24 大和間符と大露頭
元禄4年(1691)の開坑と同時に開かれた古い坑口で原形をほぼ止めていると思われる貴重な遺跡である。開坑して3年目の元禄7年に峰の向う側の立川銅山から掘り進んでいた採掘場と大和間符の坑道が地中で抜け合った。立川銅山は西条藩の領地であったから鉱業権をめぐって大論争となった。

小さい方の坑口は2・3の銀切(60cm×90cm)と云って、水平坑道としては最も小さいものだが、先進坑道としては経済的であった。古い時代の鉱山は先ず地表に現れている鉱石を見つけることから始まる。それを鉉探し(露頭探査)というが、それが銅鉱石の場合だと大抵赫黒く変色している。技利きの山師は、その色や形状から鉱石の良否を判定していた。この露頭はいわゆる峰の巣焼けなので、上等の鉱石と判定されたのであろう。
露頭とは焼けのことで、地表に現われた銅鉱が数千年の永い年月の間に、風化作用によって酸化したものである。一見すると一度熔鉱炉に入れて溶解した粗銅のようにやや黒味を帯びている。
旧別子銅山には、今も数ヶ所に、昔のままの姿に露頭を見ることができるが、その代表的なものは、銅山峯から歓喜坑に下りて行く途中330mの地点にあるものと、もう一つは、銅山峯から牛車道づたいに西南に向かって約870mばかりも行ったところにある二つのものである。
別子銅山の鉱床は、厚さ1mから10mで、平均3mから5mに達しており、又、50度の傾斜をもって西北から東南へ向かって1520mに及んで走っている。元禄4年以来、掘り続けた坑道の延長は既に数百キリメートルに及び、又、海面下1000mの地点に於いて採鉱を行なっていると聞いては驚かざるを得ない。
   露頭(焼け)の話_「別子銅山」165ページ_合田正良著.より
大露頭は代表的なものですが、旧別子の山中には他にもある。
谷間坑の露頭  峰の露頭
銅山峰南斜面の露頭 これは鍰です。露頭ではありません。


詠み人 山口誓子
山口誓子が昭和32年2月15日 住友鉱山の招きで新居浜を訪れ、坑内電車で雪の別子へ吟行したときの作品のひとつです。
句碑は昭和34年4月別子事業所東平事務所前に建立されたが東平が閉山になり昭和45年に新居浜市西原町の住友金属鉱山別子鉱業所正門前に移設され現在に至る
句碑は工場内にあるため、一般人は入る事は出来ない。
雪中、俳人山口誓子はこゝに来て、人を生かし国を富ませ、ときに世を毒せしあかゞねのもつ不思議さに魅せられたのであろう。  あかがねの峰10ページ 伊藤玉男著

京都市出身の山口誓子はなぜ別子に関わっているのかと言えば高校時代から「ホトトギス」へ投句し始める。本格的に句作を始め1926年、東大を卒業後、大阪住友合資会社の本社(住友総本店)に入社。
住友合資会社では主に労務関係を担当していた。
しかし1940年頃、胸部に疾患が悪化し始め、1942年に勤続16年目で退社。
その後は俳人として活躍している。
平成6年3月26日午後4時。兵庫県西宮市苦楽園の自宅にて他界。 (92歳)

また 山口誓子は 惣開小学校の校歌にも携わっている
 作詞 越智武平  補作 山口誓子  作曲 山田耕筰