大和間符と大露頭
元禄4年(1691)の開坑と同時に開かれた古い坑口で原形をほぼ止めていると思われる貴重な遺跡である。開坑して3年目の元禄7年に峰の向う側の立川銅山から掘り進んでいた採掘場と大和間符の坑道が地中で抜け合った。立川銅山は西条藩の領地であったから鉱業権をめぐって大論争となった。
小さい方の坑口は2・3の銀切(60cm×90cm)と云って、水平坑道としては最も小さいものだが、先進坑道としては経済的であった。古い時代の鉱山は先ず地表に現れている鉱石を見つけることから始まる。それを鉉探し(露頭探査)というが、それが銅鉱石の場合だと大抵赫黒く変色している。技利きの山師は、その色や形状から鉱石の良否を判定していた。
この露頭はいわゆる峰の巣焼けなので、上等の鉱石と判定されたのであろう。
「大和間符と大露頭」の看板大和間符と大露頭は10mぐらいしか離れていないため1枚の看板ですませている。
大和間歩は明和元年まで稼行していたという。    住友別子鉱山史上巻 172ページ
大和間符は日本一です。
「日本一」と言うと、いぶかしい顔をする。そりゃーそうだろう。今にも潰れそうな小さい坑口を目の前にして日本一とは?。「鉱石を掘り出した日本で一番高い坑口です。」と説明すると納得してくれる。
金鍋坑第2坑 1310m
  金鍋抗は出鉱していない。
大和間符本坑 1290m
西山間符 1280m
 となっている。
間符とは概して江戸時代の古い呼称で坑は新しい呼び方。高い所は初期に採掘したので間符が多い
別子銅山で間符と呼ばれているのは
 歓治間符 天満水抜間符 東山間符  中天満間符   長榮(永)間符 大伐間符 天満間符 床屋間符  大和間符 西山間符  自在間符 恵比須間符  大黒間符  金栄間符  都間符 長尾間符  寛永間符
大和坑
大和坑は、歓喜坑より北側の旧立川銅山に接する附近の鉱体を採掘し、大和坑口から鉱石を搬出する主要な坑道であった。坑口は二つあり、一つは排水坑であると記録されている。しかし、立川銅山合併後は休坑になっている。
その後も通気、排水は自然条件下で行われていたであろう。南側・大和坑と北側.大黒坑とは切羽がしばしば貫通しためで、合併以前の両銅山は境界をめぐってその度に争議を起こしている。最初の貫通は元禄8年(1695)であったと言われる。元禄10年には銅山峰・南北分水線を両者の境界とする幕府の裁定を得たものの、元禄16年、宝永元年(1704)、宝永4年、宝永6年、正徳2年(1712)、正徳4年等の貫通事件が報告されている。
大和坑と大黒坑の貫通は、板状の鉱体を採掘する切羽で起こったことである。
旧別子時代に採掘した露頭附近から三角(切羽名、後の第三通洞水準附近)では、鉱体は走向N60度W、傾斜45度~50度N、落としN75度E前後、鉱体の厚さ2.5m±程度の板状である。このような鉱体の中で、両者からの境界侵入による貫通がしばしば起ったことを考えると、鉱体の高品位部分を「狸掘」した結果、そのようになったのであろうと想像される。その掘り方は、「芋蔓形状」の鉱体を掘るように行われたのではないかと思われる。この時代に描かれた坑内状況図、特に、嘉永2年(1849)に描かれた「別子歓東・立川歓喜當用鋪内大略図」資料34 は、そのことを思わせるのに充分な図である。
   鉱山技術・別冊「間符」
鉱山技術・別冊「間符」
大和 1695, 1697, 1702, 1703, 1704, 1707, 1709, 1713, 1715, 1739, 1761,
1769休, 1804休,  1837休, 1865休
大和 1702水
  大和間符の稼働年が記されてあった。
大和間符本坑
坑口は小さい。歓喜間符を見ているから、そう思うが 本来二三の銀切と言って一般的な大きさでした。坑口は閉塞されていて中を覗くことが出来ない。閉塞される前に入った人の話によると、すぐに斜坑のようになって下るそうです。

