足谷山中で人間の生活がはじまったのは元禄四年五月、即ち幕府から採掘認可がおりてからである。 集落の誕生は前山付近から始まり足谷川に沿.って次第に下流域へ展びていった。 そして最後に現われた集落が小足谷下前部落(右岸で収鋼所の上方)である。 (明治の別子86ページ) |
小足谷部落は身分によって上前部落と下前部落に二分されている。地図の赤いラインは私が考えた区分線です。 上前部落は職員(山師家内)が住み 下前部落は労働者や商人が住んでいた。 朝日谷集落は「ドベ溜」の北西にある朝日谷を挟んで栄えた部落の事を言う。 全て山林・土木関係の請負人や労務者が居住していたと明治の別子110ページに書かれている。 朝日谷にはかつて30戸ほどの集落があったと言われているが、おそらく棟割長屋であったろうから5~6棟の規模だったのだろう (山村文化21号37ページ伊藤玉男著)とある。 部落の上部には車道があり大八車が往来出来る山内では一番広いと思われる道路が通っている。 旧別子では一番はずれの集落ですが上前部落よりは便利な位置にあったのではないだろうか。 「この集落の名は別子銅山通史の中に登場することがないのは何故だろう。」と伊藤玉男が書いているとおり資料が出てこない。 小足谷部落の人口は明治34年に 戸数57 人口226 本籍人口46 寄留人口170 とある (寄留人口とは90日以上本籍外において一定の場所に住所 または居所を有することである) (別子銅山と鉱業集落に関する総合研究48ページ) |
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上記の地図は伊藤玉男氏の明治中期の小足谷付近の地図です。 住宅の四角いマークが20個ほど付いている。 私も実際に歩いてみると多くの石垣が残っておりかなりの人が生活していたと思われる。 |
朝日谷にはかつて30戸ほどの集落があったと 言われている |
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「ドベ溜」とされているが現在は「小足谷堆積場」として今でもメンテナンスをしています。 堰堤の右がドベ溜の池になっています。 詳しくは小足谷収銅所の項目に記しています その池の山側の石垣の上から朝日部落の石垣が続いています。 |
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左の明るいところは小足谷堆積場です | 住人が庭に残していった竹がはびこったのだろうか竹藪になっていた。旧別子に竹のある所はここだけです。他にないのはちょっと不思議。 | ||
かなり広い場所もある。100年以上も前のこと | 朝日谷 上流の方まで石垣が続く | ||
対岸の広場 棟割長屋があったのだろうか | 朝日谷の石垣 谷には少ないが水が流れている | ||
植林された木々 崩れた石垣 繁栄の跡地 | 石垣などは比較的きれいに残っています | ||
この上に車道があります。 | 劇場跡から七番まで続く車道 ここから下が朝日谷集落の下前部落です。 |
住宅が建ち並んで居たのであろう。 全て住友鉱山の所有物で個人の家とか土地はなかったようです。 この朝日谷集落は明治5年前後に作られて大正5年から10年には撤退したようです |
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2022/06/16