第一通洞南口    登山口からの所要時間  1時間  
   
  パイプ橋から急坂を登りきると案内板があります。写真の赤丸が現在地です。事務所など,たくさんの家が並んでいます。右は東延の写真です。
       
       
     上の2枚の看板の写真は絵葉書からです。この時代になると、住友鉱山だけではなく、写真屋さんが旧別子に入り、写真を撮って絵葉書にして販売しています。この2枚は販売店名は出ていませんが、他の絵葉書には「新居浜惣開町 青野雑貨店」「惣開梅香堂」「スター写真館」「大正堂書店」などの文字が見えます。

別子銅山だけでなく 他の鉱山の絵葉書がオークションやフリマに出品さてれいます。
  右に行くと東延です。登山の人は足が向かないようですが、行ってみる価値はあると思います。  200歩足らずです。
       
      第一通洞南口(標高1100m)

この附近「一帯は通称ミナミグチと言う。別子銅山の近代化はこの附近から始った。明治9年(1876)東延斜坑の開削が始り明治19年には嶺北角石原からの通洞が代々抗に貫通し、ここに銅山峰の北と南を結ぶ1,020mにおよぶ水平坑道が初めて出現した。
以後、大正5年(1916)に銅山の本部が東平へ移るまでの30年間、第一通洞南口が銅山の心臓部としての役割を果たした。
また、明治26年には第一通洞北口まで鉄道が敷かれたので、運輸面の要ともなり、はじめて運輸課の誕生をみた。以来次々と採鉱課、会計課、調度課が軒を連ねるようになり、近代化の拠点東延時代の一翼を担っていた。往時はこの谷にトラス橋が架かり高橋製錬所まで水平軌道が延び、鉱石と製錬された粗銅を運んでいた。
  東延から東延谷を下った下手にある代々坑の写真である。江戸時代以来の鋪着を着た人物が大勢写っており、鉱石を満載したトロッコも見える。この代々坑から、翌十五年角石原に向けて第一通洞が開さくされた。 
 住友史料館報28号71ページより
   
   
第一通洞の南口である。トンネルの出口にはトロッコに乗った洋装の職員が写っており、右手上方には東延
斜坑の機械場へ続く人工の坂道と、機械場の築堤が見える。明治14年の写真(A15)と比ぺると、建物の老朽化がめだっている。
 住友史料館報29号43ページより
  --- 上記看板の写真が(A15)である---

拡大出来ます

第一通洞の入口付近に大きな「旧別子俯瞰図」が設置されています
これは「絵図」です。したがって距離や配置が地図のように正確ではありません。
       
   「東延を訪れる一番の季節は?」
左のこの写真は5月5日の撮影です。新芽が少し伸びた頃が私は好きです。5月下旬になると草が伸び始め、無精ひげをはやしたような坑口になります。
  
春の訪れは遅い 2012‎年‎4‎月‎1‎日、の撮影です。
新居浜では山根公園の桜が満開の季節です。

     2021/03/25 工事中でした。通常は扉がしまっていて中に工事用の道具がおいてあるだけですが、奥の扉が開いていて東延の排水の工事をしていました。入らせては頂けませんでしたが、東延斜坑までは行けるそうです。
工事内容は、「東延谷の水(鉱水)を東延縦坑を通して第四通洞から出すため」だそうです。以前は坑口からパイプを入れていたのですが見栄えが悪いので通洞上部から差し込んで入るとの事
  『銅の里』19ページより
       
  第一通洞の歴史は別子銅山にしては比較的新しい部類に入ります。

「明治15年(1882)2月、別子側南口となる代々坑の坑口と立川側北口の角石原を結ぶ第一通洞の開さくに着手しました。同年、この第一通洞の開さくから日本の諸鉱山にさきがけてダイナマイトの本格使用を開始したため、開さく工事は順調に進捗し、当初計画より3年も早い明治19年(1886)2月9日に全延長約1,021㍍が貫通し、総工費も8,613円余で済みました。」
 歓喜の鉱山28ページ

