東延斜坑は、各坑道の連絡、鉱石の運搬路、排水路、通気を兼ねており、明治時代後期は、
これまでの別子本鋪(歓喜坑・歓東坑)に代わり、この東延斜坑が採鉱関連事業の中心となって、
上部坑の開発に大きく寄与した、
      東延斜坑
この辺りは別子鉱床の東の端に当るが、地下深部に三角と言
う所があり、そこにはとてつもない立派な鉱石が無尽蔵に眠っ
ている事が以前から分っていた。明治7年(1874)住友家の要
請を受けた鉱山技師ルイ・ラロジクは、この一点を選んで斜坑
を掘り、三角の富鉱体に到達させ、その間に階段状に水平坑道
を開削して鉱床に逢着させる。採掘した鉱石は斜坑に集約して
出鉱するという新生別子銅山案を提起した。ただ、当時日本の
鉱山では本鋪という大きな坑道でも5尺(1.5m)×6尺(1.8m)程度
であったが、ラロックの東延斜坑口は幅が20尺(6m)高さ9尺
(2.7m)もあった。しかし、当時の住友の実力者広瀬宰平が、敢
えてこの大起業に挑んだのは、彼が11才で別子銅山に奉職し、
三角の大富鉱体を見ており、三角に賭ける山内の熱い空気に触
れていたからであろう。 
       
   
  抗の周囲は立ち入り禁止です 柵がしてあります   坑道断面は 幅6m、高さ2.7m です。
傾斜49度で526m地中に潜っています。
東延斜坑は、着工から完成まで19年を要し明治28年1月には8番坑道準に到達し、10月に完成した
       
    坑道断面は 幅6m、高さ2.7m です。
傾斜49度で526m地中に潜っています。
東延斜坑は、着工から完成まで19年を要し明治28年1月には8番坑道準に到達し、10月に完成した
   
       
   明治7年(1874年)、住友は銅山経営の近代化を図るべく、フランス人技師、ブルーノ・ルイ・ラロックを雇い入れた。
当時の別子銅山は、開坑から180年余りを経ていくつもの問題に直面していた。坑道を深く掘り進めた結果、絶え間なく湧き出る地下水に悩まされ、鉱夫の行く手を阻んだ。旧来の手法では銅の含有率の高い「富鉱」を製錬することはできても、当時、含有率3%程度の「貧鉱」の製錬は難しく、貧鉱はそのまま捨て置かれていた。また、険しい山道を越えて鉱石をふもとへ下ろすには、人力に頼るしかなかった。

ラロックは、約2年をかけてこうした状況をつぶさに分析し、最新の知識と技術を駆使した近代化策を一冊の報告書にまとめた。そして、これをもとに明治9年から旧別子の広範囲にわたって近代的施設の建設が進んだ。その結果、明治元年には、6,000t足らずだった採鉱高は、明治26年には5万tを越え、日本の国力増強にも大きく貢献したのだった。
     住友グループ広報委員会ホームページより
   
   外国人鉱山技師の雇用について、その必要性を感じていた廣瀬宰平後見役は、フランス国リヨンに本社のあるリリエンタール商会によりフランス人鉱山技師・プロックを紹介され、明治7年(1874)1月1日、住友とラロックは正式に雇用契約を締結しました。その主な内容は、次のようなものでした。
①雇用期間は、明治7年(1874)1月1日から明治8年(1875)10月31日までの22か月とする。
②給料は月給600㌦(当時約600円=2022年約3000万円)とする。なお、このラロックの月給は、当時、高給待遇であった廣瀬宰平後見役の月給(約500万円)の6倍を越えていたといわれます。
    歓喜の鉱山22 現在の金額は追記しました。
   
       
  上記の図は閉山時のものである。
東延斜坑が開削された(1895年)は第三通洞(1902年)は完成していなく斜坑の先端部の750mは最深部だったと思われる。図にある上部立坑・上部斜坑は後に出来たものである。江戸時代の坑道はアリの巣の如く鉱脈を追って無秩序に掘られ、斜坑が完成後、水平坑道が整備された。
   
       
       