石の隙間からカメラを向けてみるのだが、何度挑戦しても上手くいかない。

上手く撮影出来たら 報告します。
大和間符東坑
場所 大露頭の手前東側付近(2尺x3尺銀切)
特徴 空気が噴出しています意外と知られていない坑口です 夏場は 草が覆いかぶさり わかりづらくなります 今も空気が流れ出ており 坑内の匂いがします。 「本当にこれが坑口?」と思うほど 小さい穴です。
大和間符疎水坑
特徴 大きく坑口が開いている 入口は藪です。耳を澄ませば 水滴の落ちて 水たまりに着する 水琴窟の音が聞けます。 本当は良い音色なのだろうが 一人で洞窟の前真っ暗な洞穴を見ていると 不気味な音にも聞こえます。 太陽のきらめく日中に訪れてください。
大和間符中坑 大露頭の手前西側の窪地辺り? 文献にあるが発見されていない。
立川銅山と別子銅山が坑道内で出会った。
大和間符の標高は約1280m、
大黒間符の標高は約1240m
銅山越が1294mですからほとんど峰に近いところを掘っていました。
坑口間は 直線で約300mぐらいです
国領川の一番下流の橋 新高橋の長さぐらいです。
鉱脈たいし鉱床の採掘方法は、古くは地表近くで姑息的になされた「立穴掘」から、地中深く下る「犬下り掘」へと変化し、江戸時代になると「廻り切」または「銀切」という工法が採用されるようになった。この方法は鉱床を水平に追っかけたり、あるいは坑内水の排出も兼ねて水平な坑道を掘ることを意味していて、同じ工法でも斜めに上ったり下ったりする坑道は「切上り」とか「切下り」と区別して呼ぶのが一般的だった。「銀切」は「犬下り掘」に比べて長所もあれば不利た点もある。「犬下り掘」は緩やかた勾配で掘り下るので掘削はし易かったが、地下水のある処では排水に苦労せざるを得たかった。その点「銀切」では水の問題はなかったけれども坑道が低いので、鉱石や支柱材の運搬には適しているとはいえなっかた。繋と鎚で岩石を少しずつ欠き取っていた時代には、坑道を拡げて掘進することは経費と工程の面で得策ではなかった。「銀切」の加背(断面)は高さが三尺(約90cm)で巾が二尺(約60cm)が普通で、これを「二三の銀切」といった。このような人が立って歩くことの出来ない坑道でも、斜めに傾斜させたらどうなるか。巾は二尺と変らないが、鉛直断面の長さは勾配に比例して増えるから人の通行が容易になるのである。
立川銅山もそうであったと思うが、別子銅山の古舗(旧坑)を見るかぎりでは水抜坑以外は銀切の跡は非常に少なく、筆者らの旧坑調査(上部探鉱・昭和31年)では、手掘時代の旧坑では坑ロからいきなり「切下り」になった坑道が多かった。この事実から推測して、大和間符と大黒間符の抜合は坑口の高さには関係なく、また掘場(採鉱場)が抜け合ったのなら尚更のことで、要するに一枚の鉱床を山の向こうとこちらから掘るのだから、どこかで抜け合うのは当然で、ことさらに坑道の名にこだわることもないのである。
抜合地獄榜示という古い鉱山用語がある。これについて泉屋叢考は抜合場所を禁区として、これよりある距離をおいて双方が榜示を立てることだろう、と解説している。つまり地下における境界に緩衝帯を設けるという方法である。
この時代、一つの鉱山の採掘を請負う鉱山師は必ずしも一人ではなかった。というよりも複数の鉱山師に請負わせて生産量を競わせ、また今日の入札形式をとって運上銀の増額を図ったとも考えられるのである。坑間が抜け合えばその都度境界坑を立て、それぞれの守備範囲の内側を採掘すればよい仕組になっていたが、これはあくまで同一領主の下での稼行であって、別子鉱床の場合はそれは許されなかった。天領(幕領)と西条藩領が接するその地下では一寸たりとも他領を犯してはならなかったのである。従って、別子・立川両銅山の坑間抜合は、抜合地獄榜示などでは解決する筈もなく、これがきっかけとなって一大紛争へと突入するのである。
