昭和28年8月23日 和田義邑氏撮影 「銅山峰」の木柱が建っている。格好の被写体と思うが、写真に撮られていない貴重な写真だ。まだ新しいようだ。いつ建てて、何時まであったか、わからない。 銅山峰が禿山だった頃の撮影です。 本当に今から考えると信じられないような風景です。逆に昔の人が今の銅山峰を見たら驚くであろう。 足元を見てみよう。全く植物が生えていないわけではない。つがざくらのようでもあるが、雑草とも見える。 |
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「南は馬群別子山村 北は新居郡角野街」 「この東の方に元禄年間よりの 地蔵様があります」 と書かれてある。 後ろに鉄塔の頭の部分が見える。 |
「銅山峰」。 地図の何処を探しても「銅山峰」はありません 銅山峰はこの辺り一帯を指し、山頂を一点を指す事とは違うと聞いた。この看板は記念撮影するには格好の場所です。 |
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銅山峰のツガザクラとアカモノ01石川早雄 | |||
なぜ四国では銅山越にのみ生息するのか? 一説では、別子の山が公害で禿山になったとき植林でカラマツを山梨県や長野県あたりから苗木や種子を取りよせたのであろう。 ところがこの中にツガザクラの種子が混っていて、たまたまこれが銅山峰で繁殖したというのであるだが 植林をする前に「ガンコウラン」と言うなでツガザクラが確認されている。「有史以前からここに生育していたに違いない」と伊藤玉夫氏のあかがねの峰新版に記載されている |
2019年7月 新居浜市教育委員会 ツガザクラ自然保護協議会 協力:新居浜南ロータリークラブ |
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国指定天然記念物 銅山峰のツガザクラ群落 ツガザクラ(ツツジ科ツガザクラ属)は、氷期に日本列島に到来した北極圏の植物群起源の植物で、日本の固有種です。淡紅色で直径5ミリ程度の釣り鐘型の花を咲かせます。主に東日本や中部地方の標高2,500メートル級の高山帯に見られますが、西日本では鳥取県の伯書大山や奈良県の大峰山系八経ヶ岳にも隔離分布しています。 銅山峰のツガザクラは、分布の南限帯に所在し、5月中旬から下旬頃に開花します。近年の研究で他地域のツガザクラ集団とは遺伝的に異なる特徴を持っていることが確認されており、植物地理学的、生態学的、遺伝学的に価値が高いことから、2019年2月26日に国の天然記念物に指定されました。 |
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ツガザクラの保存 1990年頃、山をこよなく愛する者の集まり"憧山会-どうざんかい" (伊藤玉男会長)では、ツガザクラが心ない者の盗掘や貴重な植物 であることを知らない登山者の踏みつけによる枯死で、個体数が減少している状況を憂い、踏みつけを防止するため、登山道とツガザクラ 群生地を明確に区別する柵と啓発立札の設置を計画した。しかし、この計画に必要な費用を調達のため愛媛県に陳情したりしていたが、4 ~5年が経過しても願いが叶わずにいた。 一方、1996年に創立30周年を迎える新居浜南ロータリークラブは、1995年に30周年記念特別委員会を組織し、記念行事の準 備に着手した。そのなかで、記念事業予算として300万円が組まれ、2~3の記念事業を実施することが決まり、その1つには環境に配 慮した事業をということになった。 以前(この時から2~3年前)、新居浜南ロータリークラブの会員が、伊藤憧山会会長からツガザクラ保護柵の計画と資金調達難の話を聞 いていたので提案した。特別委員会、理事会等で協議の末、この計画に必要な資金180万円を寄贈することにした。 しかし、当クラブとしては任意の団体である憧山会を寄贈先にすることはできず、また、愛媛県もこの地域を愛媛県自然環境保全地域に 指定しているので、任意団体の憧山会がこの計画を実行することに難色を示した。そこで、県の指導もあり、新居浜市・別子山村・住友金 属鉱山㈱・住友林業㈱・住友共同電力㈱の5者による、ツガザクラ自然保護協議会(会長:伊藤新居浜市長・事務局:新居浜市環境交通課 )を発足させた。 1996年11月9日、新居浜南ロータリークラブ創立30周年記念式典は盛大に挙行され、その席上、ツガザクラ自然保護協議会に、四国赤石山系高山植物ツガザクラ保護基金の目録が手渡された。 ツガザクラ自然保護協議会はこの事業を憧山会に委託し準備に取りかかった。いよいよ、翌1997年5月11日には、憧山会会員・新居浜南ロータリークラブ会員をはじめ、50人余りのボランティアが銅山峰に集結し、保護柵張り作業が行われた。 ロープの総延長3,000 メートル、杭の数700本、注意をうながす看板2基がその内容である。 かくして、憧山会と新居浜南ロータリークラブの願いが叶った 新居浜ロータリークラブのホームページより |