       
       東延斜坑の奥の石垣に立つと 正面に煉瓦造りの機械場が見える。
1本のワイヤーで斜坑の車両を上下させていた。
今は 鳥のさえずりの中で余生を送っている斜坑もうなり声を上げて働いていた事だろう。

斜坑と機械場の間にあったプーリー。
 巻揚げ機ではなさそうです。
   
  明治9年、ラロックが設計した東延斜坑の開さくが始められた。
この斜坑は、海抜1145メートルの東延坑外から同747メートルの八番坑道準まで、坑道断面幅6メートル、高さ2.7メートル、傾斜49度、延長526メートルの人道つきで、途中数段の支坑道と連絡し、鉱石、資材の運搬を行うものである。従来の坑道は、人がかがみながらやっと通れたのに比べると、その大きさは画期的で、まさに別子近代化の走りとなるものであった。なお、東延の名は、別子本山の鉱床が西から東に向かって富化する(延びる)実状にちなみ、さらに東に発展することを期待して命名したもののようである。
この斜坑の掘さくには、ノミとツチを使用し、黒色火薬が使用された。そのため、工事は遅々として進まなかった。明治15年3月、掘進150メートルに達して初めて馬を使用して動かす馬巻揚機が据え付廿られ、巻揚げが始められた。使用した馬は最初4頭で、17年には12頭になった。その後23年4月、蒸気巻揚機が据え付けられ、機械による巻揚げが実現した。
東延斜坑は、着工から完成まで19年を要し、明治28年1月には8番坑道準に到達し、10月に完成した。この斜坑の完成により、坑間の鉱石運搬、交通、通気が整備された。とくに小足谷疎水道と連絡して、箱樋を使う坑間の距離が短縮され、同年3月、斜坑の最底部の三角の貯留水が排出され、大左本(8番坑道準東部)の富鉱帯の採掘が可能になった。ちなみに、富鉱帯は三角の貯留水で覆われ、その排水は別子長年の懸案だったものである。排水を指揮した当時の設計部長塩野門之助(後述)は、水中から現れた大左本の富鉱帯のさんさんと輝く高品位鉱を目の前にした時、歓喜の余り、鉱石の表に思わず接吻したと伝えられている。なお、小足谷疎水道は、慶応4年(1868)開さくに着手されたが、明治11年末工事の片側が廃石の捨場に困って中断され、その後16年8月に再開、19年12月に完成したものである。これによって、過去130年余りの問(立川鉱山併合後)、多数の箱樋によって、寛永疎水道まで引き揚げ、北側(国領川)へ排出しなければならなかった坑内水の大幽部分は、4番坑道準以下のレベルで南側(銅山川)へ排出されることになって、約120メートルの排水作業を節約できることになった。
   別子300年の歩み より 
   
       
   別子銅山近代化の先駆けとなった 東延斜坑の機械場   別子銅山の最先端を走り続けた東延 
日本の近代化の最先端と言っても良いだろう
       
     
   トタンで作られていた 屋根は朽ちて落ちたのか ありません。   機械が座っていたと思われる場所は 木々が茂り
時間の経過を物語る。
       
   
   正面の四角く空いた穴から、斜坑に向けワイヤーが唸りを
揚げていた。
   世界遺産にならなくても良いから
 いつまでも残っていてほしい。
       
       
       
    東延斜坑 略年表
明治初年フランス人技師ラロックが設計
明治9年(1876〕 当初は繋と鎚、黒色火薬使用による掘削 人力による引き揚げ作業
明治15年(1882)から馬巻揚機
明治23年(1890) 葵気巻揚機を設置して掘削
明治28年(1895) 完成
明治39年(1896) 火災
明治44年(1911) 東延斜坑復旧
昭和5年(1930) 使用中止
昭和7年(1932) 火災  廃止
   
       
    戦後、上部坑開発の時期に一時再使用された
終戦後昭和22年かち崩落の内部を取り明け、再びこの東延斜坑が活用され、
昭和29年頃まで巻揚げ機は勇ましい音を立てて運転を続けていたのであった。
    別子銅山200ページ