坑間抜合事件は当事者である両銅山は勿論のこと、紛争がエスカレートするに従って別子.立川両山村の村役人から百姓衆までが事件に巻き込まれ、やがて泉屋では立川銅山を相手どって江戸の評定所へ訴訟を起こすまでに発展していった。
この境界争いに関わる諸問題について泉屋叢考第拾七輯は、実に詳細にわたって考証を行っている 多分 豊富史料に加えて現地踏査も一役買ったものと思われる。従って、この抜合事件の大要について筆者は特に疑問に思う部分はないが、分水嶺にある複雑地形が紛争の要になっているのは間違いないと思うので、泉屋叢考第拾七輯を補足する意味で若干の考察を試みることにする。
銅山峰は東山と西山の間が舟底型に大きく弧を画いていることから舟窪の峰という名がついたか あるいは峰筋に幾つもある空池を想わす窪地があることから名付られたのか、それを証す史料も伝承もないが、ともかく元禄のはじめ、この窪地を指して舟窪と呼んでいたのは明ら銅山峰には数箇所に舟窪地形があり、従って峰筋の地形は複雑である。窪地(凹地形)があれば当然のこと蒙らその周りの地形は盛り上っているので、この地点ではどこが本当の尾根筋か判らたい。例へば東舟窪は東から来た尾根が舟窪の南側で消滅し、西からの尾根は北側でなくなってしまう。変形的な二重稜線だ。「峰水流」、つまり分水嶺を正確に線で示すとすればその表現は難しかろう。しかも、それが利害の絡んだ境界たら尚更のことだ。大和間符と大黒間符の間にある舟窪などは東舟窪にも増して判定しにくい地形である。別子・立川両銅山の坑間抜合はこの凹地形の直下で起きたのだが、まさに起るべくして起ったとしか言いようがない。
走向・傾斜という地質用語がある。これは地層がどんな形状で分布しているのか決める目安となるもので、例えば別子の鉱床は、走向が北から60度西へ振った方向で、傾斜は地表付近では45度ほど北東へ傾いて分布している。そんな地層の状態を表現する用語だ。鉱床の走向、傾斜がそうだとすると、分水嶺の方向がほ父東西であるから、鉱床という一枚の板が約30度の角度をもって稜線を斜めに横切っていることになる
   (図4元禄中期の別子・立川銅山関係図)。
図4では露頭線が曲りくねっていて板の水平断面の直線ではないが、それは鉱床が北東へ45度ほどの角度で傾いているからで、地形と断面の切線は様ざまに変化しているのである。従って、別子の鉱床は地中に垂直に潜っているのではないことをまず理解しなければならたい。そして次に頭に入れておかねばならないことは鉱床と分水嶺が斜交していることである。開発後間もたい頃の別子銅山では、鉱床の落し(地下深部へ向けて伸びた鉱床の方向)が走向に対して直角だと考えていた。つまり傾斜方向へ鉱床が伸びていると思っていたのである。既に述べたように1500mもある鉱床のうち、その三分の二が分水嶺の南側に分布し、泉屋の別子銅山に採掘権があったが、それは地中深く掘り下げるに従って立川分になってしまうから、泉屋の採掘範囲は次第に狭まると見ていた。地表近くで立川の主張する抜合地獄榜示を否定しておきながら、地下深部では立川側へ越境してでも採掘しなくてはならない矛盾を抱えていたのである。
図上破線は1250mの高さにおける鉱床の位置である。これはほゞ大黒間符の高さで平均的走向を示していると見てよい。
最初に坑間抜合が起きたとき、立川側は別子側へ50間(約90m)ほど掘り越していたという。仮りにこの抜合箇所の位置が大黒間符の地並であったとしたら、大和間符の直ぐ側ということにたるが、ずっと深い所ならどうなるだろうか。鉱床の傾斜を考えれば利は立川側にあ