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上記の新居浜南ロータリークラブのホームぺージですが、現在は全く別のホームページになっており残念ながら この記事を閲覧することが出来ません。 | ||
2019年5月5日撮影 ロープが張られ緑が回復 | 2018年10月8日撮影 観測調査? | |
2020年05月23日 高知新聞_つがざくら 高知県に2ヶ所咲いている1カ所。 | |||
ツガザクラは常緑低木で、通常は2000mを越える雪原地帯に生息。アジア大陸のウラル地方原産で中部地方以北の本州、北海道の高山帯に生え、アラスカに分布する
2013年8月2日、14:15 奥穂高岳から涸沢に向かうザイテングラードと言う岩場の標高2600m付近で撮影 銅山峰のツガザクラと種類が違う |
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2010年6月6日 | 2022年5月19日 | |
上の2枚の写真を比べると松の木等が進出して来ている事が分かる。ツガザクラの育ちやすい地域は、ほかの一般植物も育ちやすいので、これらの植物類の葉が茂って日光をさえぎるようになると、ツガザクラの成長が悪くなり、やがて消滅することになります。いま、銅山峰でこの様にしてツガザクラの領域が減少している。 | ||
つがざくらのカセット | ||
「つがざくら」の歌があるので紹介します。 新居浜史談212号(1993年3月)の中で作家の芥川三平氏が記しています。 天才少女歌手近藤奈々と紹介していますが 今は 水樹奈々として活躍されています |
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アカモノ | ||
ツガザクラの方が有名で またよく似ていて間違われることが多い。見分けるのは葉が分かりやすく アカモノは葉が丸い ツガザクラは針のようです。開花はツガザクラの方が1週間ほど早く 両方並んで咲いている。両方とも咲き残りが夏の終わりまで見られる | ||
アカモノ(赤物)はツツジ科シラタマノキ属の常緑小低木。別名はイワハゼ(岩黄櫨)。 北海道、本州(主に近畿以北の日本海側)、四国の低山帯~亜高山帯の日当たりのよい場所に生える。 ツガザクラより一週間遅れの、5月下旬に開花し、夏を過ぎても見れる場合がある。 円通寺付近から生息し銅山峰付近に群生する。 参考図書に「銅山峰のツガザクラとアカモノ」石川早雄著 |
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赤い実を付けることから、この辺りでは「銅山いちご」の名でも知られる。実を手作りジャムやアイスクリーム、ジュースにして食することが出来る | ||
禿山の植林 大水害を契機にして、住友の手による大規模な植林事業が行われた。そして、自然破壊の進んだ山肌へ何度もマツ・スギ・ヒノキ等を植林したが、荒れ果てた自然には、これらの樹木の苗を育てる地力が失われていたので、"血みどろ。の努力も空しい徒労のようであったが、緑を再生さす努力はなおも続けられた。やっと、中部地方の山地に自生している'カラマツ。の植林に成功した。 本格的なカラマツ植林は、大正の初期ごろから続けら、れた。現在、銅山峰やその周辺に見られるカラマツ林は、そのころ植えられたのだろう。1678年(元禄11年)当時としては、世界最高の1,351tの銅を産出した大銅山も1973年(昭和48年)ついに閉山。そして、280年間燃え続けた別子銅山は、静かに夕霧の中に消え果てたのである。「銅山峰の植物相と植生」石川早雄著 |
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大造林計画とは | ||
伊庭貞剛翁と「大造林計画」と言うのが我々が教えられてきたことで年間100万本の植林をして「別子の山を旧の青青としたやまに戻したい」というのが
知られていること。 特に「大造林計画」というものは具体的に存在せず。 明治31年の考課状に籠手田主任の指導のもとで作成されたと思われる山林課の方針が 明治31年別子鉱山考課状に載っておりこれが実質的な大造林計画の指示であると考えられる。 そして今度は実際に植林が実践された。年間植栽本数が大きく伸びたのは明治30年(1898)から31年(1899)年にかけてで、200万本台に乗ったのは 鈴木馬左也支配人の時代 である。 時系列的にみると大造林計画を基本とした 住友の山作りは精神は伊庭貞剛、実行は鈴木馬左也 先陣を少しきったのが広瀬宰平と言ったところか? 2023年12月15日 新居浜生涯学習大学講座 住友林業 片岡明人氏 より |
