(えんぎのはな)  
「縁起の端」と「延喜の端」両方使われています。
  どちらが正しいのでしょうか?

 この看板は「延喜の端」でした
延喜の端と書いてある本
  山村文化
  旧別子案内
  あかがねの峰
  あかがねの故郷
縁起の端と書いてある本
  別子銅山
  明治の別子
  歓喜の鉱山
  住友別子鉱山史
  旧別子案内
  新居浜史談
延喜の端には案内板が2つあります。
前山と牛車道
正面に見える範囲を前山という。稜線の窪んだ所が銅山越えで、そこから左に一条の線が見えるのは明治13年に造られた牛車道である。峠からジグザグに下った道が昔からの中持道で沢山の人々が行き交っていた。その下のヒノキ林の中には歓喜・歓東間符があり、辺り一帯は山方集落といって鉱夫さんが住んでいた。更に手前の雑木林の中には江戸時代に砕女小屋という選鉱場があって、ひねもす選鉱婦の嬌声がこだましていた。
更に手前の方は鍛冶屋谷集落といって、採鉱関係者の住居がひしめいていた。左の山肌にかすかに見える横線は牛車道の跡で、重任局の銅蔵を出発した牛車が2日がかりで立川精銅所へ粗銅を運んでいた。
案内板を通して銅山越が見えますが。木々が多くなり銅山越が見えづらくなりました。
ここ10年ぐらいの木の成長は目覚しいものがあります
 勘場と見花谷
正面の深い木立のある辺りが元禄7年(1694)以来銅山の本部である勘場があった所で、その下のほうが目出度町鉱山街であった。右の方で岩山の山頂が石垣で囲われているのが蘭塔場である。櫓太鼓のある勘場の右の谷は土持谷で、蘭塔場の裾を巻いていた牛車道は土持谷に架る永久橋を渡って勘場の表門まで通じていた。
左の谷は見花谷(喧嘩谷)、更にその左の谷は両見谷(了見谷)といい、あの急な山肌にしがみ付く様に製錬関係者の住宅が重なる様に建っていた。明治32年8月28日に来襲した台風で背後の山が崩れて山津波となり、見花谷は押し流されてしまった。当日の被害は全山に及び、513人という生命が一瞬のうちに奪われた。
*表門:勘場(重任局)入口に石積もの門があり、これを表門と称した
延喜の端はパノラマ展望台として360度の展望があったのですが、現在はさほど見えません。
目出度町も、三角形の山が分かりづらくなりました。住友共電の鉄塔がある所が勘場跡です
延喜の端は一番最後まで緑が戻らなかった所です。下の写真でも分かるように延喜の端だけ丸坊主です。煙害と思われるでしょうが、そうではないようです。今は一番上の写真のようにごく一部が赤茶けていますが。ここも時間の問題で緑に帰るでしょう。原因は焼窯です。歓喜間符にほど近い距離にあったので、延喜の端一面、裾野まで焼窯で埋め尽くされていました。下の絵図出もわかるように煙がもくもくと上がっています。採鉱現場が東延に移るまでの200年あまり、休むことなく火が燃やされていました。砂漠よりもっと酷い状態の土地では無かっただろう。時間がかかりました。
峰田保氏撮影 撮影年月日不明  昭和30年代と思われる。
昭和28年8月26日 和田義邑氏撮影 上記のカラー写真より古い写真です。3枚共に現在も使われてる登山道が写っている。今は周囲の景色が見えないほど木々が茂っている。
焼鉱炉(焼き窯)
鉱石と薪木を炉に入れ風孔より点火后、薪がもえて火が鉱石に移るのを待って、風孔を閉じて、時々水を注ぎながら60日位焙焼(むし焼き)にすると、鉱石(含銅硫化鉄鉱)中の硫化物は酸化物とSO2ガスに変り、鉱石中の砒素やアンチモンは蒸発して焼固まり塊状となる。
焼鉱1,000kgに対し鉱石1,330kgと薪木530kgを要した。
旧別子銅山案内5ページ

3ヵ所煙が上がっている。焼き窯があった、延喜の端・木方・東延である。最盛期には旧別子全体で350口の焼窯があったと記されているから山全体が煙に包まれていたかも分からない。
焼窯(焼鉱炉)
縁起の端を 山のほうに行く道があります。進んでいくと1~2分で分岐になり右に進むと焼窯があります。
左の階段を登ると5分ほどで歓喜抗に行けます。 このような焼窯は旧別子に3ヵ所残されている。奥行きが短く、円形の炭焼き窯とは構造が違う。