る。深鋪(地下深部の坑道)ならいざ知らず、未だ排水の苦労もない新山である。つまり採掘条件の良いこの位置での100mにも及ぶプラスとマイナスでは損得勘定は莫大なものだ。地中での境界をめぐって別子と立川が互いに異った思惑で自説を曲げなかったのも、けだし当然のことだったと思われるのである。
地中での抜合論争は、坑間が抜け合ったその直上が地表面でのどの位置に当るかに落ちつく筈である。そこで登場するのが庄屋に保管されている文書や百姓衆の証言であった。
一抜合論争の焦点は峰水流(分水嶺)が村境であるとする別子山側と、延宝50年(1677)に建てた御札場(高札)が境界であると主張する立川山側との間に妥協点が見出せるかどうかにあったかと思われる。両方の百姓衆まで巻き込んだこの争いは、何故か二者択一のま三推移し、抜合地点付近での採掘が中断されたまゝの状態に業を煮した泉屋では、元禄8年8月遂に江戸の評定所へ訴訟をおこしたのである。この訴訟文の大意は次のようになっている。
元禄4年5月から莫大た資金を投入して苦労の末、やっと順調に銅が生産できるようになった、ところが近頃になって立川銅山の堀場が次第に近づいてきて、何度も警告したのにもかゝわらず遂に50間も別子銅山側に掘り越して坑間が抜け合った。この件について別子.立川両銅山の山役人が立合って検分した結果、立川側は西条領の内側まで退って掘るように指示したのに、それを聞き入れるどころか逆に京都に上って代官に直々に訴状を差出す結果とたった。その訴状の中で立川の銅山師は、坑間が抜け合った場所毎に境杭を立てるか、抜合地獄榜示とするか、あるいは地上の村界の直下を境界とするか何れかを指示してもらいたい。但し、村界は舟窪の峰に限り峰水流ではなく御札場である。と勝手なことを申し上げている。
しかし、別子と立川は同じ鉱床でも領主が異なる故、やはり領地境を以って坑間の境とし、村境は別子山村の百姓の証言通り峰水流である。幕府に差出した泉屋の訴状は相当長文である。これを筆者なりに吟味してみて、立川銅山側の言い分は必ずしも無理難題だとは思えない節がある。それはまた後で述べるとして、立川側が折衷案を出すことなく頑たに御札場を村境と主張した裏には、筆者の坑内調査の体験から次のようたことが想像できるのである。
大黒間符は鉱床から少し上盤(鉱床の傾斜面を基準にして上面側)に離れた位置に坑口がある。坑口から三四の銀切(三尺×四尺)を20mばかり下盤へ向けて進むと鉱床に当る(これを甲抜といった)。そこからは鉱床を忠実に追っかけ銀切が延ぴている。これを更に4、50mも進むと所どころ採掘跡らしき形跡があり、その先は崩落していた。そこはもう分水嶺の直下に近いと思われるが鉱床は殆ど焼けて(酸化して)いて、生の鉱石を見ることは出来なかった。多分幾らかは焼け残り(未酸化部)もあったのだろうが、それはずっと昔に採掘してしまったのだろう。南斜面の別子側に比べて北斜面の風化作用は著しく、従って酸化帯の巾も予想をはるかに超えて広範囲だった。
大黒間符の高さで、立川側が別子側のいう通り水流れ峰境(分水嶺)まで後退するということは、鉱石の採掘場がたくなってしまうということでもある。何がなんでも御札場を村境にしようとする立川側の論拠はこの辺りにあったのかと思うのである。
さて、立川銅山が主張する問題の御札場とは何処にあったのか探りを入れてみなければなるまい。領地境の峠に御札を建たのは西条領から幕領に侵入して盗木などの不法行為をしてはならないとの警告の意味からである。そして、問題の御札場だが、元禄8年の別子山村庄屋・組頭口上では「右山道之義沢山之事二候得ハ」とあるから、情景としては広い台地状の尾根筋に幾通りも踏み跡があったのだろう。その中でほゞ中間点で見通しのよい所を選んで両村の役人や百姓合意のもとで建てられた。と考えるのが極く自然ではあるまいか。