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住友林業フォレスターハウス 住友吉左衛門 | ||
住友林業株式会社の文化施設「フォレスターハウス」が 開設30周年を記念し、リニューアルしました。 2023年秋 |
カラマツ植林 約200年間、旧別子の精錬所等から出る亜硫酸ガスですっかり禿山になった、自然を修復するための植林が続けられていたが、1899年(明治32年)山津波の大水害により、旧別子の大量の建物や人命が失われた、この惨事を契機に住友が大規模な、植林事業に積極的に取り'組んだのである。 緑の喪失した禿山は、容易に植林を受けつけなかったが、中部地方の山林でよく育っているカラマツの植林にやっと成功した。そして、カラマツの人工林は、緑の失せた山肌にほのかな緑をよみがえらせたのである。今では鋼山峰や旧別子等の緑のシンボルとして、登山者に親しまれている。これらの植林地の多くは、地形的に樹木の育ちやすいゆるやかな斜面で、しかも表土が厚く、そのうえにカラマツや林内の雑木等の落葉の堆積により、安定した肥沃な土壌に変化している。このような地域には、見事なカラマツ植林地が銅山峰周辺の自然を保全しているように思われる。銅精錬を中止して100年後の今、やっと銅山峰に豊かな自然がよみがえったといえるだろう。しかし、稜線周辺の土地的、気象的環境の厳しい地域のカラマツ植林地は、カラマツの立枯れや生育不良などで、自然に生えた針葉樹や落葉樹等の優占した二次林へと移行していく傾向のようである。 「銅山峰の植物相と植生」石川早雄著 |
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四国で本格的に落葉松の造林がはじまったのは赤石山系銅山峰だ。「信州カラマツ造林百年の歩み」にはこう書いてある。 民有林で比較的大規模に行ったのは四国の住友林業株式会社と九州における九州林業株式会社である。 住友林業の造林地は愛媛県の別子山で、ここは徳川時代から銅の産出が盛んで、銅を製錬する燃料として周囲の山は伐りつくされた。その伐採跡地の造林はスギ、ヒノキによって早くから行なわれてきたが、標高が1000メートルを超えるようになると今までの樹種では造林が難しく、そこで寒さに強いカラマツが選ぱれた。大正のはじめから造林が行われ、昭和初期までに600ヘクタールのカラマツ林が作られた。 山村文化11巻 「銅山峰の落葉松」伊藤玉男著より |
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落葉松は秋の紅葉も素晴らしいが、新緑はまた格別のものがある。みどり色ではあるが、淡いみどり、心 癒されるみどり色である | ||
別子ダム湖畔 紅葉した落葉松 松は常緑樹ですが落葉松は紅葉し 葉を落とす。 | |
隣の土地との間には境界があるわけですが、地面に線が引いてあるわけではありません。隣の土地と区別するための目印となる杭があり、それを境界杭と言います。 | |
住友と他の土地との境に「井桁のマークの石柱」を配置した。最初は珍しく発見したたびに記録していたが、もう100本も越えると、気力も薄れた。膨大な数があると思われる。 旧別子の目に付きやすい所に3本あります。 |
登山道 円通寺の橋を渡った所。 | 登山道 西山の麓 | |
西山の道標の根元 抜けて転がっている | 後ろの山がチチ山(1861m)の西 チチ山は新居浜で一番高い所 |
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第一泉屋道出会い峠 自然石に彫られている。ここまで来ることが大変。 それゆえ感動も大きかった。 |
今は上記のようなプラスチック製の物だか、昔は石柱であった。御影石は別子では産出しないので瀬戸内海の島から運んだのだろう。とても持ち上げつ事は出来ない。どのようにして、運んだか知りたい。 山は住友にとっていかに重要な物だったか分かる。左の地図は井桁のマーク石柱の場所です。興味があっらた近場なので行って見てください。内宮神社から登れる。三角点まで調査したが、その上は行っていない。一カ所でこんなに有るのだから、西条市の山奥から土居の山まで、数知れない。 江戸時代の絵図にも峰筋に番号が記されている。この石柱があった場所だろうか。 |
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