円通寺跡 別子銅山専用の墓所である。この谷の上段に広い寺床があり、 そこに銅山の頼み寺円通寺があった。正しくは雲谷山三業院 円通寺小足谷出張所で、本寺は別子山保土野にあった。大正5年 (1916)別子銅山が嶺北の東平へ移った後、大正8年(1919)火災に より焼失したため寺の機能は別子山白尾の南光院境内に遷された。 山内に眠る諸精霊の供養は今も続けられ、毎年8月初旬には住友 金属鉱山㈱始め住友関係者が登山して南光院住職導師のもと懇 ろな供養が行われている。 寺床と無縁仏の卒塔婆は別子銅山開坑300年を記念して平成 2年9月、住友金属鉱山㈱が建てたものである。 住友グループ |
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山道にある墓碑です。 台座は苔むして古いのですが 石碑は新しく立派なものです。 「奉為無縁佛各精霊菩提也」 「平成二年十月吉日 住友金属鉱山建立」 碑の後ろに新しい木の塔婆がありました。 毎年 供養されているようです。 掌をあわせて 円通寺跡に向かいました |
円通寺の案内板の所を右に登る道があります。この道は円通寺には行けません。 橋を渡って すぐのところを右に登る道があります。道しるべがあります。この道を3分ほど登ると 円通寺跡に行けます。 お墓の前を通ります。 粗相のないように通ってください。 |
1818年 文政 1830年 天保 1844年 弘化 1848年 嘉永 1854年 安政 1860年 万延 1861年 文久 1864年 元治 1865年 慶応 1868年 明治 1912年 大正 1926年 昭和 1989年 平成 |
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円通寺跡までの道中は墓地です。 無数のお墓が建立されています。 手厚く葬られた人々のお墓だと 思われます |
墓石には「天保九戌年十月九日」と記してあります今から170年ほど前のものです。 | ||||
お彼岸や お盆には 多くの人で賑わっただろうこの道も今は 枯葉が降り積もり 石は 苔むしてお墓は 荒れています。 昔の繁栄が偲ばれます。 | 墓地は平らな地面などなく斜面に石積で平地を確保しています その石積も永年の時を経て 何とか持ちこたえています。 どこかの石が外れると 音をたてて崩れ落ちそうです。 | ||
途中の道は補修されていて 歩きやすくなっています。 鉄柱と鉄板で作られたものです |
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卒塔婆が一本、まわりの斜面に並ぶ多数の墓を見守っている 寺床と無縁仏の卒塔婆は別子銅山開坑300年を記念して平成2年9月、住友金属鉱山㈱が建てたものである。 廻りの墓地には開坑以来大正5年別子撤退までの220余年の間に、山中で病に倒れ、災害に命を失い、 水害で没した幾多の霊が静かに眠っている |
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別子銅山は元禄四年の開抗から昭和 四十八年三月の閉山まで、住友によって 営々と稼行され、住友諸事業の源流とな り、住友各社発展の礎となった。 別子銅山二百八十二年におよぶ栄光は この山中に眠る諸精霊のご加護によると ころが大きい。 本年は別子銅山の開抗三百年に当た る。この記念すべき年に有縁無縁の諸精 霊の菩提を弔うため卒塔婆、供養塔を 建立するものである。 平成二年十月吉日 住友金属鉱山株式会社 社長 篠﨑昭彦 |
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ここ円通寺に残っているお墓の数は1000基ほどです。2000基ほどあったと思われる。 益友054巻11月号より | |||
旧別子撤退後、大正8年(1919)に円通寺の御霊は別子山村白尾の南光院の境内に移されたが、供養は今も厳かに続けられています。 歓喜の鉱山84ページ 円通寺の出張所は大正八年の火災で焼失した。その時、本尊と鉱石地蔵を南光院円通寺に移して廃寺とした 明治の別子25ページ |
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住友のマークの石(井桁マーク) これは、境界杭です。住友と他の地所との境界に建てられています。頭の所に井桁マークだあり下に漢数字が刻まれています。他の所に在る石は長さが1m位あるので、ここも多分そのぐらいあるかと思います。銅山峰までの道ではここだけしか見ることは出来ません。 |
「ここは900m付近 別子小中学校」 と書かれてあります。銅山峰までの間に標高100間隔に設置されています。高さの目安にして下さい。2022年5月に建てました。 |
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2022/06/15