ところが別子銅山が開坑して様相は一変した。御札場をめぐっての争いは坑間が抜け合った時点で突然起ったものではなく、実は元禄4年の秋に別子山村側が北西方向に40間寄った処に高札を移動して建て替えている。このあたりの両村あるいは両銅山のやり取りは元禄8年2月に書かれた「大町村金右衛門口書」や「別子山村庄屋・組頭口書」(別子銅山公用帳一番)に詳しく述べられている。それを要約すると「元禄4年秋、別子銅山の上役河野又兵衛が別子山村庄屋長右衛門と組頭の仁兵衛を呼び、御札場を又兵衛が指示した処へ移動する様中し渡した。そこで泉屋の手代勘右衛門の案内で現地へ行き建て替えてきた。ところが翌年(元禄5年)の春、西条領内の立川山村庄屋から別子山村の庄屋の方へ使いが来て、昔からあった御札場の位置が変っているので元の所へ戻してもらいたいと申し入れて来た。そこで長右衛門はその旨又兵衛に報告したが、又兵衛はそのまゝにしておくように、とのことだった。
ところがその年の7月から宇摩郡を支配する代官が平岡吉左衛門に代った。(そこで新任の代官の慣例として)翌6年御札を建てるとき、別子山村の百姓衆が、先年からの立川側の申し入れを放置したまゝでは如何なものか、と役人に進言したので、役人衆相談の上先年からの場所へ戻すことにたり、元禄6年秋、立川山村、別子山村庄屋、組頭ならびに大町村金右衛門(寺尾九兵衛の代理か)立合い、元の位置に戻した」 というのである。
ところがその後、別子銅山では村の境界はあくまで水流れ峰境で、御札場は単に盗木人への警告標識に過ぎないことを主張するわけである。おそらく泉屋では開坑の時点で既に坑間抜合のことを予測して、この対策を考えていたのであろう。
北西へ40間移動させた御札場の位置は現在の市郡界線上の何れかの地点であろう。だとすれば、逆にその地点から南東へ40間寄った処が元の御札場でなければならない。先に述べたように大黒間符は少なくとも50mは水平に延ぴているのだから、ほ父現在の市郡界の直下と考えてもよかろう。そこからは緩い犬下りで延びていたとして50間余りの処で抜け合ったのだから、図上でほゞ×印付近が地上での位置になる。そこから10間余り後戻りした点は△印付近となり、その位置は偶然かも知れないが空池状の窪地の南の縁に当っている。そこから北西へ四〇間はほ父現境界となり、○印付近が別子山村が移動して建てた御札場とすれば、ごく自然に辻褄が合ってくるのである。
   まだ続きがあります。詳しくは   あかがねの峰新_伊藤玉男125ページより
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別子・立川銅山鋪内抜合事件
元禄8年(1695)4月25日、別子銅山大和問歩と立川銅山大黒間歩が鋪内で抜け合った。そこで別子側は代官所、立川側からは西条藩より派遣されている銅山役人が立ち会い検分し、大和・大黒両間歩の四つ留口を封じて、追って沙汰あるまで両間歩の稼方中止を命じた。
これに対し山師からはそれは迷惑であると申し立てたので、別子側銅山役人より、別子側は抜合いの場に封を付け、立川側は明り境目より別子領へ50間(90m)ほど掘り込んでいるように思われるので50間ほど退いて封を付け、封までの場で採鉱するよう指示した。
明りの境とは地表の境で、両銅山の境界、また宇摩郡別子山村・新居郡立川山村(現・新居浜市)の領界をいうことになる。立川山師はこの指示に不服で、京都へ上り代官あてに、鎚先抜合いごとに境とするか、抜合地獄榜示とするか、また明りの境によるか、三つのうちいずれか仰せ付けられたいと、願書を提出した。代官は伊予代官平岡吉左衛門であろう。抜合地獄榜示とは、抜合いの場を禁区としてある距離をおき、双方榜示(封)を立てることらしい。これに対し別子側からは、鎚先抜合いや抜合地獄榜示は、同領知内の鉱山において幾人もの山師が各個に稼行して抜け合った場合の仕法であり、それは運上が同一領主へ上納されるからで、別子・立川の場合は領分が別であり、明りすなわち地表の領界を採用されるよう申し出た。代官は双方の銅山役人・山師(代表)・別子山村立川山村の百姓が立ち会い検分したうえ、江戸(評定所)へ伺ってその結果を申し付けるとした。