代々坑(約339㍍開さく済)を活用し角石原へと残りの671mを開さくし第一通洞としました。
  代々水抜代々水抜は江戸時代に別子銅山から銅山川への排水路として掘られ、実際に使用された唯一の大水抜である。
代々水抜の水路の平面図の形は北斗七星を裏返したようで、ひしゃくの柄が左(北西)に伸びてその先端が歓東間歩内にあり、ひしゃくの桶の部分が南西の東延谷に当たり、コの字形に東延谷をめぐって、出口が代々間歩である。コの字形の右下の端が歓治間歩の底である。先に引用した元文4年(1739)6月の歓東間歩鋪内および代々水抜の実測図の書入れによると、歓東間歩四つ留から代々水抜までの各間符との明り(地表面)の距離と高低差は表2-4のとおりである。
代々水抜の掘さくを開始したのは享保3年(1718)6月からである。同年12月の代官への上申によると、本鋪で360間(648m)ほど掘り下がり、涌水が増したので、その年6月から5~6か年の予定で山師の入用をもって、横合から土底へ抜け合うように水抜きを切りかけたとある。同10年には、今までに130間切り渡り、銀切かせ(トンネルの断面)四尺四方(1.5㎡)で、一間の切賃銀250~260目であるという。    住友別子鉱山史上巻102ページ
   
  表2-4で 歓東間符から代々水抜までは、明かりの距離475間(864.5m) 高低差33.255丈(約100m)とありました 
   
  上の地図には歓東間符までの坑道は描かれていません。本鋪と書いてあるところが歓東間符です。  
   
    なぜ代々抗を掘ったのか?
天明5年(1758)の大涌水より前は、別子銅山にはあまり大きな涌水はなかった。享保3年(1718)に代々水抜の掘さくに着手するきっかけになった涌水と、元文3年(1738)、宝暦2年(1752)の涌水とがやや大きい方であった。
表2-5に水引の人数と樋数とを表示したが、享保8年5月の宇兵衛の留書によると、樋数合計=9挺、水引46人とある。延享3年(1746)の「覚」では「水引樋数141丁余、表向190余丁の申立、もっとも人数195人の申立」とある。水引も掘子と同様、公式の数字は実際より過大であった。
住友別子鉱山史上巻108ページ
       
  代々抗は排水抗から出鉱抗になった
従来は疏水の役目が主であった代々坑から東延の下部に当る新鋪の鉱石を出すようになり、従って坑口の前で手選々鉱し高橋焼鉱窯へ搬送するようになった。
その際、選鉱所で小割りされて焼窯には向かない細粒や粉状鉱は、そこから100mと離れていない高橋に運ばれ、更に細かくされて湿式製錬に供されたと考えるのが順当であろう。その時期は明らかに出来ないが、急テンポで近代化が進んでいたし、湿式収銅の生産高も急上昇中だった。
   (山村文化22号33ページ)  
 
         
    高橋製錬所の立地は代々抗のおかげ
ラロックは製錬所の立地として何故高橋に目を着けたのであろうか。
それは今後、歓喜・歓東や大切・天満の諸坑に代って東延斜坑と連継して代々坑が鉱石の主たる搬出坑になるのだから、代々坑(水抜坑)と同じ地並か、それより低いレベルで製錬しなければならないとなると、それには手近な高橋にその設備を築造するのが作業の手順として適していると考えたからであろう。
   (山村文化15号33ページ) 
       
  現在の代々抗の坑口の石積みはいつ頃出来たのか?
別子銅山の坑口は、昔はみんなヒノキの丸太を組んで坑口を保持していたが、この坑口は石をアーチ型に積み重ねて造っている。そもそもこの坑口の初めの頃は代々水抜間符(坑)と呼んでいて坑内水を吐き出すために貫いた坑道だった。明治7年(1874)にルイ・ラロックというフランスの鉱山技師を招聘して鉱山近代化の目論見を立てさせたが、このアーチはおそらくラロックの設計に拠ったものと思われる。  (山村文化22号32ページ)
 
       
 
鉱山史別巻028ページ_第一通洞南口明治15年ごろ
  牛か馬か、馬にしよう-第一隧道物語-
なぜ 牛ではなく馬だったのだろうか
その1
鉱山発達史と言う本がある。著者は農商務省鉱山局。 出版は有隣堂。発売は明治33年4月16日
その173ページに次の文章が記されている
「通路及び市場までの運搬。市場までの運搬には必ず新居浜を通過するものとし鉱山より先ず角石原までは12町あまりの間の隧道を複線鉄軌を施設し馬車にて運搬をする。」

隧道とは第一通洞のことである。12町あまりとは1,021m。「複線鉄軌」=複線だった。馬車にて=牛車ではなかったのだ

「馬車」に関しては、郷土史談130号の7ページから「雑録」(芥川三平著)に馬だったとあります。
「第一通道内の運搬は明治26年の上部鉄道開設以来馬車になった」と書かれています。
これは近藤廣仲氏の記憶を元に検証されています。近藤廣仲氏が小学5年生の時に角石原で見たのが第一通洞を馬で搬送していた光景だった。
これは明治何年ぐらいか? 年代は書かれていません。 三平氏が廣仲氏と対話したのが廣仲氏が数え年90歳。郷土史談130号が出版されたのが1986年5月。小学5年生は数えで13歳。これらの事から(明治42年)ごろの出来事と思われます。第一通洞にレールを敷き馬車で引っ張っていた事になります。
「エッ!! この第一通洞を複線にして馬で引っ張って通行出来るのだろうか?」 そう思いませんか?  
   
