小足谷醸造所                                 
 
       明治3年ここでで醸造を開始した。
寒冷地であったために4年ほど酒が腐る現象がおき 明治6年に杜氏を迎えてから銘酒「イゲタ正宗」が完成した。濃度の強い酒で山中で働く人々にとって 酒を酌み交わすことは大いなる楽しみであった。
慶応1~2年に醸造所は完成していたようですが米が手に入らなくて醸造開始は明治3年から始まったお酒の生産量ですが明治35年の生産高は421石627合とあります。
 お酒の単位は
  1石=180リットル
  1斗=18リットル
  1升=1.8リットル
  1合=180ミリリットル
 ですので1升ビン換算で42000本余りになります。

明治35年に第三通洞が出来ていますので この通同を通って東平にも運ばれていたと思われます。明治43年には800石659合 1升ビン8万本あまりです。
材料の米は 別子の山中では ほとんど生産されていませんので全て人の背 牛の背に負われて届けられたものです。
明治15年からは醤油も生産されていて明治35年の生産高は421石627合とあります。
この煙突がいつ頃 建設されたかはまだ分かっていません
明治3年に醸造を開始したのですが 煙突はこれより後年に出来ました
煉瓦が別子銅山で使われ初めてのは明治12年からです。
       
       小足谷集落跡と醸造所跡

この辺りは別子銅山で最も新しく開かれた集落跡である。
小足谷の集落は大きく分けて3つに分かれ、小足谷の橋を渡る
手前とその対岸の朝日谷集落には労働者が住み、この辺りには
往還に沿って商家が軒を連ねていた。そして、この先の接待館
地並みから上は傭人(職員)の集落で俗に上前集落といって商人の
住む下前集落と区別されていた。
右の屋敷跡は味噌と醤油の製造所で、煉瓦造りの窯や煙突の
跡が今も残っている。
上の段の広い敷地はよく話題になる小足谷醸造所跡である。
別子銅山で酒の醸造を始めたのは明治3年(1870)からで、最盛期.
には年間100キロリットルも製造していた。銘柄ヰゲタ正宗、別名
「鬼ごろし」ともいった。
       
       登山口からの所要時間 20分  
円通寺の看板から歩くこと7分
写真の風景に出会います。
看板には右の写真のように「小足谷集落跡と醸造所跡」と記してあります。
醸造所跡にはここから右に折れて2分ぐらい登ります。(看板の所から登ってください)
       
         補修した後
 
   補修前
   「平成七年の阪神淡路大震災の折に、醸造所の煙突が少し傾いたので、別子銅山記念館にお願いして補強したりもしました。」
  山村文化第9号 別子銅山の煉瓦ー講演録ー伊藤玉男より
   補修工事は何度か行われ現在の煙突の形になりました。
       
   
       
   
       
       
     
     
   2019年の改修工事の時 足元の土を除くと当時の遺構が現れました。  
   
   煙突の建設年代を考える    
  なぜ こんなに高い煙突が必要になったのか?
木炭で製造していた時代には高い煙突は必要なかったと思われます。コークスや石炭の化石燃料が製造にかかわるようになると、排煙の問題が生じ、高い煙突が必要になった。木炭より石炭のほうがコストが安く、効率もよかったようです。
別子銅山では石炭の消費は明治23年から始まります。木炭消費は明治25年にピークに達し銅の生産高が増大する中、減少に転じます。変わって石炭とコークスの割合が増え明治26年に逆転します。明治38年には木炭使用量がピーク時の10分の一になり石炭全盛期に代わります。明治26年 住友は石炭自給のため九州庄司炭鉱を買収しています 
 旧別子に残る古い写真があります。31年になりますと東延の煙突が写っています。資料にはエントツ山の煙突は明治21年 東延の煙突は明治28年の建造となっています。しかしながら小足谷醸造所の煙突の建設年代の資料は出てきません。精錬や機械場のように直接 銅製造に関わらない醸造所の煙突ですから、明治30年代ではないかと思っています。
    お願い=資料がありましたらお知らせください
      参考資料 住友史料館報28号から31号    
       
       
   落ちて 苔むした レンガ
一筋の光を受けて・・・
   「住友のマーク 「イゲタ」の印がついた煉瓦」と思いがちですが 松葉の菱形マークで煉瓦製造会社のマークです。
詳しくは「山村文化」第9号6ページに記しています。
       
 

別子銅山風土記より
 _小足谷明治30年代 
 
   煙突と酒樽
「明治中期の写真に醸造所の煙突がない」と友人と議論していました。
友人曰く  「煙突は意外と低いので家に隠れた」
そこで「別子銅山風土記_近藤広仲著」の7ページの写真を引き伸ばしてみると○のように煙突の先のように見える。煙も立ち昇っている。なるほど醸造所はかなり大きな建物であったようです。右下の軒下に酒樽も見える。
   周辺の探索    
   煉瓦    
      煙突の周りにたくさんの煉瓦が落ちています。その中にマークの入った煉瓦を見つけることが出来ます。井桁マークによく似たのが讃岐煉瓦です。山村文化9号に讃岐煉瓦の記載があり、琴弾公園の西隣とわかり訪ねてみました。今は「琴弾回廊」と言う温泉施設になっています。事務所でお話をさせて頂きました。創業は明治30年(1897)でした。

別子銅山での煉瓦使用は明治12年から始まっています。煉瓦を使っている主な構造物は東延=明治16年着工 上部鉄道=明治25年着手 とてつもない数量の煉瓦が使われています。明治13年に完成した牛車道が役にたっています。もしなければ、煉瓦は使用できなかったと思われます。仲持ちさんによって煉瓦を運びあげるならば平均38kgの運搬として1人あたり煉瓦15枚しか運べません。

讃岐煉瓦がまだ創業されていない時代の事です。
     
  鍋     
       広い石段を降りてみる。
そこにあったのが鉄の釜?
最初は五右衛門風呂かと思ったが 棒きれを入れてみると風呂にしては浅い 50cmであった。直径は80cmあった。
五右衛門風呂の大きさを調べて見ると 直径86深さ74ぐらいが平均だ私が座って肩までがほぼ70cm風呂の底板を入れると74cmが調度良い。
50cmの風呂だと脇の下ぐらいの深さしかない。
これは大きな釜だろう。
煙突だったのだろうか 筒状の物が周囲にある小足谷酒造場の醸造中止は明治44年ですので110年を超える。当時の物とは思えないが・・・・・。

下記の文章を見つけた
大正五年(1916)別子採鉱本部の東平への撤退に伴い、醸造所は操業停止を余儀なくされ、遂には廃嘘となった。
当時の醤油倉の屋根は石が葺かれていた。
その屋根の石は青色で三尺も四尺もの大きなもので、それをシックイ止めにしており、見事なものであった。酒倉は茅葺き屋根であった 現在それらの跡を偲ぶものとしては、酒倉の赤煉瓦造りの麹室と同じ煉瓦造りの煙突が残っている 醤油倉の方は、醤油醸造用に造った大端釜が二つ窯にかかったまま残っている。その釜の大きな方は直径六尺もあり、小さい釜の方でも径四尺くらいはあった。銅山の醤油使用量が大きかったごとを物語るものである。
    住友家と別子銅山雑録4 高橋重美 
    (西条史談034_20ページ) 1995年刊 より
 
     
       
 

2022/06/15