小学校・測候所                           
登山口からの所要時間 30分  接待館から5分 
 
       小学校と測候所跡

政府は明治5年に学制発布、これによって子女の初等教育が義務付けられるようになった。これを受けて別子銅山では明治8年(1875)に勘場の下方、通称目出度町に私立の足谷小学校を創設した。その後も学校教育は次第に一般化し、明治19年5月には人口の急増もあって小足谷に尋常小学校を開校、さらに明治22年9月には、ここに私立小足谷尋常小学校を建設、続いて高等小学校も併設した。更に明治27年(1894)に私立別子尋常高等小学校となった。最盛期の明治32年3月には生徒数は男女合計298名、教員7名であった。
学校跡の隣で高い石垣のある所は私立別子測候所で煙害対策の一環として明治31年に設立された。
   ※勘場:別子銅山の統括事務所
       
  上記文章に「 明治8年(1875)に勘場の下方、通称目出度町に私立の足谷小学校を創設した」とあるが、 
  明治6年設立としてある本の方が多い 「住友別子鉱山史」「別子山村史」「歓喜の鉱山」「旧別子銅山案内」「別子銅山」などである。
  住友別子鉱山史上巻 336ページの文章
  学校・病院の設置明治六年(一八七三)八月には、住友私立の足谷小学校が別子山中の勘場付近(目出度町)、別子山村五五五番地三六番屋敷に開校された。
学制発布が前年八月なので、わが国の小学校としては早い時期のものであり、明治八年当時の生徒数は男子三二人・女子五人の合計三七人であった。その後、明治十七年にその建物は別子山村へ寄付され、村立足谷小学校になった。
十九年五月には人口増加に伴い別子山村小足谷に私立小足谷小学校を創設した。二十一年一月、私立小足谷尋常小学校の設立願を愛媛県に提出、四月五日に許可された。当時の生徒数は男子二八人・女子二二人の合計五〇人であった。翌二十二年九月には、小足谷尋常小学校が新築され、同所に高等小学校も併設されたが、二十七年九月には合併して私立別子尋常高等小学校となった。翌二十八年七月には、新居浜に同校の惣開分教室、三十年九月には村立足谷小学校の廃止に伴い目出度町に足谷分教室が設置された。その後、新居浜の発展に伴い三十三年一月惣開分教室は私立惣開尋常高等小学校となった。
   
   
  明治23年 私立住友別子尋常高等小学校    明治31年 私立住友別子尋常高等小学校
  明治22年9月新築された私立小足谷尋常・高等小学校である。玄関先に国旗と住友井桁の提灯があり、校舎の軒下や旗ざおから延ばした紐には祝い提灯が吊るされている。校舎手前には人物が写っているが、そのなかに晴れ着姿の少女二人が写っている。なお、右端の石段上が劇場であり、その下の道は緑門に続いていた   建物は支柱で支えられ、屋根は穴が空いたり補修の後がみられるなど、その後の損傷が甚だしい。別子鉱山の気象条件の厳しさを写し出している。
   写真は 旧別子の面影より  文章は住友史料館報より  
       
   明治32年8月 別子銅山大水害ににより 児童33名が亡くなっています。    
       
  小足谷小学校 廃校 
  繁栄を続けていた小足谷を含む別子山も発掘現場が地中深くなるにつれ 施設もだんだんと下に降りている。
大正3年小学校より出火して付近の建物30余戸を焼いた。この時の人口は2691人です。
大正5年に採鉱本部を東延から東平に移転 大正5年の人口は813人 急激に減っています。とうとう 大正5年3月、別子引揚げにより廃校となった。廃校当日の児童は45名であった。
「別子山村史」には全員の氏名が掲載されいます。
   
  大正8年の旧別子の人口 
 
部落 世帯  男  女 合計
物住 2 4 3 7
七番 34 47 50 97
小足谷 15 18 20 38
合計   142
  物住の家は何処にあったかは分かりません。
七番は今の「住友林業のフォレスターハウス」周辺と思います。林業の山林関係者でしょう。
小足谷は住友鉱山の残務者(排水処理等や山林関係者)と思われます。
学校に通う子供はいなかったと思われます。
最盛期(明治38年)に11186人(内旧別子以外は約900人)1万人余りが居なくなったことになります。
   
       
   1966年(昭和41年)の小学校跡です。
坑水路がほぼ原形のまま残って居ます。
   1980年(昭和55年)左の写真と同じところです。
水路は朽ちていました。
   石垣の上の学校跡は藪になっています。今は住友グループの社員研修などがあり、整備されていますが この当時は何も整備されていませんでした。おかげで、坑水路などの遺産も撤去されずそのまま残っていました。  一番上の写真と同じところです。見違えるようでしょう。
       
  小学校跡敷地平面図私が図ったのでこの位あった の 参考にしてください    
       
   
       
       
  測候所    
     
  下記に「ずいぶん立派な石垣である」と書いているように、城壁の石垣のように「武者返し」がついています。忍者返しとも呼ばれているようですが、侵入を防ぐ目的より、石垣の強度をあげる工法として用いられたと思う。
       
  測候所に関しての記述がほとんどない。下記は山村文化26巻40ページに伊藤玉男氏が記している    
  測候所
ずいぶん立派な石垣である。幅広い階段が左右に付いたりしているから、役所でもあったのかと思われるであろうが、実は別子銅山私設の測候所の跡なのである
。明治時代も中期になると、全国の銅山では設備や技術の近代化に伴って産銅量が増え、その分、排煙や鉱水による公害問題が騒がしくなり、その対策の一環として自前で気象観測を始めたようだ。観測開始の月日ははっきりしないが、どうも明治32年早々かと思われる、しかし、皮肉なことにその年の8月28日、開坑以来最大の暴風雨に見舞われ、甚大な被害をこうむって測候所自身も機能しなくなった。
風力計は強風で故障したが、気圧計は891mb、雨量計は315㎜を記録したという。その台風でこの前を流れる足谷川がすっかり土砂で埋まり、広々とした川原になってしまった、その直後、各宗派の僧侶100余名を招いて一大法要を行なっているが、その場所はこの下の川原だった、
その後、測候所はどのように機能したのか分からないが、別子郷土誌に1908(明治41)年までの気象観測データを載せているから、あるいは小学校に委託するなどして観測を続けていたものと思われる。因に、明治32年以降小学校ではここを理科教室として使っていた。
   
       
   
   左右についている石段。狭い旧別子の中でこのような石段の造り方は他にないと思います。
       
   
   測候所跡を見上げ人たち    測候跡から見下ろした風景。登山者が通り過ぎて行く
       
   
   谷を渡る橋。谷底には石を敷いている。谷底がえぐられるのを防ぐ為だろうか    谷の側にある敷地に瓶つぼ。貯水用?
       
    旧別子は平地がほとんどない為、石垣を築いたり張り番と呼ばれる(下記写真参考)木の柱をたてその上に通路や家を建設する方法を用いる。木で作られいるので腐り姿を消しているが、測候所の石垣には、その一部が残っている。下には木柱の受けとなる石も飛び出している。石垣を積むとき最初から飛び出した石を設置したようにも思える。張り番は 他に2か所確認しているが、危険がなく見ることのできるのは この場所です。
       
 

2022/06/21