手前の建物は南光院  後ろの新しい建物は円通寺です。
 
   南光院は旧別子のジャンルには入らないと思います。
旧別子と言えば 登山口から上流でしょう。
ですが、旧別子を調べているうちに南光院は
旧別子ととっても深いかかわりを持っています。
   
       
   旧別子には「円通寺」と言うお寺がありましたが
この寺はここ別子山 保土野の円通寺の出張所でした。
詳しくは円通寺の項目をご覧ください。
   
       
    別子銅山が旧別子から撤退した時 円通寺は南光院に移されました。   
   
       
    快盛法印と言う徳望高く信仰心にあつい僧侶のことを聞いた住友は、元禄7年(1694)7月 別子銅山に迎え入れた。鉱山の人々に神仏の道を説き、また医薬を施し、精神教化に努めた快盛法印は宝永3年(1706)9月62歳で世を去った 遺言に依り、遺骸を埋葬したのが除の地で、住友家に於いては快盛生前のその功績をたたえ、祠を建立してその霊を祀りそこに建立されたのが、現在の南光院だと伝えられている境内にある建物は拝殿であり、本殿は50mほど山を登った急斜面にある。
      南光院快盛はもともと京都に於いて北面の武士をつとめていたが、故あってこれを辞して阿波の国海部郡   海布郷に移住した。文武両道に通じ、仏典を修めて仏道を信じ、医薬のことに通じ、そのため庶民の教化   と福祉につとめ村人たちから尊敬をあつめていた。
   
   南光院本殿    
     円通寺西の石段を登りジグザクの道を5分ほど行った所にあります。
文化年間には本殿と鳥居を建立し、明治21年に住友登久(住友家14代当主)が自ら浄財を投じて、立派な神社形式の本殿を建立して奉納しました。
明治32年の大水害は本殿・拝殿とも被害を免れました。
急斜面の杉木立と環境の厳しい中にありますが、歴代の住職が維持管理に勤め建設当時の姿を見ることができます。
       
       
  源平屋島の合戦に敗れた平家の残党が、高知県土佐郡大北川に雲谷山円通寺を建立、慶長年間別子山村保土野(小学校のところ)に移転した。
明治32年の別子大水害の後 従来保土野にあった圓通寺を南光院の境内に移転した。大正5年(1916)に小足谷にあった円通寺出張所を南光院の境内に合同移設しました、円通寺がここに移されて後も、人々は両者を併せて南光院さんと呼んで崇敬し、今も多くの人々は円通寺は南光院と同一だと考えているようである。
平成22年 住友グループと檀家により 新築された。
 
 別子小中学校にある円通寺跡の記念碑→
       
       
   元禄7年住友が要請して銅山に迎え入れ、鉱夫達の精神教化に当たらせた阿波の山伏「快盛法印」が、全山の人々の尊敬を集めたことを称えて神社を建立しました。<br>
 現在の本殿は、明治21年に建立したものです。山で働く人々の新興の中心となり、精神道場としての役割を果たし、年間数万人がここを訪れ、宇摩、新居2郡の平坦部からも大勢の人が参拝しました。南光院の名は広く世に知れ、別子銅山と共に山で生きる人々の大きな誇りでもありました。<br>
 また、境内には慶長年間に土佐から移転してきたと伝えられる真言宗円通寺もあります。<br>
この円通寺は明治32年の大暴風で被害を受けるまでは、住友の要請により、小足谷に出張所を設けていました。
   
       
   
明治31年(1898年) 別子鉱山写真帳より         
   
 1940年代(戦争中か?)の南光院 →
              道路が狭い 
              軍服の人は安藤忠氏
              撮影 inoma
       
 
              
   
 昭和41年(1966年) 左手に余慶坑の建屋がある   
 1966年10月撮影 →
         道路は未舗装で大永山トンネルが
     まだ出来ていなく七番で行き止まりだった
       
   
昭和55年(1980年)4月 南光院
 この吊り橋は 現在鉄製のものにかけ替えられています。             
   
 まだ1車線の道路です。→
       
   
    道路は拡張工事により 2車線になっています。    2012年9月23日、9:28 撮影
   
     
     
   木造阿弥陀如来立像
本像は.大きな?や小粒の螺髪・琉麗な衣文など平安時代後期十一也紀後半から十二世紀の像の特徴を示している。
詳しい明確な伝釆は知られないが、別子山での最古の像と見られ、周辺地域を含めても数少ない古様を示した像として貴重な存在である 住友家が持っていたものである。
   木造大日如来坐像
衣部は漆箔、肉身部は金泥塗りの荘厳華麗な仏像である
本像は面長で高く大きな警、また肩部や膝前にみられる複雑な衣摺の表現、そして腹部にみられる腹帯の存在、やや前かがみの側面観などから本像は、室町時代の制作にかかるものと推察される貴重な仏像である。
         新居浜市教育委員会の案内板より  
   
   
   木造聖観音菩薩像
?本像は面長で高く大きな警、また肩部や膝前にみられる複雑な衣摺の表現、そして腹部にみられる腹帯の存在、やや前かがみの側面観などから本像は、室町時代の制作にかかるものと推察される貴重な仏像である。
    鉱石地蔵
圓通寺の鉱石地蔵(像高93cm)は,銅鉱石て作られているといわれることでよく知られている。
制作は江戸時代前期、元禄時代ころに造られたと伝えられ、以後、多くの人の祈りのため線香の煤て黒くなり、歴史の重さを感しさせ別子銅山の歴史を物語る貴重な像といえる。
              新居浜市教育委員会の案内板より  
       
       
   新居浜市指定天然記念物 大もみじ
樹高 推定18m 樹齢 推定300年以上
   新居浜市指定天然記念物 さるすべり
樹高 推定13m 樹齢 推定300年以上
       
       
   「穴淵」に住む大蛇は、夏の夕暮れ時、雨で水かさが増すと、えさを求めて出てくると言われて、村人たちに恐れられていました。
快盛が目をこらすと、大蛇が胴体をくねらせながら村の方へ向かって行くではありませんか。ふところの短刀を抜いて、大きな杉の木の影で大蛇を待ちかまえ、ヤァと一声、全身の力を込めて切りかかりました。
大蛇の首は一瞬にして胴体を離れて真っ二つ。空高く舞い上がりました。
この頭が落ちたのが「頭の石」といって、銅山川の上流あたり。今でも別子ダムのほとりに灯籠が残っています。そして尾は下流に落ち、そこには白尾神社が建てられて尾が祀られています。
いつの頃からか、歯が痛くなった時は、この神社に祀られているはしで歯をなでると歯の痛みがうそのように消えてしまうと言い伝えられるようになました。 (「別子むかしばなし」より抜粋)
   
       
       
    白尾神社
(祠は南光院の境内から少し離れた山中にあります。)
    別子ダム湖畔にある水神さん
       
       
   書名    著者    発行
   文献で偲ぶ南光院    芥川三平    平成12年1月
   山伏南光坊快盛    伊藤玉男    益友32より連載
   別子昔話し    別子山村教育委員会    平成3年
  快盛入山     芥川三平    益友
 
2022/06/19