立川山師は金子村(現・新居浜市)の弥一(市)左衛門、西条藩の立川銅山出役は矢野十郎左衛門ほか一人、別子の元締は前年火災で殉職した助七のあとを承けた平七、銅山役人は上役沢田新助・赤木直右衛門である。別子山村・立川山村の境界決定両村の領界について、両村村役人の主張が相違していて、評定所において対決も行われ、元禄9年(1696)9月江戸から検使も派遣されて、翌10年閏2月評定所の裁決があって両村の境界は分水線をもってすることに決定した。
別子山村の主張は水流すなわち分水線を境とし、立川山村の主張は延宝5年(1677)に別子山村など松山藩の御預り地より代官支配となったとき、盗木人などが出入する道筋に立てられた高札場、それは西条藩領の大永山・立川山・種子川山(以上現・新居浜市)・上野(現・土居町)諸村より別子山村へ通ずる道筋にあるが、それを境とするというのである。分水線が境界と定まると、立川側は59間(1062層)余も掘り越したことになり、別子側よりそれを指摘したのにもかかわらず承引(承知)しなかった不始末をとがめられて、弥一左衛門や立川山村庄屋は入牢を命ぜられた。
境界には西は三の森東の窪から、東は船窪の東方30間余のところまで、この距離17間、この間に西から数えて1番より45番までの分杭を立てた。また鋪内には抜合場所に両検使名を記した分杭を立てたが、これは6番分杭から2間3尺5番分杭のほうへ寄った順当にある。順当とは地表の位置に相当する地下の地点をいう。この鋪内分杭から別子・立川ともに2間ずつ後退して鉄格子を入れた。別子側大和間歩四つ留口から分杭まで93間ほどの距離であるという。その後の鋪内抜合い元禄10年(1697)閏2月以後同15年中までに、抜合いは少なくとも4回は起こっていて、そのつど両山のものが立ち会い、境を定めて格子や分杭を立てたようである。それは分水線境界に立てられた分杭を基準としたものであることはいうまでもない。
立川は弥一左衛門入牢後、同じく金子村の新五左衛門が請け負い、元禄14年4月から京都銭座長崎屋忠七ら3人が稼行した。京都銭座は糸割符仲間が鋳銭の幕許を得て組織したもので、立川の請負は鋳銭料銅の調達を主な理由としている。平野屋藤七が山元で支配に当瀕たって、別子側と交渉を重ねた結果、元禄16年7月双方で掘り越した分の鋪を返還し、これまでの鉄格子・分杭と地表分水線を測量考査し、別子の元締金右衛門と藤七が立会いのうえ、鋪内に境杭五か所を立てた。
    住友別子鉱山史上巻84ページより
  ダイコクマブ
      2015年06月17日
‎2013‎年‎8‎月‎28‎日 2014年06月20日
大黒坑は北側に位置する主要坑道であった。坑口の標高は北側で最も高く、採鉱切羽を設けて採掘し出鉱した坑道である。採鉱・運搬の機能は標高の低い都坑に移り、後、通気専用の坑道として機能している。
大黒坑は南側の大和坑に近い坑道であったため、立川銅山時代には、別子銅山との境界をめぐる争いが、しばしば発生した坑道であった。
開坑当初は出鉱坑道であったが、後、通気専用に変わった間符大黒、都の2坑道である。
合併後通気専用の坑道に変わっている。
   鉱山技術・別冊「間符」
立川銅山に関する遺構は殆どなく、わずかに寛永谷周辺に点在する大黒、都、大平、寛永間符の坑口と、宝3年(1706)上野山奥深くに一部移転された焼窯群くらいしかあげることができない。
この原因として、立川銅山の稼行主が頻回に交代し、別子銅山のように永代稼行ではなかったこと、立川銅山の石垣にいたるまでの諸設備が吸収後の別子銅山のものとして利用されたことなどがあげられる。
山村文化1号24ページ 立川銅山道を探る より