小足谷収銅所・堆積場                         
 
     
   この案内板の写真が「あかがねの故郷」にありました。住友金属鉱山発行の本の写真です。
この写真の説明をします 
①の場所は接待館です 煉瓦塀が見えます。
②の池は小足谷堆積場です。下記で説明しています。道があります
③④は写真で説明します
⑤人影が見えます。池の大きさが分かります。
⑥写真で説明
       
   
  上記写真の現在の様子です。だいたい同じ位置をと探したのですがご覧のように木々が覆い茂り場所が特定できません左上に松の木が見えますが ここが接待館跡です。この写真は山神社の辺りから撮影しました。    「収銅所は対岸にあった」と言うことは冬によく分かります。木々の葉が落ち周囲が見渡せるようになるとご覧のように対岸に収銅所跡が見えます。今まで何度となく通った道ですが気がつきませんでした。
   接待館跡付近から撮影
     
   小足谷収銅所を探険   と思ったのですが、順路としては小足谷堆積場から行ったほうが、行きやすい 
       
   先に  小足谷堆積場  
     Google Earthから頂きました
小足谷堆積場だけが鮮明に写っています。ですが現地に行くと、登山道からは木々の隙間から わずかに見えるだけで、説明がないと見落とします。
       
   
   赤い矢印のところから 谷に降りる道があります。
目印になる物は無いのですが、ここです。
  現在も使っているメンテナンス道です。しっかりしていて 危険もありません。 
       
     
   2分ぐらいで谷まで降りることが出来ます。    Google Earthでは この部分が白く見えていたのです。
 右が堆積場です
       
     
    堆積場に降りてみました。
     かなりの広場です。
       土の色は黄土色でした。

旧別子の鉱水は最終的にはここに集められ石灰で中和された後、足谷川に流されました。しかし不純物は沈殿されそのままになっています。いまも堆積場は管理下におかれ住友金属鉱山がメンテナンスをしています
 
 
 
  堆積場内からのパノラマ写真   檜や雑木が大きくなり茂っています。左の山ぎわの石垣は崩れている所がある。
   山村文化19 高橋幹氏の 「小足谷収銅所」を特集より    
       
  沈澱池の略図である。不整形をなし、長径は約70m、短径は約20mもある。    
  周囲は全て石垣造りで、沢側はコンクリート目地、山側は空目地である    
  沈澱池の底には、茶褐色の土が厚く堆積している。    
  50センチ程掘ってみたが、その底部を確認することは出来なかった。    
   収銅所を探索    
   道はありません。 どうしても行きたい人は参考までに記すると 
   ① 「小足谷疎水道」から川を渡り 崖をよじ登る
   ② 小足谷堆積場から藪を歩く
   
       
       上部の写真 ③の場所です
収銅所の下流の端になります。
煉瓦の囲み枠が折れていますが
まだ落ちてはいません。
ここから下流にある「ドベ溜」まで
(今は小足谷堆積場と言う)
木の樋にて送っていました。
樋はほとんど朽ちているが
まだ一部確認できる所がある。
       
     
   収銅所の排水口。少し傾いています     木々が茂り 夏は向こうが見えないぐらいになる。
       
   
   落ち葉が堆積しています。   内部の煉瓦も崩れかけていました。
   
     
  銅の里_31ページに掲載されているモーター。今も同じ場所にあるが後ろにあった木が成長しモーターを取り込んでしまっている。時間が止まっているように思えるが、成長もあり、風化もある。
       
       
   山村文化19巻38ページ の鉄片の写真 全く同じところに同じように積み上げられている  
       
       
   山村文化19巻38ページ 産業遺産になるのだろうか? いずれは朽ち果てる。   
       
   文献から    
   山村文化21号 37ページ 伊藤玉男著    
   明治17(1884)年に三角の水を干すという執念で開削した疎水坑が貫通して、坑内水が排出された筈なのに収銅設備が設置されたのは10年後の明治27年である    
   小足谷収銅所というのは不可解なところがあって、明治27年造成以来第二次大戦後も収銅作業をしていた筈なのに、澱物(沈澱銅)をどうしていたのか後を追うことが出来ない    
       
  山村文化19号 35ページから41ページにかけて別子銅山の遺跡Ⅱ(平成12年5月発行)と題して高橋幹氏が 「小足谷収銅所」を特集されています。私の知る限り最も詳しい文献なので少し紹介します    
       
  湿式収銅法とは、硫酸銅を含む鉱水の中に鉄片を入れると、鉄片の表面に銅が沈着することを利用した収銅法である。この方法を使うと、従来は貧鉱として破棄されていたものから銅を採ることが出来、かつ収銅の過程で硫酸を製造することも可能である。
具体的には、鉄片を入れたトイ式置換槽と杉の葉を生け垣状に並べた箱式沈澱槽を組み合わせ、緩い傾斜をつけて一定の速度で鉱水を流し、鉄と杉に銅を析出させるのである。
   
  明治31年末、 小足谷疎水道の廃水を坑口対岸に導き、石灰を以て中和したる後銅山川に放流せり。
明治32年4月、沈澱銅採収のため小足谷疎水道内に沈澱箱を設置して、鉄沈澱法に依り銅分抽収せる 後、
         石灰に依り中和して放流せり。
明治35年9月、第三通洞貫通し次いで東平及び山根の沈澱装置並びに坑外水路完成
明治38年11月 端出場ー新居浜間の坑水路完成 排水は新居浜の海中へ放流
明治39年、   小足谷及び寛永谷に於ける坑水処理装置を廃止せり。
   
  小足谷収銅所は寛永谷収銅所同様に、極めて短命であったことが分かる。(当会員の山川静雄氏の記憶によれば、昭和20年代後半に、小足谷収銅所の一部で細々とだが、作業が行われていたらしい)しかし今、小足谷の収銅所跡を訪ねると、これが僅か10年足らずしか稼動しなかった遺跡かと疑問に感じる程、巨大な規模を誇っている    
       
       
  収銅所再開について    
  小足谷坑水処理は、明治39年に廃止されたが昭和12年に再開して
昭和43年の東平休止の直前まで処理をしていた。
   伊藤浩 「別子銅山の坑水処理について」より
   
  なぜ昭和12年からもう一度使われるようになったか?
二代採鉱(凍山採掘とも言う)が大正末期から行われており、昭和7年10月に東延斜坑が火災で使用できなくなる。昭和10年太東索道を架設して新太平坑から出鉱し、東平へ直接搬送するようにした。新太平坑は歓喜坑以西の二代採鉱のために大正15年から徐々に取り明けていたものだった。特に東延周辺で進められ、鉱水が流れ出るようになり、その水の処理を小足谷で行う。
   
       
  写真で見る鉱水路    
 
  東延の高水路 東延谷を渡る  東延
 
  高橋病院跡 小学校 小足谷収銅所
   小足谷収銅所の実測に基づく略図    素人の私が図ったので参考までの図面としてください
     
   拡大出来ます    
       
 

2022/06/25