっていきました。廃仏毀釈運動は一人の首謀者がいて、徹底的に破壊するように先導したのではなく、様々な人がそれぞれの考えをもって運動を仕掛けたのです。
  インターネット検索より 要約
野地峰の首なし地蔵の建立は文化12年(1815)、発起人は仁尾と上(城)師の人たちである。
道中安全の願いが、地蔵尊建立につながったのだろうか。
『予土の峠をゆく』98ページ 妻鳥和教著
別子銅山でも、第三次泉屋道の馬の背にあるお地蔵さんにも、首がない。
この野地峰を越えて炭を運んだのは何時頃の事であろうか?
『住友林業史別巻』に
宝暦12年(1758)土佐朝谷(あさたに)山で製炭等を行う 明和2年(1765)まで  
とあり元禄4年の開坑から67年後には、土佐朝谷山まで炭の確保に奔走したようです。
1758年から1765年までの7年間にもう木を伐りつくしてしまったのだろうか? 2回目の契約は見当たらない。次の炭焼き場に移動のだろう。


『高知年鑑』1954年より
朝谷村の詳しい記録がある。寛保三年(1743)の「土佐国御国七郡郷村帳」に記載されている。
石高=2石000合 戸数=18 人口=109 男=57 女=52 馬=0 牛=1 猟銃=13
現在の大川村全体で146石660合の石高と集計にある。朝谷村の2石は極端に少ない。
宝暦12年(1758)に朝谷村で炭を焼いていたのでほぼ同時期なので参考になると思う。
朝谷村の歴史を紐解くと
大北川銅山   元禄12年(1699)~16年(1703) 
黒瀧銅山    正徳2年(1712)~  ?
朝谷銅山    文化12年(1815)~文政元年(1818)
と銅山が開発されて稼業している。
住友が炭を買った宝暦12年(1758)~明和2年(1765)は銅山の休業中であった事になる。
住友が製炭事業から撤退したあと、もう一度浅谷村とかかわっている。
明治4年(1871)樅之木(もみのき)銅山開坑 
翌年 住友家に資金援助要請、
条件として毎月荒銅約7.5トンを大阪に出荷
明治20年(1887)樅之木に坑業場 開設  
明治29年(1896)樅之木鉱業所を売却 住友撤退
大正5年(1916) 大北川、朝谷、樅之木、大川、白瀧、中蔵、喜多賀和の7鉱山をあわせて経営統合           『白瀧鉱山』と名称変更
『土佐白瀧鉱山史の研究』より抜粋 (新居浜図書館に在庫有り)

  
2023年10月22日 野地峰まで実際に歩いてみた。
標高は登山口約840m、野地峰1279m 標高差439mとなる。参考までに別子銅山 日浦登山口の標高は840mで野地峰登山口と同じ高さだ。野地峰と銅山越の標高も大差ないぐらいよく似ている。
わずか14mだけ銅山越の方が高い