接待館・採鉱課長宅                          
 
       小足谷接待館と傭人社宅

 明治期に入って急速に鉱業の近代化が進むなかで、それに伴う
各界の要人が頻繁に来山するようになった。
そこで明治34年(1901)一般人が経営していた泉亭を改装して
別子接待館として営業を開始した。
因みにこの年10月には住友家15代家長(友純公)が宿泊されている。
この煉瓦塀も恐らくその時点で築かれたものであろう。
 この50mほど先に見える煉瓦塀を廻らせた邸宅の跡は、
歴代の採鉱課長が住んでいたと言われている。
その隣が醸造課長宅で、これより、小足谷に沿って20棟
ほどの傭人社宅やクラブなどが建ち並んでいた。
 また、醸造所に向けて下るところの住居跡は明治19年に
開校した小足谷尋常小学校のあった所で、明治22年黒橋に
新築開校した別子尋常小学校に統合されて
からは、改装されて教職員の住宅になっていた。
       
     
   上記写真は「別子銅山風土記」近藤広仲著6ページ_明治30年代である。赤い煉瓦塀がそのまま残っています。  
       
       
   接待館の跡地は檜が植林 され 鬱蒼と茂っている。    煉瓦塀に根付いた木 2008/09/28
最近は管理が行き届き このような写真は撮れなくなった
       
       1966年(昭和41年)3月の接待館

大正4年(1914年)に旧別子を撤退して 多くの施設は東平に移していった。
撤退後55年の風景である。

植林はされていなく 雑草が茂っている。電柱が立っていて白いガイシが4個みえますが電線も繋がっています。
電気が来ていたように思われます。
       
   
  1966年(昭和41年)3月の接待館のようす
 雑草ばかりですね。近くの山には松や杉か檜が見えますが種が飛んできて
 育った形跡が無いですね。撤退して55年も経過しているのに雑草だけしか
 生えなかったのでしょうか?。現在覆い茂っている檜は植林と見ていいのでしょう。    
       

   採鉱課長宅    
   
  下から見上げる煉瓦塀は圧巻である。
100年も前からここに佇む石垣とレンガ塀。あっちこっちと痛みが出ている。
「もう少しなら 頑張れるよ!」 そう言っているようで・・・・。
もう50年も私の来るのを待っている。
木漏れ日がスポットライト。  温かいコーヒーをすすりながら  時間を経つのを忘れる
   
  小足谷接待館跡の奥、石段のある少し高台に分厚い赤煉瓦づくりの塀
が残っていますが、ここが採鉱課長宅跡です。採鉱課は製錬課、運輸課
とともに別子鉱業所(当時)の中でも多数の職員を抱え、別子銅山経営の中核を
なす重要な組織であり、それを統括していたのが採鉱課長でした。
     歓喜の鉱山85ページより 
   別子銅山で最高責任者は総理事。つまり広瀬宰平氏であったり、伊庭貞剛氏せある。
しかし、別子の山中にいつも居るわけではない。ここから全山の指揮を執っていたのは
採鉱課長である。
   
       
       
    水汲み場
 今も水が流れ出ている。
 奥行きは 1mほどだろうか。
突き当たり  は岩盤のようだ。
 旧別子の山中は 水が貴重品だった。
 あちこちに 水汲み穴が掘られている
   大正5年に採鉱課が東平に移った。
この時にこの屋敷も、従業員もすべて引越し
をしたと思われる。煉瓦塀の一か所に亀裂が
走っている。100年以上孤独に耐えながら
ここで頑張っている。ごくろうさん
       
   一本の樹    
     
   樹があった。風格があった。
この屋敷の主のようでもあった。
だから 私のカメラに収まった。
”どうだ”と言わんばかりに
   接待館の煉瓦塀よりも塀としては こちらの方が立派です。しかも高さが高く迫力がある。高さは2.4mほどでした。
       
     
   2019年9月の台風で倒れました。
根を見れば地中深く張れていないですね。
年輪を数えてみました。108本確認できました。
  レンガ塀に倒れ掛かりそうだったので、切り刻まれて撤去されました。淋しいですね。
       
 

2022/06/15