南光院 | 日浦 | 登山口 | ||||||
円通寺 | 醸造所 | 接待館 | ||||||
小足谷部落 | 朝日谷集落 | 収銅所 | ||||||
小足谷疎水道 | 山神社・わだち | 小学校 | ||||||
劇場 | ||||||||
高橋 | .ダイヤモンド水 | トラス橋 | ||||||
パイプ橋 | 代々坑第一通洞南口 | 東延 | ||||||
東延斜抗 | そうめんの滝 | |||||||
裏門 | 大山積神社 | 見花谷・両見谷 | ||||||
蘭塔場 | 目出度町 | |||||||
重任局 | 歓喜・歓東坑 | 延喜の端 | ||||||
牛車道 | ||||||||
大和間符 | 露頭 | 峰地蔵 | ||||||
銅山峰 | ||||||||
角石原 上部鉄道のページに書いています |
旧別子銅山 今から300年ほど前の別子山の西のはずれで鉱脈が発見されました。 露頭といって 山肌に赤華燭の大きな石が突き出ていました。 山の反対側の立川鉱山では もう50年も前から採掘が始まっていました。 なぜ50年も発見されなかったのでしょう? じつは 1687年に宇摩郡三嶋村・祇太夫が別子銅山を試掘しているのですね 立川鉱山は西条藩の領土だったのですが、山を越えた向こう側の別子山は「天領」と言って徳川幕府直轄の領土だったのです。ですから許可なくして発掘すると「首が飛ぶ」ぐらいのお咎めがあったようです。 「別子開坑二百五十年史話」(1941年出版)では、「立川鉱山に勤めていた長兵衛と言う坑夫が「泉屋」の経営する備中の吉岡銅山で露頭のことを話し「泉屋」(住友)が幕府から許可を得て採鉱し始めた」とありますが、2013年発行の「住友の歴史_上巻」では実在の人物かどうかわからないとし、 別子銅山の発見と開坑には、こういうさまざまな伝承や事情があったにせよ、住友が幕府の許可をえて試掘したのは事実であり、試掘した最初の坑口が「歓喜間歩」であったことは動かすことができない。確かに住友が事実上の発見者ではあるが、それ以外の歴史は切り捨てて住友だけの発見物語にしてしまったのである。このようなことは歴史上よくあることで、発見の経緯は英雄伝説化したり、発見者の神格化がおこなわれたりしがちだ。 信慧性の高い史料が出現しない限り、発見者について議論すること自体あまり意味がない。 むしろ、住友の先人や別子で働く人びとが別子銅山を心の紐帯とするべく、一体となってその発見謂を何代も長い年月をかけてはぐくみ伝承してきた思いに、われわれは耳を傾けるべきではないだろうか。 と記されている。 「泉屋」(住友)の別子銅山は幾多の困難も乗り越えながら昭和48年(1973)の閉山まで280年も単独企業が経営しました。このような鉱山は他になく、今日の住友グループの基盤となりました。 現在では旧別子銅山の施設はほとんど残っていませんが、その史跡を歩けば高く積まれた石垣や煉瓦塀、喜びあふれた坑口、煉瓦の煙突、など歴史と浪漫が満ち溢れています 旧別子銅山を何度となく歩き調査をし 文献・資料を調べたことをお知らせします。 |