劇場跡                                
登山口からの所要時間 30分 
 
    土木課(劇場)と山林課

別子銅山の近代化が軌道に乗りだすと、採鉱・精錬の生産部門
と平行して、それを支える部門も増強されていった。つまり
製炭と土木部門が大きなウエイトを占めるようになり.明治10年
頃にはこの辺りの用地が造成され明治14年(1881)には、ここを
起点とする車道が中七番まで開通し、果多しい坑木や建築資材・
木炭等が牛馬車によって運び込まれた。明治22年(1889)山林係が
山林課に昇格し、左の石垣群が山林課、右の広い造成地が士木課
になった。土木課では明治22年に棟行20間、桁行10間、下屋を
入れて延べ350坪もある巨大な倉庫を建てた。明治23年5月の
別子銅山200年祭には、ここを劇場として開放し、上方から歌舞伎
の名優を招いて盛大に祝った。以来、ここが毎年5月の山神祭には
劇場として使われ、山内唯一の娯楽場となっていた。 
       
       小足谷の劇場である。右下の緑門には井桁がデザインしてあり、山根製錬所のものとは違った趣がある。
劇場は二階建で、その中央入り口には国旗があり、左端には吹き流しの幟、軒下には祝い提灯と、祭典の様子を伝えている。
建物周囲の張り紙は、かすかに「劇場」と読め、中央入口左右の人物は役者らしい。劇場の周囲には防火用として、龍吐水と水桶が並んでいた。その後、この建物は山林課・土木課の事務所としても活用された。
  住友史料館報29号 45ページより
   「劇場」と称します。東平と四阪島と筏津にもこのような大きな施設がありますが共に「娯楽場」と呼ばれています。 
日本に映画館が出来たのは明治36年ごろであり、映画など上映などできる施設は娯楽場呼ばれたのでしょうか。 お芝居などが中心の施設であり、使われない時は、事務所や倉庫として使われてと記してありました。
       
      現在の現地を実測してきました。上の図と比べてみると大きな差はなさそうです。
不思議なのは幅6mもの広い階段です。玄関が左です。右には楽屋口もありませんが。なのに階段だけ広い。設計者に訪ねてみたいですね。
       
   この広い石段は存在感がある。  
   
       
   
       
    鉱山で働く人々のために別子銅山では色々と慰安のことを配慮した、しかしながら山また山のこの地では劇場のほか適当なものが考えられない。そこで小足谷小学校と並んで道路沿いに大劇場を建設した、即ち収容人員一千人を越すと云うものであった。
大きなこの建物の中には土木課と山林課が併設されていた、住友に於いては、年数回大阪から歌舞伎芝居を呼んで披露し、鉱山で働く人々を慰めるのであった。この頃は平坦部に於いても劇場らしいものがなく ためにこの劇場の催しの際は新居浜、宇摩郡方面から態々山坂を越えて見物(観覧)に来るものさえあった

別子銅山217ページより
       
       60年の昔は、鉱山で働く人々の最大の慰安の場であった大劇場の跡も、今は数々の樹木が茂り足を踏み入れることすら困難である
別子銅山219ページより

この本は昭和49年12月 合田正良氏が書いたものである。当時の 旧別子の現状は荒れ放題だった事が伺える。


←1966年(昭和41年)の劇場の階段
藪であった
葉が茂ると 階段は見えなくなった。
       
    
   実は この階段には歴史があります。
上の写真はこの階段で撮影されたものです。明治23年別子開坑200年祭記念に撮影された写真。この写真には60人が写っています。このように撮影された記念写真はあまりありません。この200年祭のとき もう一枚記念写真が撮影されています。場所は惣開接待館 28人しか参加していません。
この時 友忠18歳 学習院の学生  一番前の子供は13歳 光村利藻と言い 後に写真師となり「別子鉱山写真帳」を残した。
   
  劇場跡からの道    
       
  2枚の地図は「明治の別子」(伊藤玉男著)の中に掲載されています。赤線で記している道は 絵図の通りに存在します。  
       
     
   劇場跡の大階段を降りて突き当りが崖になっています。ここに橋が架かっていたと推測します。写真の赤い部分です。川向いには 道があります。夏は見えませんが、木の葉が落ちた冬場なら 確認できます。   写真のように川にせり出すように石積みがしてあります。ちょうど橋台のようです。
       
     
   2019/12/20 実際に歩いて来ました。3時間ほど掛かります  
     
    炭の道のようです。牛車道だったらしく道幅はかなり広く 傾斜もほとんどありませんでした。橋が腐って落ちていて谷底まで降りて、また這い上がるなど多少の危険がともないます。
       
   劇場上部の止水    
   小足谷劇場の敷地は、巾100m近くあります。小学校は両サイドが谷であり上部に降った雨は谷に流れる水はけの良い所です。隣の劇場ですが 東の小学校との間に谷がありますが西は尾根になっています。中央に小さいものですが谷になっています。そのため 降った雨は中央部に流れるようになります。

劇場の上部の山の斜面に石垣を築き、雨を東の谷に流すようにしました。今も その止水も跡が残っています。
   
   
   落ち葉などで溝が埋まっていますが石垣が残っている    谷まで流した側溝が残り、今でも大雨の時 水が流れているのではないだろうか
       
 

2022/06/24