山神社・轍    
 
  山神社    
         
   
   山神社と書いて さんじんじゃ、やまじんじゃ、やまのかみしゃ などと読むようですが、別子ではどう読むかはしらない。私は「さんじんじゃ」と読んでいるが、聞いて見るとその人によって読み方が違う 。  
  ともかく ここに山神社があったことは事実である。今は更地で 崖の下に上記の品物がお祀していたのだが、2012年の撮影のため、今はかなり風化しているものと思う。
   
  別子銅山における山神祭礼は、正月元日、5月1、2、3日の二回であった。山の守護神である大山積大神を中心に山内の各集落は 神仏を祭って身の安全や家庭の幸福を祈っていた。この社は小足谷集落の神さんであったのでしょう。旧別子で最後の木造建築物であった。
   
      取り壊された後 道路沿いに看板が建てられた。 
       
  記録   なぜか社を撮影していました 
       
   2011/09/24     2010/10/10
       
   2010/06/06 木が倒れ屋根が壊れました    2009/11/15
       
  2006/09/23    別子山役場より 年代不明
       
       
   頂き物です。社か壊れる前の撮影です。天井絵が少しだけ写っています。  
       
       ‎2012‎年‎3‎月‎20‎日撮影

解体した人に話を聞きことが出来ました
 「私の責任でかたずけました」との事でした。住友鉱山のOBの方で、別子銅山について非常に詳しい人です。「鉱山に話しても、会社の所有物ではないので、出来かねる」との事だったようです。このままにして置くと危険なので、解体しました。
 
 
 
       
     別子銅山親友会 事務局長より
この雑誌に別子銅山の記事が出ている。と 「PKAYBOOY」昭和63年9月号を書庫から出してきた。「PKAYB〇〇Y」だから表紙はだいたいわかるでしょう。〇〇初ヌードの文字が踊る。もちろんじっくり楽しんだ後で「猪俣宏 黄金伝説」のページへと目を移す。
「 これを知るには、旧別子銅山の山頂まで行ってみるのがいちばん、とアドバイスしてくれたのは、別子銅山記念館の井上館長だった。
ときはうららかな春。山もさぞかし気分がよかろう。
とばかりに、われわれは翌朝、春の軽装でひょいひょいと別子山村へでかけたのだが、まさかあのような地獄を味わわされようとは!」と旧別子紀行が綴られていますが
 記事には小足谷山神社の事には触れていませんでした。
     この記事で一番大きな写真が小足谷山神社の写真でした。
       
   轍(わだち)    
  牛車の車輪の跡と言われています。
同じところを通るため岩盤(緑泥片岩)に刻まれたと思います 
   
       
     牛車の車輪の跡と言われています。同じところを通るため岩盤(緑泥片岩)に刻まれたと思います。開坑(1691年)間もない別子銅山は徳川幕府の天領でした。 採れた銅は銅山峰から向こうは西条藩だったため通行が出来ず銅山川沿いに保土野に出て、肉淵から、山越えの原始林に入り、小箱峠を越え、宇摩郡土居町天満の浜まで36kmを運送して天満から船で大阪に輸送していたものである。  1702年3月西条藩から銅山越えの許可が出ています。そうなると1702年以降は銅は通らなかったと思われます。1691年から1702年の11年間にわだちが出来たのだろうか?。  私は、新居浜からの物資を接待館・料亭・醸造所(1870年)など小足谷部落に送ったり、醸造所で出来た酒・醤油など目出度町に運んで出来たもの。とも思う。   (もう少し文献を調べてみます)
       
       
   わだちの幅は70cmでした。    
       
      新説
轍の跡ではなく、岩盤を意図的に掘ったという説です。荷車にしては結構な勾配でもあり、また急角度で道が曲がっている。左の写真は上部から撮影した物です。車輪が谷の方向に落ちないように溝を切って誘導した。という説です。 
       
 

2022/06/21