 
トロッコ(人が押している)   鉱山史別巻028ページ_筏津抗明治15年ごろ
 
       
  その2
馬は非常に賢く、またその歩く速度や重量のある物を引かせた時の牽引力、人間に対する従順性な点など多くの優れた面をもつ、畜力の代表といえる。そのため馬力は、古くから牽引力として重宝がられてきたもので、有名なのが明鴻時代の初期に登場した、都電の前身である東京馬車鉄道などである。
馬と並んで牽引力として使われてきたのは牛。牛は、馬に比べてカは大きいが、速度や従順性などは馬のようにはいかず、営業用鉄道などには不向きであったとされている。
たしかに馬は賢いもので、ある馬車鉄道を経営していた人の話によれば、毎朝ご霊人の機嫌をうかがったり、その賢さゆえに臆病ものであったとのことである。たとえば森林軌道で馬を使う場合に、線路の横が断雄絶壁などの場所では、運転する人間が気を付けていないと、馬が気付いた瞬聞から恐怖で動けなくなるということもしましばあったという。そういうことを避けるため、多少、従順性に欠けていても、牛を使用していた 森林軌道はけっこう多かった 
   
  馬は薄暗いトンネルの中でも目が見えるのだろうか?
第一通洞内部の照明は石油ランプの公算が大きい
調べてみると 問題はなかったようだ 馬は夜行性の動物とは言えないが夜目はよく利く。
馬産地・日高では夜間も放牧されている とあります 
   
       
  別子山に牛や馬はいつ頃からいたの
急峻な山に囲まれた別子山ですが江戸時代の記録があります。別子銅山と鉱業集落に関する総合研究6ぺージによりますと天保2年(1832)に牛11疋 馬5疋となっています。「銅山での運搬に使われて居たのだろう」と記していますが、統計表で戸数が100人数が509人になっていますので、別子山村の数字と思います。では、どのルートで牛や馬を連れてきたのだろう? 牛車道は明治に入って出来ています。第一泉屋道を取材する時、芋野中宿の近くに住んでいる和田保市さん(右写真、故人)にお話聞かせて頂きました。爺さんから聞いた話という事で「土居で子牛を買って第一次泉屋道で連れて帰った。2、3年して大きくなったら売ってまた子牛を買った。」
 
       
  昔の鉱夫の作業衣

鋪着といって、白木綿に黒の襟と袖口をつけた山襦袢を着て、お尻にはわらで編んだ尻当てを下げ、足の土ふまず辺りで短く切った足中(あんなか)をはいて、螺灯をかかげ舗(坑道)の闇を照らしながら入坑した。山襦袢は、襟と袖の黒布をとり外すとそのまま死装束の経帷子になるので、坑内は汚れ易いにもかかわらず白木綿を用いたという話は当時坑内における災害がいかに多かったかということを物語るものであろう。明治3年10月、時代に先駆する別子銅山の姿を新政府の鉱山局の役人に見て貰おうと、全山こぞって着衣を洋服(マンテル)に更めたが、ラシヤ地は高いのでめくら縞の木綿で作ったというエピソードもある。

旧別子銅山案内38
       
  第一通洞 今昔    
       
   
  現在の坑口 高さ201cm 幅206cm   明治23年の坑口
  昔の坑口のほうが高さが高いようです  
       
   
  上部は明治23年のまま残っています。  
       
   
    上 坑口の石に番号をつけてみました。⑦⑧の石が地下になっています。この分だけ高さが低くなっています。

上左 明治32年に大水害があり、坑口に土砂が流入したようです。 写真に写っている男の人から見ると現在の高さのようですが 大水害から2mの高さとは考えにくい。 

左 第一通洞北口 2.39mあり こちらは当時のままの高さだと思われます。

北口の内部は崩壊しています。この通洞は もう通れません。
       
       
   
