素麺滝  

合田正良著「別子銅山」の199ページに こんな文章を見つけた

東延の上方には『そうめんの滝』と呼ぶ美しい滝があり、旧別子の盛んであった頃は、休日など友人、家族連れなどでここに遊び、楽しい一日を過ごし一献をかたむけたと云われている.、
その滝も今は木々に包まれて訪れる人さえない.





雨上がりに撮影に行きました。2日雨が続き 雨が上がったので 出かけました。
   
       
   向かいの尾根から見た素麺滝
尾根からの標高が少なく雨が降らないと枯れる事も多い。
   雨がないと 水がなく 崖の状態です
       
       素麺滝に行くには

立ち入り禁止となっている「東延斜抗」の奥に「そうめんの滝」に向かう細い道が見える。下刈りはされています。6分~7分で行けるので行ってみてはどうでしょうか。

途中には、使われなくなった鉄管が横たわっている。
     
      染太夫一代記_341p

第二十九の巻
予州銅山名滝に梶太夫が弟子伜水あそびの事
   (嘉永三年戌二月)
ここに予州銅山の深山に名滝あり。梶太夫組はぎのふも見物あれこれ致したれども、見所おほさに、けふはかの滝を見物するに、この滝水の名は素麺の滝とて、この山わけて険阻にて、滝水の高さ凡そ三丈ばかり。おちくる水は左右にわれて、.ばらくと千筋におちるゆゑに素麺の滝といふなり。滝かみやしろのもとに神社あり。これ大山積大明神といふ。梶太夫は取りあへず神拝をして滝の元へ出でしに、大いに見事にて、岩ぺきけはしく、さながら物すごく、落ちくる水の音おそろしく聞えける。

このあと若い役者達は素麵滝に飛び込んで水遊びに興じている。
 「染太夫一代記」新居浜図書館で読むことが出来ます
       
     明治14年の東延・素麵滝です。現在と少し変わっています。今は滝つぼがありますが明治14年には滝つぼがなく大きな岩で塞がれています。右から土砂が流れ込んでいるようにみえ、まだ新しいと思います。上記の染太夫一代記の絵にも滝つぼが描かれていません。

       
       
       
       
   素麵滝の東に住宅の跡がある。旧別子には集落ごとに山神社が祀られていたようです。たぶんここも祠があったと思われる。    看板の上部の岩陰に祭礼の用品が置かれている。
       
      左の写真は、素麵滝の上部で住宅跡の西にある祠である。
西岡氏が偶然発見してた時は、台座か弱り、祠も傾いていた。
2019‎年‎11‎月入江氏と三人で道具を持参し立て直した。
右の壁面には 明治40年11月と彫られてあった。
たぶん素麵滝上部の集落の山神社ではなでしょうか。 
   
           
     
   東延斜坑の上方の集落を東谷部落と言い、その西に隣接するものを西谷部落と言った。また、そうめん滝の下方にも、上方の谷筋にも集落があって、これらをそうめん滝下、上部落と呼んだと言う。つまり、東延部落は四つの集落から成りたっていたのである。
東延が葬祭の上で独立出来る集落になったのは明治中期にかゝってからであろう。そして広瀬の言う別子本鋪として採鉱の諸設備が此処に集約されるに至って最盛期を迎えたが、明治38年、第三通洞の完成によって東延斜坑の機能が薄れるに及んで漸次衰退していった。
山方以下、これまで述べてきた集落は職場を中心とした同一職種の者によって形成されていたが、東延は違っている。採鉱夫.機械夫・運搬夫・選鉱夫等いろいろであった。排他的集落がまだ根強く残っていた別子山中に、このような近代的集落が形成されたのも明治の別子を探る大切な現象である。
東延斜坑の近くにある東山間符は、元禄年間に既に開坑されている。しかも、谷には水も可成り.豊かにあったにも拘らず集落の形成がおくれたのはどうしてであろうか。
束延から上方市左越(前述)付近一帯を東山と言う。東山と前山の聞の地区を天満山と呼んでいた(別子銅山賃銀計量等大概)。この天満山の下方に開かれた坑道を天満間符と言う。この付近には焼窯があり、縁起吹所と木方吹所が指呼の問にある。従って、東山間符と天満間符は案外早く地中にて貫通したため、採取された鉱石は製錬に便利な天満へ搬出された。それが東延の開発をおくらせた主な理由ではなかろうか。
最盛期における戸数は6、70戸以上もあったものと推定される。
明治の別子102
 
     
     そうめん滝上部集落に行くには、そうめん滝の上部に行かなければならない。手っ取り早いのは滝を登る事であるが、これを登る勇気も、技術もない。滝を大きく迂回してそうめん滝の真上に出た。下を見るのも恐ろしく、ほどほどにして集落跡に向かった。
 
       
   
   高い石垣が築いてある。石積みや地形は朝日谷集落に良く似ている。  
       
       
別子銅山記念館にある、旧別子のジオラマをじっくり見ていると青い水路が3本ある。東延から東の方に2本ある。上の青い水路は上部鉄管道。下の水路は下部鉄管道である。両方とも西赤石山直下の水を集めて東延に導いている。明治初期の遺構と思われる。もう一本は東延上部から山方(歓喜歓東坑)付近まで伸びている。これは東延が開発される前に東延谷の水を山方に送った水路ではないだろうか。上の写真の中央に幅1m程の石垣がある。これが水路です。ほぼ水平に山方まで伸びていて 藪になっているが歩く事が出来る。
   谷は石積みで覆われ、下の方から僅かな水が流れ出していた。大水の場合は石済みの上を滑り落ちるのだろう。