旧別子には「重任局」の案内板が2箇所にある。大山積神社跡と木方の登山道です。
19重任局と大山積神社
元禄7年(1694)の大火の後、歓喜問符の隣にあった勘場がここに移され、明治12年に重任局と改称された。明治25年の火災で焼失するまでは銅山の指令所として重要な位置を占めていた。火災のあと重任局は木方に移ったが、その跡は元禄4年より銅山の鎮護の神として奉られていた大山積神社が、対岸の延喜の端から遷座した。また、モミの大木の向う側には別子山村役場があって村の行政もここで執行されていた。
左の広場には住友新座敷と言う来客接待所があったが、大山積神社の遷座と同時に、その跡が相撲場となり、5月の山神祭には大いに賑わった。下方一帯は目出度町で商店の他に料亭や郵便局・小学校なども軒を並べ、対岸の一段高い所には住友病院もあった
17 重任局と勘定場
明治時代は組織の改変や施設の移動は目まぐるしく行われた。この下の方では木方吹所に続いて谷川に沿って銅蔵・吹方役所・勘定場が並んで建っていたが、明治24年には別子鉱山の組織改革が行われて、吹方役所は製礦課となって今のダイヤモンド水の所に移り、勘定場は会計課となって数年後には南口の方に移った。
また、明治25年には勘場(日出度町)が火災で焼失し、勘定場の上手に遷ってきた。その時はもう重任局と改称されていて、屋上には櫓太鼓を備え、従業者に時を知らせていた。更に上流にかけての斜面には木方集落が軒を並べて建っていた。
重任局なんて日常に使わない言葉ですね。
明治12年から明治29年まで使われた用語です。
最初は勘場と呼ばれていました。
目出度町と木方あった以外は、この呼び名は使われていません。明治29年からは別子鉱業所となっております。
明治12年まで 勘場
明治12年~29年 重任局
明治29年~別子鉱業所  
重任局についての記述 各書物より
鉱山事務所で、ここに銅山元〆(支配人)、役頭(主任)、役頭協(担任)、舗方(採鉱係員)、鉑買い(坑務係員)、帳場(経理係員)等が勤務していた。明治に入り鉱山の気風刷新をはかる為、屋根の上に高い櫓(やぐら)を作って大きな太鼓をつるして始業や終業の時刻を知らせていた。
重任局は、明治25年1月に焼失して対岸の木方部落に移転し、その跡には、山方から大山積神社が遷され、その東側(向って左手)上方に住友新座敷(接待館)が新築された。
風呂屋谷と見花谷の間の尾根に、しらべ(もみの一種)の巨木が3本あり、その東隣りに石のこま犬と小さな桐が残っている。ここが大山抵神社及び重任局跡である。
        旧別子銅山案内29ページ
即ち支配人、部課長、その他役職員が勤務していた、この重任局には勘場(会計)も在り、屋根の上には写真の如く櫓が設けられ、時刻を知らせるために大きな太鼓が吊るされていて、朝、昼、晩の三回と、集会時などにこれを打ち鳴らしていたものであるが、その音は山々にこだまし'、勇ましいものであった。(木庁の重任局は明冶14年にここに建てへこ写真のように木方に建っていた重任局も今は無く、荒廃して見るかげもない。
     別子銅山188ページ
明治12年(1879)2月15日、住友家は伊庭の入社を契機に組織刷新に取り組み、「大阪住友本店職制並規則」を制定、次いで同月25日「予州別子鉱山事務章呈井規則」を制定した。これは、明治15年「住友家法」の事務章程に踏襲された。すなわち、大阪本店に最高決議機関として重任局が設置され、家長.総理代人・支配人・支配人補助の合議制によって運営すること、あわせて別子鉱山にも「別子二係ル一般ノ事業ヲ、総轄決行スル」鉱山重任局を設け、支配人・支配人補助の「協議ノ上二非サレハ施行スル事ヲ許サズ」と規定したが、やはり重要案件は本店重任局へ伺いを立てなければならながった。鉱山組織は、会計方・書記方・土木方・売場・小足谷酒造場・鋪方・吹方・弟地炭方・落合炭方・七番炭方・新居浜出店・立川出店の10課2分店に分かれていた。明治9年に比べて普請方・林方が土木方に整理統合されて山林係・道路係になるなど、各配下の係も多岐に分かれ、職務内容が詳細に規定された
     住友別子鉱山史上巻_370
(明治24年11月改正後の機構一覧)

益友8巻76号(昭和36年4月発行
今と昔(高橋学蔵 著)より


明治29年の組織改革
組織の刷新明治27年(1894)11月15日、広瀬総理人の退身後、伊庭は住友全事業の見直しを重任局員と相談しながら着々と実行し、ついに29年10月1日住友家法が実体にそぐわなくなったので、ここに大幅改正した。その要点は、次のようなことであった。
①重任局を廃し、重役会で重要事項を審議すること。
②総理人を総理事と改称すること。
⑤鉱山出店を別子鉱業所と改称する
ここに、大阪本店の重任局と別子鉱山ほか各支店の重任分局による複数決議制が廃止され、決議機関は重役会に統合一本化された。当時の重役は六人であり、総理事は欠員であったが、伊庭・田辺の両理事がそれぞれ別子鉱業所.住友銀行の支配人を兼任し、本店支配人に田挺吉、神戸支店支配人に谷勘治、若松支店支配人に豊島住作、別子鉱業所副支配人に小池鶴蔵を配した。
    住友別子鉱山史上巻_454ページ

別子鉱業所本部の写真である。従来、鉱業所本部は銅山川の右岸「勘場」にあったが、明治25年1月12日の火災で全焼したので、同年4月26日対岸の大山積神社下方の木方に新築移転した。鉱業所本部は窓ガラスを採用しており、その他の施設もほとんどそうなっていた。また、その屋根には時刻を知らせる太鼓櫓が見え、移転前と変わらず鉱業所本部のシンボルであった。なお、鉱業所本部の上方には洗濯物を干した木方の稼人小屋や、整然と並んだ焼鉱窯が写り、その上方にあった大山積神社は、旧勘場の鉱業所本部跡に移転した。
   住友史料館報30_23

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現在の重任局跡。見花谷と両面谷の間から撮影。
  2021‎年‎11‎月‎16‎日、‏‎13:41撮影
現在の重任局跡。左の写真の平地部分。
左上写真の櫓があった辺りと思う。
  2021‎年‎9‎月‎29‎日、‏‎11:40撮影
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