  昭和32年頃の第一通洞南口 山村文化34号   昭和40年 曽我孝広撮影
   上部竪坑が完成し活気を取り戻した。中央が愛媛大学横山助教授
昭和39年になると南口から東延地区一帯に捨てられていた「ズリ」の中に混る鉱石を採り出す、いわゆる「拾い鉑」なる事業とはじめ、東平地区に在住する婦人達が、この作業に従事した。おそらく採算のとれる事業ではなかったであろうが、そこまでやってもらえば鉱山としては本望だったのであろう。
 山村文化34号8ページ
   
  第一通洞南口付近の遺蹟     
       
  木方の遺蹟を過ぎて寛政谷を渡ると、そこには代々坑 即ち第一通洞の南口が見える。昔この坑道の近くに勘場
(金場とも呼ぷ)があって、代々坑かち鉱夫たちが採掘して来た鉱石を上鉱、中鉱、下鉱に区別して代金を支払
っていたもので、勘定場と云ったものであった。
この坑道の上の建物は即ち勘場であった。家の前の道を右に登った所の石垣の上は東延で、その上部に見える家屋は東延の社宅である。
この通洞は明治19年2月9日、嶺北の角石原(第一通洞北ロ)まで870mの隧道で、完成後 人道及び牛車道に使用されたが、明治26年 上部鉄道が設けられてからは鉄道が敷設され、18年間に亘り運行(通洞内は列車運行なし)、明治44年鉄 道廃止後 鉱山関係者の通行に利用されていたが、別子閉山により通行が禁止された。
第一通洞の完成により、このあたりには、開坑課(採鉱課)、銀行等も設けられて栄えていたが、明治40年の別子焼討事件の際に破壊されて現在煉瓦作りの台座のみが、崩れかかったまま残されている..
この第一通洞の上部には採鉱課と測量事務所が設置されていた。
この採鉱課は小足谷から通洞開通と同時にここに移した。
堅固な東延の石垣のあたりと、下部平地のあたり第一通洞付近も全施設が撤去され、徒らに草木が茂り人影もなくその当時を知る人々の目にはどのように写ることであろう。
また第一通洞(南口)から寛政谷に沿って上に登って行くと、天満坑、大切坑などの遺蹟があり、右の山には竜王さまを祀っていた所も残っている。
   
       
  開坑課金庫跡    
     
  泉屋銀行の設立が明治28年9月です
住友銀行の新居浜への進出は、尾道会謡で要検討事項とされていたものであり、明治29年1月に住友別子銅山および同新居浜分店に当行出張員を派遣して出納事務を取り扱ったのが同地進出のはじめである。翌明治30年2月には新居渓出張店を設けて銭行業務全般をおこなうようになり、明治34年9月に支店となった。同店は開業以後別子に また明治38年4月以後は四阪島にも、それぞれ職員を派出して預金事務などを取り扱った。(両地出張員は大正元年11月廃止)。
住友銀行80年史

第一回重役会護で議論になった別子には、明治29年1月から別子鉱山および新居浜分店に銀行の出張員を派遣し、住友鉱業部資金のいっさいを取り扱うことになった。翌年2月、それを発展して鉱業所に銀行の新居浜出張店をもうけ、銀行業務全般の営業を閉始した、のちに営業の拠点を新居浜にうつし、34年9月、支店に昇格させた別子への職員派遣は銀行出張店の開店後もつづけた、
住友銀行百年史 54Pより
   
       
       

道路の左側にある煉瓦造りの遺構です。気が付かなく通り過ぎてしまいます

銀行等も設けられて栄えていたが、明治40年の別子焼討事件の際に破壊されて現在煉瓦作りの台座のみが崩れかかったまま残されている 別子銅山(合田正良著)の198ページ
       
       
   第一通洞前の水路        
   第一通洞に向かう道の脇に水路が造られている(写真1)。見た感じも新しく、今も使っているものです。昭和30年代に二次採鉱と言って、明治時代に捨てた鉱石が技術開発によって、製錬ができるようになり、東延でもう一度掘り返しました。
その時、いらなかった鉱石を東延谷に捨てました。(写真2)  東延谷に水が流れると鉱毒水になるので東延谷の水をせき止めて水路に流した(写真3)   水路から滝になっておちたのだが鉄分を含んだ水は滝を赤く染めた(写真4)
           
     写真1       写真2    
           
         
    写真3      写真4    
         
 
  写真5


これでは、見栄えが悪いので、素麵の滝のきれいな水をパイプで引いて、すいろにながした。(写真5) 第一通洞の前に噴出している水が 素麵の滝の水である。飲んでも差し支えはない。素麵の滝の水が枯れると、この水も止まる。年々もかかったが、今では赤かった滝が自然な滝に蘇っている(写真6)  
   (写真6)    
           
 
2024/01/18