小足谷疎水道                           
 
      小足谷疏水道と収銅所
この道を下ると足谷川に出る。そこに小足谷疏水道の坑口が
ある。別子銅山の深部に溜まった坑内水を排出するために
寛政4年(1792)に着工した。坑道の長さは940mもあり、これは
手掘りの時代においては常識はずれの大工事であった。従って、
途中何度か中断があり、明治元年(1868)4度目の着手で黒色
火薬やダイナマイトを使って明治16年(1883)に4番坑道に貫通
した。
この完成によって坑内水の排除と通気問題が一挙に改善された。
但し、坑内水には硫黄や重金属が含まれており、川に直接流す
ことは出来なかった。そこで排水は延々と箱樋の中を流し、鉄屑
を入れて銅を沈殿させ、余水は沈殿池に溜めて浄化し、上澄み
だけを放流していた。この対岸一帯にはその施設が構築されて
いた。 
       
     
   上の道は銅山峰に行く道です。
小足谷疎水道は下に降りてください。
あまり行く人がいないのでしょうか木が倒れていたり、道がずれるていたりあるいは雑木や刺のある植物が行く手をさえぎります。下まで5分ぐらいで降りられます。
   案内板が出来たときは、裏表になっていたのですが、現在は上下2枚の案内板になっています。
       
      写真解説
小足谷疎水道(明治15年ごろ)
寛政四年(1792)涌水排出のため、小足谷からのちの坑内四番坑道準にある「駒之頭」まで約940mの開さくに着手したが、その後中断し明治元年(2868)に再開された。同19年工事完成後は、八番坑道準にある「三角坑」の排水に効力を発揮し、29年すべてを引き干した。櫓の直下が坑ロで、土砂運搬用の鉄軌道が延びている。
 鉱山史別巻28ページ

もっと詳しく
上部にほぼ水平に伸びているのは現在の登山道でしょう。真ん中にある櫓は圧縮空気をつくりトンネル内に送る装置。櫓の上部から水を落し圧縮空気を作ったようです。櫓から伸びている道は箱樋で水を導く水路です。圧縮空気により削岩機を使用したかと思うが、削岩機の使用は東平にペルトン水車ができた明治28年が初めてとされている。当時は手掘りの時代でした。小足谷疎水坑は明治16年の完成ですから、もう後少しと言った所の写真です。1792年から93年もかけて工事をしたことになります。排水はいかに大事な事業かがわかります。
     
       さらに詳しく
小足谷疏水坑道の通気についても,深部掘削によって,やがて欠乏してくるであろう通気の現状を真剣に改善しなけれぽならないと指摘し,その坑口に送風器を設置するよう設計図を添付している。
図面によると,木樋(木製水路)の水を,立樋に落とすときに生じる圧縮空気を送風するものである。明治10年の第一回内国勧業博覧会に出品された「別子鉱山之図」(国立科学博物館所蔵)にはそれが描かれ(左の図),明治14年の別子鉱山写真帳にも鮮明に写っている(上記写真)。
少なくとも明治10年には実用化されていたことが分かる。水源はやや上流の銅山川であり,別子鉱山の運搬路より低い部分に平行して木樋が走っていた。
ルイ・ラロック著別子鉱山目論見書248ページ
   明治以前に168㍍で中断していた小足谷疎水道は、慶応4年(明治元年=1868)に開さくが再開され、明治13年(1880)までに全延長864㍍のうち約613㍍が開さくされました。
明治13年(1880)に別子本鋪においてダイナマイトの実地試験を実施して好結果を得たことから、明治15年(1882)(1882)から小足谷疎水道開さくにも使用し、その結果、明治17年(1884)11月13日に貫通しました。寛政4年(1792)に開さくを開始して以来貫通まで、中断を経ながら実に93年もの期間を要しました。
その後すぐ、東延斜坑と連絡し、鉱石運搬にも使用することから拡幅工事に着手し、明治19年(1886)12月に竣工しました。    歓喜の鉱山25ページより
       
       
   別子開坑250年史話の中にも上記の写真と同じような写真がありました。
史話は昭和16年に発行されています。
家があります 坑口はこの家の後ろにあったのではないかと思われます。
前に処理場があります。
橋が架かって鉱水は対岸の収銅所に送られているようです。
鉱水路は高橋か あるいは もっと上から送られてきたようです。
   1966年 私が撮影した写真です。
接待館付近から撮影の小足谷疏水道の写真。
当時は別子銅山には全く興味がなく、風景写真のように撮影していました。
興味があったら、現場まで降りって行って、何枚も撮影している事でしょう。
現在は 橋はありません。木造の物はほとんど残っていません。
       
   別子銅山は歓喜坑から始めて 徐々に下へと掘っていきました。それまでも小さな水抜き間符はありましたが1762年代々抗が完成。続いて1776年寛永疎水道。1884年に小足谷疎水坑が完成。1902年第三通洞が出来。1915年第四通洞へとバトンが渡されました。93年の歳月をかけて掘削した小足谷疎水坑ですが第三通洞ができるまでのわずか18年しか稼働していません。
   全長940mの小足谷疎水道が完成するまでの三角からの排水は寛永間符から排出されていました。
三角の最深部の標高は668m 寛永間符は984m その差316mもあります。
箱樋により人力でくみ上げられていたのですが 小足谷疎水抗が標高907mで寛永間符より77mもくみ上げなくてもよくなった。 
     
     一枚の写真を発見した。
どこかの坑口と思ったが、わからないのでほったらかしにしていた。修復工事の完成後間もなしの物と思われた。
 
小足谷疎水坑を訪れた時、右の崖に「おやっ?」と思た。細工をしたような2段になっている。「これは?」

上の写真が小足谷疎水坑とわかったのであった。
何年ごろの写真かはわからない。しかしカラー写真であるので昭和40年代以降と思われる。
   
       
   
.わずかな隙間から見える「坑木」 入り口は石で塞がれています。
   正面に見える小さな穴が坑口です
大きさがわかりづらいと思い 人の写っている写真を載せてみました。小さいですね。昔は「抗」は「手掘り」でした 寛政4年(1792)に着工した頃はダイナマイトも無く 金槌とのみによる掘削でした。別子銅山は 幅2尺(約60cm)高さ3尺(約90cm)のいわゆる二三の銀切を採用していました。 ですから坑も小さかったようです。  
       
   
   小足谷疎水坑と一緒に見つけたこの写真ですが、坑口前にあった作業小屋ですね。1966年に撮影した同じものですがかなり破損しています。    作業小屋のあった所ですが、現在は何も残っていなく空地になっています。
       
 

2022/06/17